第10話 黄いろの薔薇
文字数 2,956文字
一週間後。
リオメルはアルの人形工房に訪れていたが、扉をひらいてすぐに違和感に気がついた。アンジェラがいないのだ。いったいどうしたのだろうとリオメルはアルに問うと、アルは以下のように言った。
「実は、急に辞めると連絡を受けまして、私も驚いているところです」
腕を組み神妙な面持ちで答えるアル。リオメルはひどく落胆した。結婚をして、この街に引っ越してきて初めて出来た友達だった。自分よりも明るく積極的で、憧れに近いものを抱いていたのにと彼女は肩を落とす。
「そうですか……。残念です」
「長く教室をやっていると、こういうこともたまにあります。気を取り直して前回の続きを。宿題はやってきましたか?」
「……は、はい」
アルに言われ、リオメルは慌てて鞄から方眼紙を取り出した。それを着いた席の机のうえに置いて広げる。
「どれどれ……。なるほど。こういう子を作りたいのですね。基礎を出来ていないとやや難しいかもしれません。でも、いいですよ。イメージを固めてきたことは」
「図をなおした方がいいでしょうか」
「いえ、ひとまずはこちらで作ってみましょうか」
アルはその場からいったん離れ、そこから少し遠くにある、資材が置かれている部屋に入った。すぐに物を抱えてやってくる。彼が両手いっぱいに持っている物は、梱包などに使われる芯材。そしてトレーシングペーパーである。それらをリオメルのまえに置いて、アルは説明を開始した。
「トレーシングペーパーを設計図のうえに置いて、数ミリ縮めたところに線を書きます。それらを切り取り、芯材に油性ペンで写して、切り取っていきます……」
まずアルはリオメルに手本を示した。起用にペンで写し取っていき、大きい芯材をのこぎりで切断する。
「おおまかに切り取ったら、今度は細部を削っていきます。このように」
目の荒いヤスリでざくざくと芯材が削られていく。瞬く間に無機質な人工物が人の腕のかたちに変化していった。
「では、やってみてくださいね」
はい、とリオメルは意気込んだ返事をし、刃物を手に持った。リオメルの細腕には結構な力作業だったが、ときどきアルに手伝ってもらいながら作業を進めていった。気がつけば、すでに時間は終了時刻となってしまっている。アルは教室にいる生徒たちに終わりの宣言をして彼女らを見送っていく。最後まで残っていたリオメルもまたほかの生徒たちと同じように教室から出ようとした。が、鞄を肩にかけたところでリオメルはアルに呼び止められる。
「少し、聞きたいことがあるのですが、よろしいですか」
「え? ええ」
リオメルはアルの席のとなりに椅子を置いた。腰掛け、彼が続ける言葉に耳を傾ける。
「さきほど見せてもらった人形の設計図の腰元に、鱗のような模様がありましたが、あれはどういった意味で?」
しまった、とリオメルは上を向いて、この教室に発行された異教捜査局の営業許可証を見上げる。異教の神々を模したわけではないが、そうとられてもおかしくはない。この教室にも多数の人魚像はあるものの、どれも三又の槍を持っていたり、貝殻や海豚 などのモチーフを身につけていたりしていた。リオメルの設計図にそれらはない。最初から異教の伝説をモチーフにしたと言えば良かったと彼女は後悔をした。夫の親友なのであれば他言はすることはないだろうとの期待を胸に、仕方なくリオメルはアルに真実を伝えることを決心する。
「実は、その少女は自分自身を模したのです。その、幼い頃から、それらが痣としてあって」
「お気に障ってしまったら申し訳ないのですが、この図は比喩表現ではない、ということでしょうか」
やや沈黙してから、リオメルは返事をした。
「はい、そうです。誓って異教を信仰しているというわけではありません」
「……わかりました。もう遅いですから、お帰りください」
これ以上の詮索は無粋だと判断したのかアルはリオメルから視線を外した。リオメルもまたアルに背を向ける。早く家に帰ってあのひとの声を聞きたい、とリオメルは足早に教室の玄関へと向かう。
「やっと見つけた。神様の生まれ変わり。偶然というものは本当に恐ろしいね」
アルはリオメルを後ろから抱きしめるかたちで押さえ込んだ。悲鳴をあげられないように口を押さえ、両腕を脱いでいたエプロンのひもできつく結ぶ。身動きをとれなくしたうえで、アルはリオメルの細身の身体を持ち上げて、アンジェラを殺した部屋へと運び込むと、アンジェラを溺死させたときのような、目に見えない海水がリオメルに迫った。
「少し苦しいかと思いますが我慢してください」
「やめて! やめてください! いったいなにを!」
必死に拘束をとこうとするリオメルであるがどうにもできなかった。ましてやいまは床に寝そべっている状態。すぐに口元にまで氷のような冷たさを持つ海水が迫り、彼女は息をすることができなくなる――はずだったのが、どういうことなのか苦しさはまったくない。冷たい海水も心地のよさすら感じた。
「どう、いう、こと」
そこで、アルはリオメルの拘束をすべて外し、彼女に自分の姿を見るように指示をする。リオメルは、いつのまにか可視化した水面に映る己の顔を見る。衣を裂くような悲鳴が、小さく真っ暗な部屋に響き渡った。ぬめぬめとしたゴム状の肌と無数の鱗、するどい爪。襟巻のように首から伸びるタコのような触手に、背中から突き出た奇怪でまがまがしい蝙蝠に似た羽根。
アルがリオメルに近づいて、水のなかに座り込む彼女のまえにしゃがんで、その異形の身体を押し倒す。アルの身体が密着するとなぜか水が引けた。
「ねえ、リオメルさん。あなた、養子ですよね? 片田舎の港町の、邪教を秘密裏に信仰している家の」
「……」
「そこであなたは、水神の生まれ変わりだと言われて、毎日、信者たちの慰み者になったはずです。そのときにその痣もできた。そう。いまのように」
「……」
「あなたに初潮がきて、神の器としての子を成すことができるようになったときに、異教管理局の強制捜査が入りましたね。儀式を遂行しようしていたオレの実の両親はそのときに殺され、あなたは運よく家柄の良い家にふたたび養子に入り……そして、カレッジで、レネーヴェと出会う」
「……」
「貞淑な妻の肌が、処女とは言え、すでに邪教徒の手垢まみれだと知ったら彼はどう思うでしょうか。あなたに彼を奪われたときは自分の性別を憎んだりしたけれども、
「あ」
リオメルの意識が現実から逸れ、涙に滲んだ視界は水の泡と朱に包まれる。長い長い石の道を力無く進んで、相まみえるのは、夫とおなじ顔の季朽葉という男。彼は、神殿の入口にある石階段に腰を下ろして書物に目を通していた。
「ああもう。また立て看板をするのを忘れた。お客さん。いまは休憩中だよ。……と思ったらリオメルじゃないか。どうだい。願い事は決まった?」
リオメルは、書を持って立ち上がった季朽葉に走り寄った。たくましいその胸に飛び込み、震えて泣いた。
「あなた、あなた。だましてごめんなさい。どうか、許してください……!」
リオメルはアルの人形工房に訪れていたが、扉をひらいてすぐに違和感に気がついた。アンジェラがいないのだ。いったいどうしたのだろうとリオメルはアルに問うと、アルは以下のように言った。
「実は、急に辞めると連絡を受けまして、私も驚いているところです」
腕を組み神妙な面持ちで答えるアル。リオメルはひどく落胆した。結婚をして、この街に引っ越してきて初めて出来た友達だった。自分よりも明るく積極的で、憧れに近いものを抱いていたのにと彼女は肩を落とす。
「そうですか……。残念です」
「長く教室をやっていると、こういうこともたまにあります。気を取り直して前回の続きを。宿題はやってきましたか?」
「……は、はい」
アルに言われ、リオメルは慌てて鞄から方眼紙を取り出した。それを着いた席の机のうえに置いて広げる。
「どれどれ……。なるほど。こういう子を作りたいのですね。基礎を出来ていないとやや難しいかもしれません。でも、いいですよ。イメージを固めてきたことは」
「図をなおした方がいいでしょうか」
「いえ、ひとまずはこちらで作ってみましょうか」
アルはその場からいったん離れ、そこから少し遠くにある、資材が置かれている部屋に入った。すぐに物を抱えてやってくる。彼が両手いっぱいに持っている物は、梱包などに使われる芯材。そしてトレーシングペーパーである。それらをリオメルのまえに置いて、アルは説明を開始した。
「トレーシングペーパーを設計図のうえに置いて、数ミリ縮めたところに線を書きます。それらを切り取り、芯材に油性ペンで写して、切り取っていきます……」
まずアルはリオメルに手本を示した。起用にペンで写し取っていき、大きい芯材をのこぎりで切断する。
「おおまかに切り取ったら、今度は細部を削っていきます。このように」
目の荒いヤスリでざくざくと芯材が削られていく。瞬く間に無機質な人工物が人の腕のかたちに変化していった。
「では、やってみてくださいね」
はい、とリオメルは意気込んだ返事をし、刃物を手に持った。リオメルの細腕には結構な力作業だったが、ときどきアルに手伝ってもらいながら作業を進めていった。気がつけば、すでに時間は終了時刻となってしまっている。アルは教室にいる生徒たちに終わりの宣言をして彼女らを見送っていく。最後まで残っていたリオメルもまたほかの生徒たちと同じように教室から出ようとした。が、鞄を肩にかけたところでリオメルはアルに呼び止められる。
「少し、聞きたいことがあるのですが、よろしいですか」
「え? ええ」
リオメルはアルの席のとなりに椅子を置いた。腰掛け、彼が続ける言葉に耳を傾ける。
「さきほど見せてもらった人形の設計図の腰元に、鱗のような模様がありましたが、あれはどういった意味で?」
しまった、とリオメルは上を向いて、この教室に発行された異教捜査局の営業許可証を見上げる。異教の神々を模したわけではないが、そうとられてもおかしくはない。この教室にも多数の人魚像はあるものの、どれも三又の槍を持っていたり、貝殻や
「実は、その少女は自分自身を模したのです。その、幼い頃から、それらが痣としてあって」
「お気に障ってしまったら申し訳ないのですが、この図は比喩表現ではない、ということでしょうか」
やや沈黙してから、リオメルは返事をした。
「はい、そうです。誓って異教を信仰しているというわけではありません」
「……わかりました。もう遅いですから、お帰りください」
これ以上の詮索は無粋だと判断したのかアルはリオメルから視線を外した。リオメルもまたアルに背を向ける。早く家に帰ってあのひとの声を聞きたい、とリオメルは足早に教室の玄関へと向かう。
「やっと見つけた。神様の生まれ変わり。偶然というものは本当に恐ろしいね」
アルはリオメルを後ろから抱きしめるかたちで押さえ込んだ。悲鳴をあげられないように口を押さえ、両腕を脱いでいたエプロンのひもできつく結ぶ。身動きをとれなくしたうえで、アルはリオメルの細身の身体を持ち上げて、アンジェラを殺した部屋へと運び込むと、アンジェラを溺死させたときのような、目に見えない海水がリオメルに迫った。
「少し苦しいかと思いますが我慢してください」
「やめて! やめてください! いったいなにを!」
必死に拘束をとこうとするリオメルであるがどうにもできなかった。ましてやいまは床に寝そべっている状態。すぐに口元にまで氷のような冷たさを持つ海水が迫り、彼女は息をすることができなくなる――はずだったのが、どういうことなのか苦しさはまったくない。冷たい海水も心地のよさすら感じた。
「どう、いう、こと」
そこで、アルはリオメルの拘束をすべて外し、彼女に自分の姿を見るように指示をする。リオメルは、いつのまにか可視化した水面に映る己の顔を見る。衣を裂くような悲鳴が、小さく真っ暗な部屋に響き渡った。ぬめぬめとしたゴム状の肌と無数の鱗、するどい爪。襟巻のように首から伸びるタコのような触手に、背中から突き出た奇怪でまがまがしい蝙蝠に似た羽根。
アルがリオメルに近づいて、水のなかに座り込む彼女のまえにしゃがんで、その異形の身体を押し倒す。アルの身体が密着するとなぜか水が引けた。
「ねえ、リオメルさん。あなた、養子ですよね? 片田舎の港町の、邪教を秘密裏に信仰している家の」
「……」
「そこであなたは、水神の生まれ変わりだと言われて、毎日、信者たちの慰み者になったはずです。そのときにその痣もできた。そう。いまのように」
「……」
「あなたに初潮がきて、神の器としての子を成すことができるようになったときに、異教管理局の強制捜査が入りましたね。儀式を遂行しようしていたオレの実の両親はそのときに殺され、あなたは運よく家柄の良い家にふたたび養子に入り……そして、カレッジで、レネーヴェと出会う」
「……」
「貞淑な妻の肌が、処女とは言え、すでに邪教徒の手垢まみれだと知ったら彼はどう思うでしょうか。あなたに彼を奪われたときは自分の性別を憎んだりしたけれども、
いまはとても感謝しています。
……ねえ? 恋仇のリオメルさん」「あ」
リオメルの意識が現実から逸れ、涙に滲んだ視界は水の泡と朱に包まれる。長い長い石の道を力無く進んで、相まみえるのは、夫とおなじ顔の季朽葉という男。彼は、神殿の入口にある石階段に腰を下ろして書物に目を通していた。
「ああもう。また立て看板をするのを忘れた。お客さん。いまは休憩中だよ。……と思ったらリオメルじゃないか。どうだい。願い事は決まった?」
リオメルは、書を持って立ち上がった季朽葉に走り寄った。たくましいその胸に飛び込み、震えて泣いた。
「あなた、あなた。だましてごめんなさい。どうか、許してください……!」