第2話 人魚

文字数 4,469文字


 ☆

 リオメルは、薄金の髪と、冬の冷たい空気を纏わせたような水いろの瞳で、まことに美しい少年であるが、どうしてか物心ついたときから服装は女児のものであった。彼が、自分が纏う服が女児のものであると気が付いたのは、家のなかにある書物と、時折やってくるこの家の主の親友と、そして、同じく己が住まう屋敷にやってくる浅黒い肌を持った神父から耳にしたことによる。
 屋敷は、屋敷の主とリオメルが二人だけで住むにはかなり大きい。しかし手入れは行き届いているようで、リオメルが図書室へ入って書物を読んでも、書棚や机などにはいっさい埃はなく、リオメルはここでむせるということはなかった。
 さて今日はどうしようかとリオメルは考える。屋敷の主は自室に籠ったままで月のある晩はそこから出ようとしない。何度扉を拳で叩いても応答しない。それどころかリオメルの声に怯えて喚き散らす始末であった。今日もまた彼は苦しんでいるのだろう。わざわざ腕の良い大工を呼んで防音仕様にしたようで、おかげで、リオメルの耳にも声は届くことはなくなった。
 天井から釣り下がるステンドグラスを模した電燈のしたを、リオメルが十個ほど通ったころ、リオメルは、この屋敷の図書館へ到着する。
 勝手知ったる我が家といった風情で、リオメルは取っ手をしたに下げ、扉を引いた。ひらいてすぐ近くにある電燈のボタンを押して明かりを室内に灯す。昼のうちに家主が差していったのであろうか、真ん中にある丸テーブルのうえには一輪挿しの花瓶に、薔薇が三本、飾られていた。なかを覗き込むと水は満たされていない。薔薇が萎れかけていたので、リオメルは同じく机のうえにあった水差しを両手に抱えて、水道の蛇口から水を汲み、花瓶に入れる。薔薇が蘇ることを祈りつつ、リオメルは、その隣に乱雑に積まれていた書のひとつに手を伸ばして、表紙を静かにひらいた。
 表題は、『薔薇を踏みしだく愚かなリオメル』。流麗な文体で書かれた、誰かの日記のようなその本を、少年・リオメルは一文字一文字、噛み締めるようにして読んでいく……。

 ☆

 一か月まえ、純白のウェディングドレスを纏っていたとは信じられないほどに所帯じみたな、などと、

は、真っ白い皿を洗いながら考える。彼女の夫であるレネーヴェは、今日も仕事で忙しく、帰りは遅くなると、つい先ほど、連絡端末に通信が入っていた。リオメルはそれでも辛くなかった。いわゆる新婚夫婦で、そのようなすれ違いの生活が寂しくないといえば嘘になる。だが、夫はこのように、忙しい時間の合間を縫っては連絡をしてくれるのだ。ご丁寧に文末に愛しているよと付けてまで。レネーヴェが就いている仕事は、実はリオメルはよく知らない。守秘義務が多く家族であっても語ることが出来ないらしい。
 リオメルはそこで皿洗いをやめる。新しく買った洗剤の落ちが良いようだ。彼女は洗った皿をダイニングキッチンの明かりに掲げて、あらゆる角度から汚れを確認し、布巾で拭いて、食器棚に丁寧にしまうと玄関口のベルが鳴った。夫レネーヴェが帰宅したようである。念のため玄関のカメラ映像を確認すると、ニコニコと笑うレネーヴェの整った顔がこちらを向いている。リオメルは、ほっと胸を撫で下ろして鍵を解除し、扉を開いて夫を招き入れた。
「おかえりなさい、あなた」
「ただいま。家は何でもなかったかい」
「ドローンの荷物配達があったくらいで、ほかに特にはなかったわ」
 後ろ手にレネーヴェが扉を閉めると、彼は玄関の床に仕事鞄を置いて、エプロンをつけたままのリオメルを抱き締める。
「俺は今日も君のところへ帰ってこれた。ただいま、リオメル」
 リオメルの顔のとなりすぐにレネーヴェの唇があるものだから、吐息と、彼が持つ独特の美声が、より身近に感じられたので、リオメルはつい頬を染める。
「あなた、ごはんが出来ておりますから、早くお着替えになって」
「ああ、ごめんごめん。それじゃあ、またあとでね」
 レネーヴェはリオメルから身を離し、玄関から部屋に上がる。リオメルも床に置かれた夫の鞄を手に持ちつつ、彼の背を追う。レネーヴェに鞄を手渡し、彼が自室に入ったのを見届けると、リオメルの顔がさらに綻んだ。
 リオメルは居間を見回した。洒落た電燈、大きなソファ。毛足が長めの、上品な手触りのラグ。天井近くではレネーヴェが海外出張で買ってきたという鳩時計が鳴いている。幸せな結婚のはずなのに、どうしてこんなにも不安に駆られるのか。リオメルはさきほど洗ったばかりの白い皿を穴が開くほどに見つめた。すると、蝶番がきいきいとなる音がした。着替え終わったレネーヴェが、茫然としていたリオメルの横に立っている。
「どうしたんだい?」
「なんでもないわ」
「うそ。君がそういうときは、何か悩みごとがあるときだよ。……でも、まずは、さきに君が腕を振るった食事が食べたいな。今日はなんだい?」
 リオメルが料理の献立をレネーヴェに伝える。レネーヴェはにっこりと微笑んでリオメルをふたたび抱きしめたあと、食事が用意されているテーブルに向かった。おなじくリオメルも向かいに座り、二人は揃って、食事前の、(ノーデンス)への祈りをささげたあと、フォークとスプーンを手に取った。ノーデンスとは、リオメルらの民族が信仰する宗教の神の一柱だ。悪しき神々を滅ぼすとされる海神である。
「テレビ放送をつけてもいいかい?」
「ええ」
 テレビのリモコンを手に取り、レネーヴェはテレビの電源を付ける。番組は夕方のニュース。キャスターが、邪教信徒による犯罪が起きた、との原稿を読み上げていて、すぐさまその現場の映像が映し出される。二人は同時に眉をしかめた。レネーヴェは慌ててテレビの電源を消し、フォークとナイフを置いて、リオメルの暗い顔を見る。
「ねえ、リオメル」
「なにかしら」
「食事どきに言うことでもないのかもしれないけれども、その。……決心は、ついたかい」
 リオメルは動かなかった。声も発しなかった。レネーヴェがリオメルに問うたこと。それは、夫婦における営みについてであった。彼女らは、結婚して一か月が経過したあとも、一度も結ばれていなかった。レネーヴェがリオメルに聞いたことの本質は、レネーヴェが男性としての欲を満たしたいということではない。彼は彼女を心底心配していたのだ。
「……食べましょう。煮物が冷めてしまうわ」
「うん。ごめん」
「いいえ、わたくしが悪いのですから、あなたは気に病む必要はありませんわ」
 そう言って、リオメルは魚介のスープを飲む。その後に交わされた会話は、レネーヴェの仕事の様子などだけ。そのうち雷鳴がとどろき、雨音が窓を叩く音だけが、彼女らを包み込む。無言のままに食事が終わり、リオメルは、レネーヴェが好むコーヒー豆をミルで引き始めた。ネルドリップでコーヒーを落とし、夫がくつろぐときに使うマグカップにコーヒーを注いで、ソファで新聞を読むレネーヴェのまえに差し出して、彼女は隣に座る。
「あなた」
「なんだい」
 レネーヴェが問うも、リオメルは答えない。レネーヴェは持っていた新聞を畳み、机のうえに置いて、リオメルの肩を抱く。
「リオメル。俺は君のすべてを知りたいと思う。君を傷つける者は、俺じきじきに打ち倒そう」
 レネーヴェの勇ましい宣言のあと、室内の電燈が消える。どうやら、激しい雷雨のために停電が起こったようだった。リオメルの唇に、コーヒーの香りと、柔らかい感触が触れる。突然のレネーヴェの接吻。リオメルは抵抗せずに身を任せた。
「わたくしの全てをですか。後悔はなさいませんか」
「もちろんだよ。俺は、君のすべてを愛しているんだから」
 ついばみ、触れるだけの接吻が、やがて互いを喰らうようなものに変わっていく。リオメルの華奢な身は、すでにレネーヴェの手に押し倒されている。節が目立つ長い指が、喉もとまできっちりと止められたブラウスの第一ボタンを外した。
「続けてもいいかい」
「かまいませんが、せめて、寝室で」
「ごめんね」
「どうか謝らないでくださいませ。わたくしはあなたを愛しています。この気持ちに偽りはないのです」
 二人はふたたび接吻を交わし、身を離し、立ち上がる。レネーヴェはリオメルの腰を抱き、寝室の扉をひらいて、彼はまず、リオメルを寝台に座らせる。レネーヴェは、リオメルを怯えさせないよう、彼女の視線に目を合わせるようにひざまずいて、手の甲から指輪がはまっている薬指に向かって接吻を連続して落としていく。最後に爪先を軽く咥えたあと、レネーヴェは立ち上がってリオメルの隣に座り、彼女を優しく弱い力で押し倒した。
 リオメルが持つ決心と理性と期待と不安がブラウスのボタンと共に外されていく。時折、カーテンの隙間から雷光が差して、リオメルの細すぎる身体を暗闇から切り取った。レネーヴェの手は、装飾の少ない下着を静かに取り去る。わき腹からへそ回り、呼吸で上下する肋骨と、かさの少ない乳房。しかしレネーヴェはすぐには触れない。彼女を怯えさせないように唇に接吻をして背中に手のひらを回して優しく摩る。背骨のくぼみに指を這わせる。そのあいだにもリオメルの頬や首筋、耳を食んだ。
 すでに互いに纏う服はない。そして、レネーヴェは、リオメルの、一か月に渡る自分への拒絶の答えを知り、目を見張った。腿に、骨盤周辺に、小さな、しかしとても目立つ……あざのような、湿疹のようにも見える奇怪な何かが、広がっていたのである。それはまるで鱗のようであった。真っ白なシーツの寝台のうえで、見知らぬ快楽に身悶えているさまは、まるで月光を反射している海面を泳ぐ人魚のよう。レネーヴェは思わず「綺麗だよ」と呟いて、彼女の腿のあいだに手のひらを差し込んだ。力を込めるとあっさりとそれら両腿は離れた。童話に出てくるような人魚のつながった足などでは断じてなかったが、もしかしたら、両足が魚の尾びれなのかもしれないなどとレネーヴェは思い、ばかばかしいと考え直して、さらに彼はリオメルと距離を詰めた。レネーヴェは目の前の海に身を沈める。一滴の赤が水面を打ち、徐々に波紋が広がっていって、まるで海の底に泳いで向かっては、苦しくなって海面へ顔を出すような行為に、二人は没頭した。脳に酸素が身体に供給されなくなっていき、ふたりは、周辺にある少ない空気を奪い合うように、口付けては唇を離し、愛を二酸化炭素替わりに吐き出していく。やがて訪れる打ち寄せる波の端、白いしぶきが互いの思考を洗った。その後すぐにリオメルは意識を失ったので、レネーヴェは彼女の月光いろの髪をやさしく撫で、指で髪を漉いた。
「おやすみ、リオメル」
 レネーヴェはそのまま彼女の隣に横たわる。自分と、リオメルの身体に毛布を掛けて、レネーヴェはリオメルと同じく、意識を暗黒へと沈めた。
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登場人物紹介

リオメル【主人公】

自分に自信の無い、おどおどした地味な主婦。あることをきっかけに妖艶な美女に変容する。

レネーヴェ【主人公の夫】
容姿端麗、非の打ちどころのない男。リオメルのことを愛している。彼の就いている職業を、リオメルは知らない。かつて、アルとは深い仲だったようだが……。

アル【レネーヴェの幼馴染かつ親友】

街の芸術家。レネーヴェの親友だが、アル自身はそうとは思っていない。レネーヴェに対して偏執的な愛を向ける。

小山内【街の教会の神父】

東国とのハーフで、故郷を離れて、リオメルたちが住む街に移住してきた。非常に信心深い。孤児院を営んでいる。

季朽葉【祈りの門の番人】
リオメル、アル、レネーヴェの三人を、高次元の場所である『祈りの門』から見守っている。アルと強く関わることになり、彼にこきつかわれている。

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