第32話 逢いたい

文字数 1,163文字

「逆神さんは連休どうでした?」
「ええ。少し遠出をしました」

 賢人は先輩の女子社員から愛想を振られ、無難な答えだけして弁当の包みを手にビルの緑化された屋上に向かった。
 一般に解放してはいるが幼子と一緒の母親と言った当初会社として予定していた『絵に描いたような』利用者は皆無で、独居老人やホームレス、岡山で出会ったようなショッピングバッグレディがベンチの殆どを埋めていた。そして彼ら・彼女らは、紙コップに佃煮を入れてポットの白湯を注いだものや、半額のシールが貼られた賞味期限直前のコンビニ生野菜といったもので、同じ場所で食事をする賢人に対してもオマエは常人ではないというレッテルを押し当ててくるような感覚だった。
 ただ、賢人の弁当にしろ、それは翡翠が詰めてくれた今朝の食卓とほぼ同内容で、神の絵のお下がりの質素な乾物や乾いた白米などだった。だから賢人は補足のためにコンビニで春雨スープを買い、沸騰作業中のまだ熱し切られていないぬるいお湯を入れたカップも一緒に手にしてベンチに座っていた。

 九州の食のさかがみで買った食料は鹿児島の枕崎から東京への帰路での食事となった。翡翠のボス猿殺しはSNSで全世界に拡散されていたが九州を出てまでさすがに指差すものはいなかった。
 だから賢人と翡翠は途中京都で鞍馬山まで行って翡翠は神の絵を立てかけて自己流の神楽を舞い祝詞を上げ、観光客の顰蹙を買った。最後の夜はやや高級なホテルに泊まり、絵と翡翠の容姿とでフロントから顰蹙を買った。賢人はその夜も翡翠の手を握り手首の傷を愛撫して眠った。

 抗うつ剤と翡翠の傷が、辛うじて賢人のやめたい気持ちを引き戻した。

 『巡業』の思い出を辿りながら短い時間で食べ切れる昼食を終え、賢人はスマホをタップした。
 LINEを上げる。

 賢人:今どこ?
 翡翠:日野市の神社
 賢人:夕方逢える?
 翡翠:アパートじゃダメ?
 賢人:ダメだ。会社が終わってすぐに逢いたい
 翡翠:ちょっと待って。電波がはいった

 賢人は翡翠の姿を想像しながら待った。
 おそらく日中でも誰も来ないような小さな神社で掃除や補修等の巫女としての勝手な作業をしている翡翠。彼女に電波が入った時、あの呪いのような低いオクターブの声は誰に向けて発せられるのだろうか? 賢人は自分でなければ翡翠自身に向けられるのではないかとも思ったが、それは推測でしかなく、もしかしたら目に見えない何かが翡翠の前に常に居て、それに向かって言っているのが正解かもしれない。

 スマホが、ヴッと鳴り、通信が再開された。

 翡翠:ごめん。じゃあ賢人の会社の近くは?

 会社の近く、と聞いて賢人は一瞬躊躇した。だが欲求が優った。

 賢人:じゃあ会社の前のカフェで。そこならすぐに逢える。
 翡翠:いいの? 会社の人に見られるかもだよ?
 賢人:構わない
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