第60話 挿れたい

文字数 2,210文字

 それを聞いて挿絵の話だとすぐに判明して賢人は少しの安寧とやや重い失望とが胸に入ってきたが移動中の雑談としては緊張する三人をリラックスさせる効果は絶大だった。
 ただ、新幹線の中で翡翠が語った、『絵本を書きたい』という言葉はやや意外でもありながら腫瘍を切り取るために入院していた際のスケッチを思い起こせば自然な気もした。

「神の絵と地獄の絵をわたしの絵本に挿れたいんだよね。ははっ」
「なんだそりゃ。どういう内容だ」
「決まってるよ。これからわたしたちがやることを描くんだよ」
「誰に読ませるんだ」
「少年少女」

 翡翠の答えに賢人も眞守も軽く爆笑して周囲のビジネスマンの顰蹙を買いそうになり慌てて小声になった。

「翡翠ちゃん。絵、描けるの?」
「お。眞守。これを見てもそんなこと言えるかよー」

 翡翠は神の絵と地獄・極楽の掛け軸を長島の指導でパックした小型コンテナからスケッチブックを取り出して眞守に開いて見せた。

「あ。凄い」
「だろう」

 それは賢人が子供の頃に祖母から読み聞かせられた、釈迦が魔王の軍隊の矢の一斉射撃を悉く花びらへの変化で躱した圧倒的戦力の差を見せつける圧巻のシーンだった。
 ただ、翡翠の描く釈迦の結跏趺坐はまるで少女のようなやわらかで美しい姿だった。

「これは売れるよ、翡翠ちゃん」
「調子に乗るな、眞守。カネが欲しいわけじゃない」

 この絵を見た瞬間、賢人は翡翠が仏の子孫だということが絵空事ではない事実だと認識した。

 仏の子孫 VS 悪鬼神=ブラックホール。

 まるで近未来哲学系SFのようなサブタイトルを脳裏に浮かべて賢人は苦笑した。

 地名も駅名も私語にすら上げることを厳禁してやって来たこの北の県の県庁所在地にあるハブ駅はそれでも平日のビジネス・コアタイムであることから人通りはそれなりにあると三人は感じた。
 少し早い昼食をこの県のB級グルメ名物であろう駅前のラーメン屋で済ませてレンタル予約してあった大型のバンを借り受け宿泊先へ向かった。
 ホテルではなく、民宿。
 それもこの街で一番大きな神社の三日間に渡って開催される祭祀の際には全国からテキ屋が定宿としてバンで焼きそばやリンゴ飴などの屋台を積んで集まってくるその宿へ賢人もバンで乗りつけた。

「ようこそ。お風呂で汗でも流されます?」
「いいえ。出かけます。その前に荷物を確認したいんですが」
「ええ届いてますよ。ガレージに置いてあります」
「ありがとうございます」
「あの、あれですか。映画の撮影か何か?」
「はい、まあ」
「あらあら。誰か有名な方、出るんですか?」
「いいえ。自主制作映画なもんですから」
「あら、いいですね」

 反射鏡とセットするためのスタンド類を荷解きしながら翡翠が言った。

「『あら、いいですね』だって。あの女将、絶対『いいご身分ね』って意味で言ったな」
「まあそう思って当然だろう。穀潰しの道楽者と思われてた方が動きやすい」
「賢人さん。今日一回セットしてみる?」
「いや。金末教授の言うようにできるだけ事前情報を敵に晒したくない」
「ブラックホールに『思考』なんてあるかなあ」
「眞守。はっきり言っておく」
「は、はい」
「『天体』や『ブラックホール』が意味なく動いてると思うか? 例えば太陽だって人間がまったく恩を感じなくなったらふてくされて火を消すかもしれんぞ」
「ははっ。賢人の言う通りだよ。神様の絵の日の女神さまが天岩戸に立てこもったら世は闇になったんだから」
「眞守。自然現象とか天体の公転だとかにしたってすべて知性や意思に基づいてる。ブラックホールをちゃんと『悪鬼神』という神格として見るんだ」
「『人格』じゃなく?」
「まだ言うか。いいか、俺らはどこまで行ったって『人間ごときの我ら』という慎重な思考を忘れたらその時点で死ぬ。卑下するわけじゃない。油断するなということだ」

 もしかしたら翡翠については『人間ごとき』ではないかもしれないとは思いつつ眞守に真剣に賢人は語った。

 賢人たちはバンに乗って市街地に位置するまるで神が大船で下り降りるような大いなる流れの一級河川のその河川敷を堤防の車道から降りずに視認した。

「あれが本流と支流が交差するポイントだ。眞守のシミュレーションどおり川に対して右舷・左舷・正面に300ずつ反射鏡を配置して残り100枚は俺らがフォーメーションを取りながら微調整と補強のための光とする」
「やっぱり割られるかな」
「思考も戦術も練るはずの敵だ。しかも『悪鬼』とは言いながら『神』と呼ばれる存在だ。100枚でも補強には足りんかもしれんが制作側のこれが限界だった」
「賢人。明日は走るよ。ははっ」
「ああ。眞守はどうだ?」
「・・・やってみる、としか言えない」
「賢人。長島の方は大丈夫なの?」
「大丈夫だ。おそらく俺ら以上にこの戦争に期するところがある筈だ。それよりも俺は根本のところで金末教授を信用してない」
「え」
「え」

 賢人の言葉に翡翠と眞守が声を揃えた。

「賢人。今更何言ってんの」
「そうだよ。疑ってかかったら最初から作戦は成り立たないよ」
「いや。ブラックホールの処理は金末教授が上から厳命されてるだろうから俺らに不利なことはしないだろう。ただ、俺が彼を信用してないように彼も俺を信用してない筈だ。となれば保険を用意しててもおかしくない」

 賢人は子供時代からの自閉的な思考と社会人となってからの否応ない職務遂行によって築かれた思考力をフル回転させていた。
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