第35話 魅せたい

文字数 1,077文字

 神の絵をお迎えする。
 ここまで大変だとは思わなかった。

「賢人。寝室だとなんだか空気が籠っちゃうよ」
「え。リビング・ダイニングで人間が寝るつもりだったんだけど」
「神様をリビング・ダイニングにお迎えした方がいいと思う。解放感あって風通しもいいし」
「じゃあ人間はどこで寝るんだ」
「賢人が寝室。わたしはリビングで寝る。大体ベッドはひとつしかないんでしょ?」
「まあ・・・」
「わたしはソファでOK」
「待て。そしたら手を握ったりは」
「それ、どうしてもしたいの?」
「早朝覚醒した時、握ってないと多分死にたくなると思う」
「そっか・・・我慢して」
「ええ?」
「賢人が寝つくまではベッドの横で手首の傷を触らせてあげる。寝たらリビングに戻る」
「翡翠は」
「なに」
「目が覚めてしまった時に、隣に誰もいなくてそれでも死にたくならないのか」
「絵がある」

 賢人はまるで最後通告を言い渡されたような気分になった。翡翠の言う『伴侶』とはつまり絵を介しての協力者というぐらいの意味なのか。考えれば考えるほど自分が可哀想になり、ただしその感情が嫌いではなかった。

 つまり、切なさだから。

 永遠に到達できず埋めることができず、数ミクロンの距離が空いたままの二人。
 けれども賢人は合意なき行為に及ぼうという気概は無かった。

 なぜならうつ病だから。

 相手の許しが欲しい。
 翡翠から許可を得た上でのこととしたい。
 好き勝手な性欲だけを原動力にして翡翠を扱うことは自分にはできない。
 ストイックという感覚とも違う、『許し』という感覚。
 そしてそれはおそらく賢人自身がうつの感情でどうにもならないぐらいに悲しい時、翡翠をただ単に抱擁して体を微動だにしないままだったとしても、大いなる安心感で救われるだろうという思いがあった。

 その感覚を説明するのはとても困難だったが、『指圧』『按摩』『手当』がそれに近いと賢人は思った。
 車で行き来できない山の中の神社への道を何kmも歩いて足裏と足の甲が火照り、そこに冷え性の冷たい指と手のひらで指圧を受けた時の、乳酸の解きほぐしが心をも和らげてくれるような気がした。
 あるいは仕事の心労や将来への不安で疲弊して凝り固まったおでこを翡翠の冷たい手のひらを当ててもらうだけで体全体の疲れが溶けていくような気がした。更に、おでこを翡翠のおでこに、とっ、とくっつけてそのままキスもせずにいるだけでも深甚な脳の奥底に溜まった疲れが解きほぐされるような気がした。

「翡翠。何もしない。ただ隣にいて欲しい」
「・・・うん。わかった」

 神の絵も、賢人も翡翠も、リビングで共に眠ることとなった。
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