第34話 眠たい

文字数 1,810文字

 抗うつのクスリのせいで賢人は日中も脳がゆっくりとしか動かないような状態で、総務課長の言葉を聞いた。

「『病気等により業務に支障をきたす職員はこれを降格または解雇することができる』。就業規則のこの規定は知ってますね」
「はい」
「とても個人的な質問になりますが、あなたは精神科を受診していますか?」
「答えなくてはいけない事項でしょうか」
「無理にとは言いません。ただ、逆神さんの勤務態度がここ最近不安定だと貴方の部署から報告を受けています。業務に影響する可能性がある以上、顧客サービス上も実態を把握する責任が私にはあります」
「・・・精神科に通院しています」
「症状はどの程度ですか?」
「言って伝わるものですか?」
「さあ。私はうつ病になったことがありませんので」
「わたしはうつ病とは一言も言ってませんが。誰がその病名を?」
「・・・とにかく貴方の部署は直接顧客と接触する営業の最前線です。もし病気が原因で顧客に損失等を与えた場合は当社の信用にも関わります。逆神さんの部署異動を検討しますので今日はその了承を頂きたくて面談しました」
「そうですか」

 賢人は来月付で関連企業への出向が決まった。幸い都内なので基本的な生活への影響は生じないが、給与水準が大幅に引き下げられる。

 翡翠のアパートに泊まりに行き、今日の面談の報告をした。

「ごめんね。賢人の大事な仕事だったのに」
「そこまで大事じゃないから気にしなくていい。それより、翡翠」
「うん」
「一緒に暮らさないか?」
「一緒に暮らしてるじゃない」
「こういうのは暮らすとは言わないだろう。寝泊まりしてるだけだ。そうじゃなくて、俺のマンションに引っ越さないか?」
「ダメだよ」
「俺のマンションは1LDKだ。リビング・ダイニングで人間が寝ることにすれば寝室を神の部屋として確保できるが」
「生活保護受けられなくなる」
「・・・なら、俺と賃貸借契約を交わして俺に家賃を払うことにすればどうだ? 個人間の契約だから格安に設定すればいいだろう?」
「新聞屋は」
「新聞屋か・・・」

 賢人は新聞屋のことが嫌いではない。なぜなら年老いた自分が新聞屋のような境遇で生きている確率は現代においてかなり高いと冷静に判断できるからだ。現実に賢人は今日、会社から身分を引き下げられた。ただ、賢人は自分のマンションで新聞屋に仮眠を取らせる気は毛頭なかった。

「今日の明け方、新聞屋に俺が話す」

 今日は翡翠の足がぶら下がっている押入れの下段で賢人は神の部屋の裸電球の点滅を起きたまま感知した。今夜だけは時折翡翠の足指を自分の手の指でさすりながら新聞屋を寝ずに待っていた。点滅が三度と繰り返されない内に賢人は押入れから出て神の絵の前を横切り、部屋の引き戸を開けた。

「廊下で話そう」

 賢人の方から切り出した。新聞屋はこの間は吸わなかったタバコを吸っていた。エチケット灰皿など持たず、廊下に誰かが置いたハイネケンの空き缶に灰を落とす毎にしゃがんで、ト・ト、と指ではたいていた。

「俺のマンションで翡翠と暮らす」
「ほほ。ならば儂が邪魔になるのう」
「すまない」
「構わん。構わんが、時々絵を参りに行ってもいいかのう」
「それはダメだ。マンションに来て欲しくない。場所も教えたくない」
「そりゃあそうじゃのう」
「アンタがストーカーみたいなことをするなんて俺は思ってない。ただ、翡翠を完全に俺のモノにしたい」
「そうかい。なら、これでどうじゃ? 翡翠がどこかの神社に絵を持って奉仕に行った時に儂がそこへ行って参らせてもらうというのは」
「俺が一緒の時ならいい」
「ほほ。心配性じゃな」
「なんと言われても構わない」

 新聞屋は賢人の申し出を了承した。賢人がこれから仮眠はどうするのかと訊くと車で寝泊まりするという。
 新聞屋にとって実はそれは仮眠ではなく睡眠の全てだった。翡翠の部屋の押入れが寝床のすべてだった。

 すぐにではないが何年か後の真冬の明け方、配達用の軽四の中で新聞屋は凍死することになる。当然そのような予測はできず、ただ可能性としてそういうことはあり得るだろうと賢人は考えてはいた。

 つまり、賢人は新聞屋が死ぬ可能性については、はっきりと認識していた。

「なあ。アンタは神様を信じてるのか?」
「ほほ。儂が信じるも何も、現に絵がその部屋にあるじゃろう?」

 この感覚は翡翠と共通のもので、新聞屋が心からそう考えているのだとしたら、賢人はほんの少しだけ新聞屋を羨んだ。
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