第1話 ことのはじまり
文字数 4,599文字
「もーやだ! 毎日毎日書類整理とお客さんのカウンセリング! だいたいこの業務体制を四人でやるのがおかしいんだって! 求人を出してよ獅黒さん!」
昼食時。口にものを入れながら職場の不満を蘇方 はまくし立てた。が、同時に、左からは青螺 の平手が、正面からは獅黒 が使っている雪平鍋が飛んできて、蘇方は多方面からペシャンコとなる。
「行儀が悪いぞ」
「お行儀が悪いですよ」
気を失い、炎がではじめている蘇方の頭を撫でながら、青螺は、何食わぬ顔で野菜ジュースを飲んでいる獅黒を見る。
「確かに、息が詰まってはいるな」
「そうですか。まあ、監禁されているのと変わりないですからね。せっかくですから社員旅行でも行きましょうか」
「まじで! どこどこ!」
「北海道です」
やったー! と蘇方と青螺がハイタッチする。季朽葉 は、北海道という土地がどういうところか分からない様子で、きょとんとした顔をしていた。
「では、急ですが、一週間後に北海道へ。せっかくですから、門を使わずに飛行機で行きましょうか」
「いいねえ、いいねえ! 楽しみだねえ、青螺ちゃん!」
「おう、そうだな」
「素敵なところそうだから、俺も楽しめそうだね」
きゃっきゃと騒ぐ三人、ちょっと嬉しそうな獅黒。
うきうき気分で一週間が過ぎ、四人は、羽田空港へと降り立っていた。事前に購入した飛行機の搭乗券で登場手続きを済ませ、見知らぬテクノロジーを目にしてあちこちへ行ってしまう季朽葉を三人で抑えながら、飛行機に乗って約二時間。一行が到着したのは、北の玄関口、新千歳空港である。うわー! と目を輝かせるのは青螺と蘇方。後ろから、縄でぐるぐる巻きにされた季朽葉を引きずっている獅黒も表情が綻んでいる。
三人は札幌行特急列車が到着するまでおみやげモールを散策。列車に遅れそうになったが何とか滑り込む。しかし、楽しげだった旅が徐々に陰りが見えはじめる。獅黒以外の三人が、札幌に近づくにつれ、顔が青ざめてきたためだ。
「オレ、なんだか、気持ち悪い……」
「奇遇だな。私もだ」
「実は俺も」
三人は微動だにしない獅黒の顔に注目する。何も変化がないと思いきや、列車が振動するたびに、眉毛がピクリと動いている。三人と同様に不快のようだった。
なんとか札幌駅に到着し、適当な場所で休憩をしたあと、獅黒の提案で四人は地元産ビールのテーマパークへと赴いた。園内の博物館を見学していると、展示物のひとつを見ていた季朽葉が、おや? と不思議そうな声を上げる。
「どうしましたか」
「君。あえてここの土地にしただろう」
「はて。なんのことやら僕にはさっぱり」
獅黒は、後ろ手に結ばれた季朽葉の拘束の端の紐を握りながら、おどけて肩を竦める。
試飲会場で、おのおのビールを飲んだあと、三人はふたたび札幌市街、大通公園駅付近に戻る。早々にホテルへチェックイン。夕飯には早いし、出歩くには遅い。さてどうしようかといったところで、土地勘のない三人は同時に唸る。するとそこにコンビニエンスストアのビニール袋を手に持った獅黒が三人が集まる部屋に戻ってくる。ちょっと晩酌には早いですが、と獅黒が差し出したのは有名なビール。植物性なので獅黒と季朽葉も飲むことができるため、四本だった。だが……、いち早く蘇方が、その缶に違和感を覚える。
「あれ? このビールって、こんな模様がついていたっけ」
見れば、黒円に金色の星、その中央に、油性ペンかなにかで、目のようなものが描かれていた。
「さあさ、季朽葉くんも、ぐいっと」
ぷしっ、と獅黒によってプルタブがあげられるが……。
「君、わざと俺に差し出しただろう?」
ひくひくと頬を動かし、拒否したい気持ちでいっぱいの季朽葉であったが、邪気だらけの獅黒の笑顔に負けて、仕方がなく冷たい缶を受け取った。
「いっただっきまーす!」
一足先にビールを飲んでいく蘇方。ゴクゴクと喉が鳴る。
しかし。
「う」
蘇方は口を押さえてそのままトイレへと駆け込んだ。汚らしく吐く音がしばらく響いて、青螺がその場から離れて蘇方の様子を見に行った。
残った季朽葉は、ビールには手を付けず、淡々と、いたずら好きの愛しい人に答え合わせを言う。
「さっき君のすまーとふぉんで調べたんだけれども、この土地は五芒星の加護を受けているんだね。開拓の星。ホッキョクセイというらしいが、それに俺たちが中てられていたわけだ。で、さっき君がいたずらしたこれね」
机のうえに置かれた生ビール。中央に描かれた五芒星に油性ペンで目を描いたもの。紛れもないエルダーサインである。このマークは別名旧神の印といい、邪神たちに絶大な効果をもたらすと言われている。
「……僕が、ただの旅行を計画するわけがないじゃありませんか」
するとそこへ、一通り吐き終わった蘇方と、やれやれとため息をつく青螺が帰ってくる。
「おふたりとも、失礼致しました。ビールはまだありますから、落ち着いたら繁華街でおいしいものを食べに行きましょう」
げんなりとしていた二人の表情がよみがえり、名状しがたい四人は夜の街に繰り出していく。北海道の海の幸、山の幸に舌鼓を打ち、ホテルに戻って普段はしないような話に花を咲かせる。四人は珍しく夜更かしをして語り合った。いつもは人間性を失わないように規則正しい生活を送っている彼ら。少しでも生活が乱れることがあれば、蘇方からは炎が噴き出し、季朽葉の顔には仮面ができはじめ、青螺の肌は鱗が現れ、獅黒はひとを小馬鹿にする回数が増える。しかし今日は違った。そうはならなかった。彼らは不思議に思いながらも非常に楽しい時間を過ごして帰路につく。
札幌駅の改札口に潜ろうとした彼らだったが、獅黒が突然立ち止まり、自分はもう数時間滞在すると言い出した。
「では、門での仕事を三人に任せます」
「ずーるーいー」
駄々を捏ねだした蘇方の脇腹に青螺のひじうちが入る。呻いた蘇方をよそに青螺は獅黒に心配をかけないように笑った。
「あとは任せてくれ」
「お願いします」
三人は改札口を通り、ひとびとの雑踏に紛れ、姿を消していった。彼らの姿が見えなくなるまで手を振っていた獅黒であったが、彼らエスカレーターで駅のホームまで向かうのを見届けると、手を下げ、険しい表情となる。
「さて」
スーツの袖口を引いて腕時計を見る。ジャケットの襟を正して、ビジネスバッグの取っ手をしっかりと握り、獅黒は札幌駅から出る。向かうは駅に程近い喫茶店だった。
帰宅の途につく会社員らに混じって獅黒は歩いた。やがて蔦が壁に伝った建物に辿り着いた。外には黒い看板があり、店名のほか、コーヒーや茶菓子の名前が可愛らしくチョークで書かれている。
――『まじない喫茶』
獅黒は自分と変わらない温度のドアノブを握って引いた。内部は暖色の証明で纏められ心の芯まで温かくなる。獅黒が店内に入ってきたのに気がついた店員が、机の上の清掃の手をやめて、彼に近づいてきた。
「いらっしゃいませ――」
和やかに対応したはずの店員から笑顔が一瞬で消え去った。年齢は初老で背は獅黒よりやや高く、髪はシュガーのように真っ白だ。細面で美しく、しわが目立った渋い顔立ちだが、日本人とはまた違う趣があった。店員は手に持っていた布巾をたたみなおし、キッチンに置いたあと、獅黒の前に立つ。
「まさか、あなた直々にこちらに来てくださるとは思いもよりませんでした」
その顔は険しい。獅黒のことを客とも思っていないようだ。
「お願いがあってこちらにきました」
「わたくしがその願いとやらを聞くとお思いで?」
獅黒は返事の代わりに肩をすくめ、そしてニヤリと笑う。
「ああ。やだやだその笑顔。邪悪に目覚めたあなたたちは、どんなに代替わりをしてもその顔だけは一緒だ。ねえ。ニャルラトホテプ」
「……僕は獅黒です。何せ神性が混じっておりますので」
「四国だか布告だか知らないけれども、どれも一緒でしょう。邪神なんだし」
はあ、と深い溜め息をついて、大げさに頭に手を当てながら店員は首を振る。
「とはいえ、わざわざわたくしの店に来てくれたんだ。珈琲の一杯くらいはごちそうしますよ。好きなところに座ってください」
それではお言葉に甘えまして、と獅黒は適当な席に腰掛ける。ジャケットを脱ぎ、物置きカゴにビジネスバッグを置いて、手書きと思われるメニューをひらいた。魔女の手作りガレット、黒猫の足跡付きガトーショコラ、妖精蜜が掛かったパンケーキ。どれも、お伽噺にでてきそうな名前がついている。
「で、どれに致しますか」
獅黒にはどれも食べられなかったので、無難な珈琲を注文することにした。返事をした店員は手に持っていた三又のフォークを顔の横でくるりと回転させた。きらきらとした光の粒がフォークのさきに集まり、獅黒が座る席の、机の上にフォークを向ける。ぽん! という音がして煙が吹き出る。やがて白い煙は晴れて、獅黒の目の前にアンティークカップとソーサーがあらわれた。なかは黒い液体が満たされている。
「せめて隠しませんか」
「あなたにしたって意味がないし」
店員はフォークをポケットにしまった。そして、自分で持ってきた水が入ったコップを机のうえに置いたあと獅黒の前の席に腰を下ろす。獅黒は、珈琲をひとくち飲んで、カップを置き、眼前で足を組んで座る店員を見る。
「単刀直入に言います。あなたが大屋敷に封印をした、僕のところの野田 丞 さん」
「直球ですねえ。で、それをやるわたくしのメリットは」
「祈りの門の場所をお教えします」
野田は飲んでいた水を吹き出した。
「ちょっと。正気?」
「僕が正気を保っているとお思いで?」
「……まあそれもそうか。いいよ。それで手を打とう」
野田は懐からメモを取り出し、同じく懐からペンを取り出して、さらさらと何かを書いた。そのメモを獅黒に渡す。
「それを持って祈りの門をひらけばリオメルのところに行けるよ」
「ありがとうございます。では僕からはこれを」
獅黒がスーツのシガーポケットから取り出したのは一枚の紅葉の葉。通常の葉とは違いほんのりと光を放っている。
「……そちらさんの門、なんで例の姿になったんだっけか」
「なに。簡単なことです。人口が増えたから、部署分けがなされただけ。告知もなく突然だったので、先代たちはバグと勘違いしたようですがね」
と、そこで獅黒はガスライターと手製の紙巻たばこをとりだし、口に咥えて火をつけようとする。
「おっと。ここは禁煙だよ」
「失礼致しました」
煙草とライターが懐にしまわれる。獅黒は冷めた珈琲を飲み干して席を立ち上がり、店の出入り口まで歩いていく。
「それでは、これにて失礼致します。野田さん」
獅黒は、野田の方に振り返る。
「いえ。――ノーデンス」
突然、扉が開け放たれた。扉の向こう側には、連なる鳥居と、燃え盛る色の紅葉が、ずっと奥まで続いている。風が吹き荒れ、たくさんのもみじの葉が入り込んで野田の視界を奪った。嵐が止んだ頃には、細身のスーツ姿は消え去っていた。
昼食時。口にものを入れながら職場の不満を
「行儀が悪いぞ」
「お行儀が悪いですよ」
気を失い、炎がではじめている蘇方の頭を撫でながら、青螺は、何食わぬ顔で野菜ジュースを飲んでいる獅黒を見る。
「確かに、息が詰まってはいるな」
「そうですか。まあ、監禁されているのと変わりないですからね。せっかくですから社員旅行でも行きましょうか」
「まじで! どこどこ!」
「北海道です」
やったー! と蘇方と青螺がハイタッチする。
「では、急ですが、一週間後に北海道へ。せっかくですから、門を使わずに飛行機で行きましょうか」
「いいねえ、いいねえ! 楽しみだねえ、青螺ちゃん!」
「おう、そうだな」
「素敵なところそうだから、俺も楽しめそうだね」
きゃっきゃと騒ぐ三人、ちょっと嬉しそうな獅黒。
うきうき気分で一週間が過ぎ、四人は、羽田空港へと降り立っていた。事前に購入した飛行機の搭乗券で登場手続きを済ませ、見知らぬテクノロジーを目にしてあちこちへ行ってしまう季朽葉を三人で抑えながら、飛行機に乗って約二時間。一行が到着したのは、北の玄関口、新千歳空港である。うわー! と目を輝かせるのは青螺と蘇方。後ろから、縄でぐるぐる巻きにされた季朽葉を引きずっている獅黒も表情が綻んでいる。
三人は札幌行特急列車が到着するまでおみやげモールを散策。列車に遅れそうになったが何とか滑り込む。しかし、楽しげだった旅が徐々に陰りが見えはじめる。獅黒以外の三人が、札幌に近づくにつれ、顔が青ざめてきたためだ。
「オレ、なんだか、気持ち悪い……」
「奇遇だな。私もだ」
「実は俺も」
三人は微動だにしない獅黒の顔に注目する。何も変化がないと思いきや、列車が振動するたびに、眉毛がピクリと動いている。三人と同様に不快のようだった。
なんとか札幌駅に到着し、適当な場所で休憩をしたあと、獅黒の提案で四人は地元産ビールのテーマパークへと赴いた。園内の博物館を見学していると、展示物のひとつを見ていた季朽葉が、おや? と不思議そうな声を上げる。
「どうしましたか」
「君。あえてここの土地にしただろう」
「はて。なんのことやら僕にはさっぱり」
獅黒は、後ろ手に結ばれた季朽葉の拘束の端の紐を握りながら、おどけて肩を竦める。
試飲会場で、おのおのビールを飲んだあと、三人はふたたび札幌市街、大通公園駅付近に戻る。早々にホテルへチェックイン。夕飯には早いし、出歩くには遅い。さてどうしようかといったところで、土地勘のない三人は同時に唸る。するとそこにコンビニエンスストアのビニール袋を手に持った獅黒が三人が集まる部屋に戻ってくる。ちょっと晩酌には早いですが、と獅黒が差し出したのは有名なビール。植物性なので獅黒と季朽葉も飲むことができるため、四本だった。だが……、いち早く蘇方が、その缶に違和感を覚える。
「あれ? このビールって、こんな模様がついていたっけ」
見れば、黒円に金色の星、その中央に、油性ペンかなにかで、目のようなものが描かれていた。
「さあさ、季朽葉くんも、ぐいっと」
ぷしっ、と獅黒によってプルタブがあげられるが……。
「君、わざと俺に差し出しただろう?」
ひくひくと頬を動かし、拒否したい気持ちでいっぱいの季朽葉であったが、邪気だらけの獅黒の笑顔に負けて、仕方がなく冷たい缶を受け取った。
「いっただっきまーす!」
一足先にビールを飲んでいく蘇方。ゴクゴクと喉が鳴る。
しかし。
「う」
蘇方は口を押さえてそのままトイレへと駆け込んだ。汚らしく吐く音がしばらく響いて、青螺がその場から離れて蘇方の様子を見に行った。
残った季朽葉は、ビールには手を付けず、淡々と、いたずら好きの愛しい人に答え合わせを言う。
「さっき君のすまーとふぉんで調べたんだけれども、この土地は五芒星の加護を受けているんだね。開拓の星。ホッキョクセイというらしいが、それに俺たちが中てられていたわけだ。で、さっき君がいたずらしたこれね」
机のうえに置かれた生ビール。中央に描かれた五芒星に油性ペンで目を描いたもの。紛れもないエルダーサインである。このマークは別名旧神の印といい、邪神たちに絶大な効果をもたらすと言われている。
「……僕が、ただの旅行を計画するわけがないじゃありませんか」
するとそこへ、一通り吐き終わった蘇方と、やれやれとため息をつく青螺が帰ってくる。
「おふたりとも、失礼致しました。ビールはまだありますから、落ち着いたら繁華街でおいしいものを食べに行きましょう」
げんなりとしていた二人の表情がよみがえり、名状しがたい四人は夜の街に繰り出していく。北海道の海の幸、山の幸に舌鼓を打ち、ホテルに戻って普段はしないような話に花を咲かせる。四人は珍しく夜更かしをして語り合った。いつもは人間性を失わないように規則正しい生活を送っている彼ら。少しでも生活が乱れることがあれば、蘇方からは炎が噴き出し、季朽葉の顔には仮面ができはじめ、青螺の肌は鱗が現れ、獅黒はひとを小馬鹿にする回数が増える。しかし今日は違った。そうはならなかった。彼らは不思議に思いながらも非常に楽しい時間を過ごして帰路につく。
札幌駅の改札口に潜ろうとした彼らだったが、獅黒が突然立ち止まり、自分はもう数時間滞在すると言い出した。
「では、門での仕事を三人に任せます」
「ずーるーいー」
駄々を捏ねだした蘇方の脇腹に青螺のひじうちが入る。呻いた蘇方をよそに青螺は獅黒に心配をかけないように笑った。
「あとは任せてくれ」
「お願いします」
三人は改札口を通り、ひとびとの雑踏に紛れ、姿を消していった。彼らの姿が見えなくなるまで手を振っていた獅黒であったが、彼らエスカレーターで駅のホームまで向かうのを見届けると、手を下げ、険しい表情となる。
「さて」
スーツの袖口を引いて腕時計を見る。ジャケットの襟を正して、ビジネスバッグの取っ手をしっかりと握り、獅黒は札幌駅から出る。向かうは駅に程近い喫茶店だった。
帰宅の途につく会社員らに混じって獅黒は歩いた。やがて蔦が壁に伝った建物に辿り着いた。外には黒い看板があり、店名のほか、コーヒーや茶菓子の名前が可愛らしくチョークで書かれている。
――『まじない喫茶』
獅黒は自分と変わらない温度のドアノブを握って引いた。内部は暖色の証明で纏められ心の芯まで温かくなる。獅黒が店内に入ってきたのに気がついた店員が、机の上の清掃の手をやめて、彼に近づいてきた。
「いらっしゃいませ――」
和やかに対応したはずの店員から笑顔が一瞬で消え去った。年齢は初老で背は獅黒よりやや高く、髪はシュガーのように真っ白だ。細面で美しく、しわが目立った渋い顔立ちだが、日本人とはまた違う趣があった。店員は手に持っていた布巾をたたみなおし、キッチンに置いたあと、獅黒の前に立つ。
「まさか、あなた直々にこちらに来てくださるとは思いもよりませんでした」
その顔は険しい。獅黒のことを客とも思っていないようだ。
「お願いがあってこちらにきました」
「わたくしがその願いとやらを聞くとお思いで?」
獅黒は返事の代わりに肩をすくめ、そしてニヤリと笑う。
「ああ。やだやだその笑顔。邪悪に目覚めたあなたたちは、どんなに代替わりをしてもその顔だけは一緒だ。ねえ。ニャルラトホテプ」
「……僕は獅黒です。何せ神性が混じっておりますので」
「四国だか布告だか知らないけれども、どれも一緒でしょう。邪神なんだし」
はあ、と深い溜め息をついて、大げさに頭に手を当てながら店員は首を振る。
「とはいえ、わざわざわたくしの店に来てくれたんだ。珈琲の一杯くらいはごちそうしますよ。好きなところに座ってください」
それではお言葉に甘えまして、と獅黒は適当な席に腰掛ける。ジャケットを脱ぎ、物置きカゴにビジネスバッグを置いて、手書きと思われるメニューをひらいた。魔女の手作りガレット、黒猫の足跡付きガトーショコラ、妖精蜜が掛かったパンケーキ。どれも、お伽噺にでてきそうな名前がついている。
「で、どれに致しますか」
獅黒にはどれも食べられなかったので、無難な珈琲を注文することにした。返事をした店員は手に持っていた三又のフォークを顔の横でくるりと回転させた。きらきらとした光の粒がフォークのさきに集まり、獅黒が座る席の、机の上にフォークを向ける。ぽん! という音がして煙が吹き出る。やがて白い煙は晴れて、獅黒の目の前にアンティークカップとソーサーがあらわれた。なかは黒い液体が満たされている。
「せめて隠しませんか」
「あなたにしたって意味がないし」
店員はフォークをポケットにしまった。そして、自分で持ってきた水が入ったコップを机のうえに置いたあと獅黒の前の席に腰を下ろす。獅黒は、珈琲をひとくち飲んで、カップを置き、眼前で足を組んで座る店員を見る。
「単刀直入に言います。あなたが大屋敷に封印をした、僕のところの
過去の従業員
を解放してください。「直球ですねえ。で、それをやるわたくしのメリットは」
「祈りの門の場所をお教えします」
野田は飲んでいた水を吹き出した。
「ちょっと。正気?」
「僕が正気を保っているとお思いで?」
「……まあそれもそうか。いいよ。それで手を打とう」
野田は懐からメモを取り出し、同じく懐からペンを取り出して、さらさらと何かを書いた。そのメモを獅黒に渡す。
「それを持って祈りの門をひらけばリオメルのところに行けるよ」
「ありがとうございます。では僕からはこれを」
獅黒がスーツのシガーポケットから取り出したのは一枚の紅葉の葉。通常の葉とは違いほんのりと光を放っている。
「……そちらさんの門、なんで例の姿になったんだっけか」
「なに。簡単なことです。人口が増えたから、部署分けがなされただけ。告知もなく突然だったので、先代たちはバグと勘違いしたようですがね」
と、そこで獅黒はガスライターと手製の紙巻たばこをとりだし、口に咥えて火をつけようとする。
「おっと。ここは禁煙だよ」
「失礼致しました」
煙草とライターが懐にしまわれる。獅黒は冷めた珈琲を飲み干して席を立ち上がり、店の出入り口まで歩いていく。
「それでは、これにて失礼致します。野田さん」
獅黒は、野田の方に振り返る。
「いえ。――ノーデンス」
突然、扉が開け放たれた。扉の向こう側には、連なる鳥居と、燃え盛る色の紅葉が、ずっと奥まで続いている。風が吹き荒れ、たくさんのもみじの葉が入り込んで野田の視界を奪った。嵐が止んだ頃には、細身のスーツ姿は消え去っていた。