第54話 愛でたい

文字数 1,895文字

 さすがにカネを国に無心して研究者を自称するだけあって眞守が神へひれ伏すぐらいの勢いで金末教授に懇願して使用許可を得てくれた情報網は精緻でただしピーピングとかストーキングと同義の下劣なものではあったが地獄の絵の軸を描いた絵師の足取りが掴めた。

 東北。青森の八戸。

 八戸まで賢人と翡翠は新幹線で移動し現地でレンタカーを借りた。面会場所は小さなアート・ギャラリー。狭いがカフェもある清楚なそれだった。
 その女性も清楚だった。

「長島です」

 挨拶したその女性は絵師の孫だという。おそらくは賢人と同世代で30歳までは行っていない静かな女性だった。
 旅の絵師とはつまり日本全国を旅しながら神社や寺院、それから旧家などの依頼を受けて絵を描いて売る。明治から昭和あたりまでにかけて佛画や肖像などをメインにしていたであろう職業画家。

 その子孫である長島は自らも絵で生計を立てており少女の絵が水彩で彩られた一枚絵を名刺がわりにと賢人と翡翠にプレゼントしてくれた。賢人は絵の中の少女の美しさに惹かれつつも別の質問をした。

「ベトナムですね」
「分かりますか」

 少女が白いソフトハットを斜めにかぶって立っている場所が鮮やかな色彩の野菜と果物に溢れる市場でその種類と色の濃さからすぐに賢人はそう反応した。

「わたしも放浪してます。世界を旅して、わたしの場合は現地ではなくって日本の旅行会社さんや旅行雑誌社さんからの依頼を受けて現地へスケッチ旅行に出かけるんです。それを買って頂いてます」

 絵の右隅に‘Miro Nagashima‘とサインがあったのでどんな漢字のMiroさんだろうと彼女の美しさにも興味を持ち始めていた賢人を遮るように翡翠が長島に話しかけた。

「ねえ。早く地獄の絵、見せてよ」
「あ。そうですね。すみません今お持ちします」

 日本画も取り扱うのだろう、掛け軸を吊る金具が何本も取り付けられた壁のスペースがありそこへ長島はまず3本吊るした。
 吊るす前に長島が軽く絵に会釈して一瞬だけ手を合わせたのが印象的だった。

「これだよ・・・」

 翡翠が立ち上がって壁に歩み寄り3本の『地獄』の正面に立つ。
 賢人も空間に緊張が走るのを感じた。

 閻魔大王の前で『また来たのかっ!』と一喝され轟音で鼓膜が破れ耳孔から血を流す裁判途上の死者たち。
 大釜でアルコール漬けの遺体のように巡廻する亡者たち。
 逆さになったつららのような突起の山を登る一糸纏わぬ人間ども。

 そして賢人の見た青鬼が居た。

「こいつだよ、翡翠」

 亡者の身長から推測すると4mを超える体躯。その亡者の身長ほどある鋸を片手で操る豪腕と本当に青い肌。
 そしてそもそも大きさの比較対象とした亡者は鬼の鋸で半身となり血と臓物が周囲に散らかっていた。

「ごめん。賢人。狂いそう」
「俺も、だ」

 だが長島は2人の後ろで地獄の絵を凝視して微動だにしていなかった。そして翡翠にこう言った。

「翡翠さん。おばあさまはとても尊いお方でした。それこそ畏れ多いと口に出せないぐらいの」
「・・・うん」
「わたしの祖父は全国を旅し、死ぬ間際になってこのお軸を携えて生家に戻って参りました。こんなことを話しました」

 長島は地獄の絵のオーダーを受けた当時の話を語った。それはそうだろうとは思っていながらも人間の想像力の浅はかさを思わずにはいられない内容だった。

「祖父が絵の依頼を受けるにあたりおばあさまは詳細に祖父に説明しました。地獄そのものを」
「うん」
「祖父はそれを聞いては試し絵・・・ラフ画というか絵コンテというかイメージを双方で確認するための言葉での説明とイラストによる確認作業を三昼夜続けました」
「寝ずに?」
「はい。そしてほぼその作業が完成し祖父が最後のラフ画を描き終える頃に後ろから寝息が聞こえてきたそうです。ああさすがにお疲れなんだなと何気なく振り返ったら、そこに金色の光を放つ仏が横になっていたそうです」
「それがおばあちゃんだった?」
「はい。翡翠さん、貴女は仏の子孫です」

 絵師はラフ画を持って四国に回り、地獄を描き切るためにと弘法大師の修行の地を自ら同等の修行をして精神と肉体をいじめ抜いたと長島は語った。そうでないとあの絵は描けないだろうと賢人も翡翠も深々と長島に頭を下げた。翡翠が仏の子孫ならばMiro Nagashimaは画聖の子孫だった。

 そして三本の地獄の掛け軸の他に、同時にこれも翡翠の祖母が依頼していた極楽の軸二本を翡翠は受け取った。

 氏神が祝詞をあげ堅牢地祇が笛太鼓で往生を祝い釈迦が雲に乗って迎えに来る、これも世の現実が全て虚仮に見えてしまう圧倒的リアリティを持った絵だった。
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