第68話 終章:命を削るひとたちと命を紡ぐひとたち

文字数 2,773文字

「眞守。なにあれ」

 翡翠がほぼ直角に顔を上げながら疑問をぶつける相手が眞守で合っているのかどうかということも疑問に思った。けれども眞守は翡翠の質問の意味を瞬時に悟り丁寧に答え始める。

「ジャンボジェット・・・河向こうが空港だけど金末先生は航路も時間帯もズレてるから問題無いって言ってたのに・・・」

 三人が死ぬ間際のような戦闘を今の今までしていた河川敷の位置から1kmほど離れた下流には川幅を横切る大橋が架かっており車が往来している橋の更に下流のつまり河口近い海の方面の上空からゆっくりと大型の旅客機がこちらに近づいてきた。
 下降しながら。

 三人は呆然としたために10秒ほどの時間を浪費してしまった。

「ニアミスか直撃だな」
「ううん、賢人。砕けて

に堕ちてくる」

 臭いものに蓋をする。
 科学者とその胴元たちはホンモノの神や仏は要らなかった。
 自分たちが神だから。

 今神の絵と地獄・極楽の掛け軸と長島のフォロワーたちが描いたもう一つの神の絵のツイートと。
 そしてこの地の大いなる連峰と。

 日月(にちげつ)が交わる賢人と翡翠が立つ地点から放たれたエネルギーによって、航空機程度の障害物ではブラックホールの上昇が遮られることはなく成層圏を越えて行くだろう。

 ジャンボジェットを砕いた上で。

「金末は俺たちの戦闘をモニタリングしながら管制をも掌握してピンポイントで誘導したんだろう」
「ひ、翡翠ちゃん!」

 眞守は自分の上司たちのテロリストと何ら変わらぬ卑怯と姑息を恥じて翡翠が今朝、雲をズラしたその力に縋ろうとした。
 それは決して自分の命の為だけでなく業火に呑まれんとする乗客たちを思って。
 そして翡翠と賢人のふたりを想って。

 翡翠は空を見つめたまま叫んだ。

「ごめん! ちょっと黙って!」

 左目の眼帯を外した。
 それから解くのももどかしいのか右手首の包帯を引き千切ってリスカのぷっくらした生乾きの傷を晒した。

 カカカカカ、と(せわ)しい左の人差し指の爪の動きでかさぶたをこそいで血の珠を一滴、ぷっ、と浮き上がらせた。
 右手首を自分の顔に引き上げて賢人にキスする時のような柔らかさで唇に含んだ。

 光を失ってしまっている左目で飛行機を睨め上げた。

「あの子に賭ける」

 翡翠がそう呟くと賢人の目を開いたままの瞼の裏にその映像が流れ込んできた。まるで現実に視えている自分の目の視界のその上にタブレットのスクリーンでサブの映像が浮かび上がるように。眞守もこのおそらくは翡翠の左目が見通しているであろう映像が視えているようだった。

 左舷の羽翼横の窓際のシートに5歳ほどの男の子が座っている。
 翡翠がその子に話しかける以心伝心の言葉すら賢人と眞守も感じた。

()けて!』

 その短い言葉を聞いて既に着陸態勢に入っていたシートベルトを外して男の子が立ち上がる。隣にいる両親が止める間も無く通路に出た。CAが彼に駆け寄るが男の子はそのままコックピット目指してダッシュした。

 父親が後を追う。

 コックピット前で持ち場のCAに塞がれる。

『ボク、席に戻って?』
『避けないと! 曲がらないと!』

 そう叫んで彼はコックピットのドアをドンドンと叩いた。
 CAが彼を押さえ込もうとした。父親も。

『お父さん! このままじゃ堕ちちゃう! ホントだよ!』
『落ち着くんだ。落ち着いて話してご覧?』
『下から何か来るんだ! 飛行機が割れて堕ちちゃうんだ!』
『本当なのか?』
『僕まだ死にたくないよ』

 翡翠の第六感は当たった。
 その子の父親は覚悟を決めたように脇にあった軽食用のワゴンを両腕で掴んで振り上げ、ドアに叩きつけた。

 騒然となる機内で父親は他の乗客に取り押さえられたが緊急事態と判断した副機長が遂にコックピットの内側からドアを開けた。

 操縦室に飛び込む男の子。

『このままだと墜落します! 航路を変えてっ!』

 機長が何かを悟った。

機長:port control, port control, 緊急事態発生。一旦高度を上げて旋回します。
管制:そのまま降下せよ。
機長:繰り返します。緊急事態。一旦上昇します。
管制:ダメだ! 着陸態勢を維持せよ!
機長:繰り返す。未確認事項あり。安全を確保するために上昇する!
管制:ダメだ! オマエに責任が取れるのか!
機長:? アンタ、誰だ? 機長の私が職責を負って判断した事項だ。黙っててくれないか!
管制:オマエの家族がどうなってもいいのか!?

「金末だね。黙らせるよ」

 翡翠が呟くと地鳴りがした。
 地震のようだ。河川敷が揺れる。
 河の水面から真っ直ぐに地上5cmほどの風が吹来して地獄の絵をはためかせた。

 閻魔大王が亡者どもの娑婆での所業を映し出す大鏡の前で同じく生まれてからの一挙手一投足を詳細に書き記した閻魔帳をめくりながら目を見開き、嘆きと怒りとで顔を真っ赤に沸騰させたその姿が翡翠と同調する。

 翡翠はそのおそらくは閻魔大王の自動口述をもって怒鳴りつけた。

‘また来たのかぁあーッ!!’

管制:うぎゃああーっ!
機長:上昇し旋回する! 以上!

「鼓膜、破れたね。ははっ」

 三人は垂直を見上げて戦慄した。
 ジャンボジェットはまさしく河を誘導路に見立てたように賢人たちの真上まで達しており三人が驚愕したのはその高度の低さだった。本当にショッピングモールの天井から吊り下げられた縮尺1/100ほどの特注模型の腹がそのままそこにあって手が届くぐらいの錯覚に陥いるような低空だった。

 ブラックホールの黒い板はそのジェットの腹まで後10mも無い。両者のスピードはほぼ拮抗している。

 だが機長は心を鎮め、冷静に、操縦桿を柔らかくしなやかに握った。
 彼の技術と全人格を注ぎ込んで最大出力を達成した。

「ああ・・・」

 眞守のつぶやきとともにジェットは素晴らしい加速を見せ、尾翼を掠めるその刹那でブラックホールを躱した。
 十分に高度を上げてこの北の地を横断するように優雅に大きく旋回する。
 そのシルエットが雄大な連峰の残雪に映えて美しい猛禽が飛行する姿のようだった。

 眞守が泣いている。
 眞守の頭を賢人は手のひらで優しく撫でてやり、翡翠とふたりでブラックホールが消えんとするその成層圏を見上げた。翡翠が避けていた雲が戻り始めてその円を描くような形状から地球の空はどの地点・軸をとっても楕円のカプセル状だとふたりは以心伝心で感じあって、ふふっ、と微笑んだ。

 三人はイメージする。
 ブラックホールが月の横を通過する様子を。
 そして日の方向へ向かって行く様子も。

 月は天体としての月であるだけではなく、悲しみに暮れる人を優しく光と夜露とで慰めんとする。

 日は天体としての太陽であるだけではなく絶望する人を体の芯から温め心までにも(ぬく)もりを持たせんとする。1秒たりとも休むことなく。

 日も、月も、人間の長久と共にあってくれる。



FIN
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