第30話 泣きたい

文字数 910文字

 賢人は突然現実に戻った思いがした。
 それは、翡翠が明確な犯罪行為をしたからではなく、スーパーのレジを傘で叩き壊すという行為がとても正常なものに感じられたからだった。
 相対的な正常ではあるが。

 同時に今日の日付をも思った。

 令和に改元してから何日か経ち、有給休暇と併せていつまでも続くかのような錯覚を抱いていた連休も必ず終わりが来る。それも賢人は異常な状況や翡翠の異常な言動によって、ずっと異世界に逃避できているような安堵も持っていたので、レジを打ち壊すという極めて現実的な行為が賢人を実生活、具体的には会社へ行って仕事をせねば雇用契約上の義務を果たせず、したがって対価としての給与を得ることもできなくなるという事実を改めて認識した。

 最悪の場合、一定要件を満たせば会社側は賢人を解雇することができる。

 決断のタイミングは、迫ってきている。

「翡翠。もう東京に帰ろう」
「ははっ。今更」
「俺はサラリーマンだ。普通の」
「普通ではないよね」
「ああ。確かに神の絵と一緒になって『原爆を打ち消せないかな』っていう翡翠を見て高揚したさ。翡翠が誰かの低い声で呪いの言葉みたいなのを唱え始めるのも恐ろしいが異世界の出来事のようで現実から離れられた。でもな」

 賢人は車を走らせながら翡翠に切なさを言い尽くした。

「俺は救われてない」

 賢人は泣き出していた。

 止めて、と翡翠は言った。

 路肩に止めると翡翠はシートベルトを外してサイドブレーキの柄を跨ぎ、運転席に移って来た。
 ショートパンツから伸びた素足の白い脚を折りたたんで股間を開いた正座のような姿勢でブレーキペダルを踏んだままの賢人の伸ばした足にまたがった。

 眼帯を外した。
 包帯も外す。

 翡翠の乳白色の、灰色(グレー)の左目が近づいて来る。

 それから少し遅れて、リップも何も塗らない、少し乾いた素の翡翠の薄い唇が近づいて来た。

 賢人はまるで少年のように目を閉じる。
 翡翠は正確に接触点を見極めるために目を開けたまま。

 翡翠から唇を触れるように口付けた。
 被せるのではなく、賢人の下唇を挟むように、ちゅっ、と一音だけキスし、そして外した。

「絵の前だぞ」
「キスだけだから。死にはしないでしょ? ははっ」
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