第12話 悔しい

文字数 1,755文字

「賢人。逃げたいでしょ」
「キミから? いや・・・」

 賢人はしばらく考えた。打算も交えて。翡翠が未成年であること、おそらくはかなり重篤な精神疾病の状態にあること、母親が放火殺人犯であること、それどころか神の家を燃し尽くした逆神(ぎゃくしん)の徒であること、もしかしたら燃え盛る炎の中で家族の断末魔を、特に幼く翡翠が可愛がっていたであろう弟の苦悶の姿を目にしていたのだとしたら・・・果たして自分と恋人同士としての生き方を、あるいは夫婦としての生き方をしてくれるのかどうか。結論が出ないまま賢人は答えた。

「逃げたくない」
「ははっ。本気?」
「それすら分からない。もしさっきの山の中のキミの声が神の怒りだったなら俺は恐ろしくてキミに近づくことさえできない」
「だよね」
「でも、キミは神の絵に供養してる。神様を慰めてる」

 賢人がそういうと翡翠は表情を全く変えないまま、右目から涙だけ滴らせた。

「賢人。わたしは誰からも褒められなかった。わたしを褒めてくれるのは天照皇大神宮だけだった」
「・・・」
「子供の頃から神様だけが悠久なんだって教わって生きてた。じいちゃんから父親に、父親から弟に、家として神職を引き継いで、わたしも結婚して外に出たとしても巫女として家業として神様を祀って生きていくんだって思ってた。でも、母親がそれをダメにした」
「お母さんが憎いのか?」
「ううん。弟以外、全員憎い。ばあちゃん・・・姑は嫁をいたぶった。家族で揃って祝詞を上げ、神楽を舞おうというその場から母親だけを外した」
「そうなのか」
「じいちゃんは氏子衆からは威厳のある神職と評判だったけど、実際はばあちゃんの尻に敷かれてた。後継として嫁に入った母親を守ろうなんていう甲斐性がゼロだった」
「お父さんは」
「自分の妻と・・・それからわたしを足蹴にする最低の男だった」

 翡翠の右目から滴り落ちる涙の量が更に増した。瞬きもせず、水滴が、ぴちょっ、という音と、軽い、チン、という音でグラスの縁を楽器のように鳴らすが、左目からは全く水分が滲まず、涙を流す器官としても機能していないことを賢人は知った。

「どうして、絵を持ち出したんだ」
「母親を助けることはできた」
「・・・?」
「母親は夕食に薬を混ぜた。睡眠系の、ってことしか警察は教えてくれない。わたしは味が変だ、って気付いて途中から食べずにいた。量が少なかったからじいちゃんとばあちゃんと父親がテーブルに伏せって眠り初めてからもなんとか意識だけは保ってた。弟のには混ぜてなかった」
「なぜ」
「母親は弟と2人で逃げるつもりだったからだよ!」

 語調を荒げても翡翠は無表情のままだった。店員が、お静かに、と低姿勢で呟くそれすら賢人ははねつけて翡翠に喋らせ続けた。

「でも、灯油を撒いてライターで火を点けようとする母親を弟は止めた。お母さんやめて、って。火が着いて炎が上がると弟はみんなを助けようとしてゆすって起こし始めた。当たり前だよね、ははっ」

 賢人は自分の膝を鷲掴んだ。
 スーツの上からなのに、血が滲むのが分かった。

「『お前もかっ!』って叫んで母親は弟の首を締めて、殺した。わたしは体を動かそうとしたけど、動かなかった。今でもあれがほんとにわたしの全力だったのかって弟の死んだ瞬間の顔がわたしを苦しめる」
「すまない」
「いいよ。母親は火を点けて、その瞬間に揮発してた灯油がわたしの鼻に入って、なぜかわたしは動けるようになった。母親は立ち上がるわたしを見てこう言ったのよ。『逃げるのか?』って」
「すまない。もういい」
「お前が泣くなよ賢人! わたしは社殿まで走って、榊を立てた台を引きずってって天照皇大神宮の絵を引き剥がした。それを抱えて、ソックスだけで逃げたんだよ! その頃には枯れたアジサイを(ノコギリ)で処理するよう言われて枝が刺さってもう見えなくなってた左目の方にフラッシュみたいな光が差してさ、逆に右目をつぶって、左目は開けたまんまなのに煙も沁みずにそのまま光の方に走ってたら、わたしだけ生きてたんだよ! で、逃げる時にわたしは弟以外の全員に向かって、『死ね!』って叫んで走ったんだよ!」
「もういい!」

 気がつくと賢人と翡翠は真正面から見つめ合ったまま瞬きもせずに涙でテーブルクロスに染みを作っていた。

 虹でもかけてくれよ、と賢人は神に祈った。
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