第1話 気だるい

文字数 1,516文字

 朝、目が覚めて、といっても夜とも言えるぐらいの早朝だが、賢人(ケント)は死にたい気分になっていた。

「ああ。なんで今日も朝がやってくるんだ」

 毎日同じことをほぼ同じ時間に繰り返す。賢人の子供の頃からの習慣だ。

 小中高と同じ朝を何回となく迎えた。大学では多少緩和されたが就職活動の時期に入るとまた同じ朝を繰り返した。ヘトヘトになりながら彼がその解消法として選んだのは神社仏閣への参拝だった。

 売り手市場とは言いながら、一部上場企業群からは選り好まれる側であった彼は始発の電車に乗ってワンクッション置いてから企業へと向かった。

「南無観世音菩薩」

 浅草寺で毎朝行われる朝の勤行。
 彼はおそらく1番の年若で、平時は扉が開かれない観音さまの前に敷かれた赤い敷布の上に正座し、惰性で参拝している年寄りどもと、なにやら精神的にギリギリのような挙動をしている中年男女どもの一番後ろでただ手を合わせていた。
 賢人にしたところが参拝が人生の言い訳になるような気がしていただけの話だ。

 就職してからも何ら変わらなかった。
 むしろ悪化したと言っていいだろう。賢人はとうとう精神科医を訪うた。

「メランコリー親和型の典型的うつ病です」

 診断はあっさりした淡白なものだった。予想もしていた。
 総合病院のその女性医師は必要以上の患者との交流がなんらかのハラスメントに当たるのではないかと恐れてだろうか、極めて事務的に賢人に応対した。そしてごく端的にこう告げた。

「診断書、どう書きましょうか? 休職は1ヶ月? 3ヶ月? それとも半年?」

 賢人は嫌気がさしてこう答えた。

「要りません」

 賢人は勤務する食品系に強い総合商社にうつ病のまま通勤し続けた。会社にはうつ病だと告げず、時折偏頭痛の症状が起こるのだと説明し、一月に一度、薬を処方をしてもらうためだけに女性医師の元へと通った。

 通院から3ヶ月経った平日の午後、会社の時間休を取って来院した賢人は待合室でスマホの画面を熱心に見つめていた。

 自分がツイッターでフォローしている写真家のアカウントだ。

 その写真家はスタジオを自営しており、時折クライアントからの依頼で撮影旅行に出かける。主に彼女が撮るのは各地の神社仏閣だ。

 賢人は自分の

と一致すると思った。賢人自身は本能では趣味というよりもどうしようもなく救いを求める神頼みに近い行為だと思ってはいたが、彼女の撮影する写真がとても美しく感じられたのだ。

 ある、北の地方の神社で撮影された写真に賢人は釘付けになった。

「光線が、兵器のようだ」

 それは天照大神が天岩戸(あまのいわと)から姿を現し、額から万度の光を解き放つ、顔料によって木の一枚板に描かれた日本画だった。

 光の矢が額から前方に広角に、立ちふさがる者たちを貫くように放たれている。
 賢人は恐ろしくなった。

『こういう絵を写真に撮影し、そして拡散してもいいものなのか?』

 賢人が自分の中の常識と向き合い逡巡している時に、番号が呼ばわれた。

「52番の方、おられませんか? 52番の方?」

 看護師が呼ばわっても誰も反応しない。おそらく自分の待合番号を認識していないか忘れてしまったのだろう。あるいはもしかしたらそれ自体病気の症状なのかも、と賢人は空想した。

上房(じょうぼう)さん? 上房 翡翠(じょうぼう ひすい)さん?」

 看護師が仕方なく個人情報を開示した。
 一般的には名前としてつけないだろう宝石の呼称に、性別が分からなかった賢人は、自分の真後ろから立ち上がる気配を感じ、つい反射で振り返った。

 そこにいたのは待合室のLED照明に逆光となった、若い女だった。

 顔の造形の特徴は特に印象に残らなかった。

 ただ、左目に白い眼帯をし、右手首にはやっぱり真白(ましろ)の包帯が巻かれてあった。
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