第9話 苦しい

文字数 1,590文字

 会社の帰り、賢人はレンタカーを借りた。

「おいおいどうしたんだよ。仕事、大丈夫なのか? 昨日も午後は病院だったのによ」
「ああ。偏頭痛がひどいから今日も早めに帰る」
「女か」
「ああ」
「おい! ほんとに彼女ができたのかよ!」
「彼女・・・という柄じゃないな、あの女は」
「なんだよ。偉くぞんざいな言い方だな。美人か」
「傷が美しいな」
「はあ?」

 賢人は同期と軽くやりとりしながら会社側の自動車メーカーが営業するレンタカーショップで無茶振りをした。

「アウディを」
「え。当社の車種しか扱ってないんですが」
「なら、一番グレードの高いのを」
「かしこまりました。料金が多少嵩みますがよろしいですか」
「構いません」

 賢人が借りたのは白のスポーツタイプでハイブリッド。最新モデルだが車高がかなり低いオールド・タイプの車種だ。ハイブリッドなのにエンジン音がやたらと大きいのがすぐに気に入った。
 スーツのままシートに体躯を収め、動き出しはモーターでスムースに走り出し、つなぎ目なくエンジンでの加速に流れていく。しばらく運転していなかったが、賢人は懐かしいアクセルと、それからブレーキングの感触を味わいながら翡翠をピックアップする地点まで走った。

「ははっ。車だ」
「そうだよ。キミのためだ」
「わたしの?」
「ああ」
「違うね。わたしのためにやって、それで賢人に何か得することがあるからでしょ」
「なんでそんなにひねくれてるんだ」
「まあ、媚びて生きるしかなかったから」

 待ち合わせの場所はやっぱり神社だった。地元の、誰も参拝していないような社殿の瓦がいくつか壊れ落ちているような。

「なにしてたんだ」
「掃除と補修とあと、祝詞を」
「報酬は?」
「奉仕。わたしは巫女だから」

 奉仕。
 無報酬。

 いわゆるそれはボランティアとは決定的に違う。誰からも感謝もされない。極めて不遜なことを言えば、美しい荘厳な、全国に名の知れたご利益が燦然と輝く神社にはお金が集まり、参拝者たちは自分自身が社会に貢献するためにととどのつまりは成功を望んで参拝する。
 だが、翡翠がやっているこれは、誰からも見向きされなくなった神の家を清め、だからといって移動するための手段も自分が生活保護として受け取るなけなしの金から手出しし、そのためには毎日の食費を削り、衣服を整えず、実は翡翠はソックスを履かないファッションなのではなく、ソックスを節約しているのだ。そしてデッキ・シューズの踵を履きつぶしているのも単に踵の部分がほつれてきており、そういう風に履かないとみすぼらしさで他人を不快にするからなのだ、と翡翠自ら解説した。それから、一言呟いた。

「援交したことあるんだ」
「えっ」
「お供え物買えなくてさ。ははっ」

 賢人は拳で力任せに翡翠の左頬を殴った。栄養が足りず痩せて力無い翡翠はそのまま軽く尻餅をつく。やってしまってから賢人は自分が生まれて初めて人を殴ったことに気づいた。

「す、すまない」
「いいよ。ははっ」

 そのまま翡翠は助手席に乗り込み、賢人は今夜予約してあるステーキハウスに向かった。

「ほんとうに済まなかった」
「賢人。援交って言ったけど、わたし処女だから」
「え?」
「手を握らせてくれたら1万円上げるから、ってね」
「いつ?」
「施設を出てアパート借りたぐらいの頃。賢人の隣で寝てた新聞屋だよ」
「・・・・・・」
「新聞屋はもう

。わたしの手を握って誰か違う女の名前を呼んで泣いてたからさ。『いいよ。新聞くれるだけで握らせてあげるよ』って言ったんだ。だから今は新聞で援交してる。ははっ」

 賢人はすぐにでもハンドルから手を離して翡翠を抱きしめたかったがステーキハウスへ向かう湾曲した山の登りに差し掛かっていたためにそれを諦めた。

 性欲ではない翡翠への激情が自分の中にマグマのように沸騰していることを賢人は感じた。

「翡翠。俺の恋人にならないか」
「それは無理。ははっ」
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