第36話 やりたい

文字数 1,470文字

 物事を進展させるために必要なこととは、物事をやめるために要求されることとほぼ同じだと翡翠は自覚していた。

 翡翠の究極の目的は、神の絵を祀り、神社を再興すること。あるいはこれまでにない新たな神社を築き上げること。
 祭礼関係の多くの事柄が義務に基づくところ、事実として神の絵をさすらわせていることを翡翠は生涯の後ろめたさと感じ、まさしく義務感というか常に神様から威嚇され続けている感覚を持っていたのだが、とどのつまりそれはこういうことだと賢人から指摘された。

「翡翠の親族はダメだ。弟以外」

 賢人は九州で同姓のスーパーの店主から聞いたおぞましい逆賊のごとき、つまり自分の子供の性器を親自らが損壊させるという所業ともしかしたらそれと同じ氏を持つ自分も逆賊のごとき身分かもしれないことを棚に上げて呟いた。

 翡翠は賢人の言葉に決断した。

「賢人。このマンションを神社にしたい」


 工事業者が呼ばわれた。
 この賃貸マンションのオーナーに許可を取った上で。

「さすがに鳥居をドアの外に設置するのは無理だから、入り口をぐぐったところに小さい、人が潜る簡易なやつを。それからその後はまっすぐ真正面に神様の絵を置いて。立ってじゃなくって、正座してちょうど目線が少し見上げる程度の高さに絵を掲げて。絵の前には祭壇をおいて榊やお酒を供えられるようにして」

 まるで新婚の夫婦が新居をリフォームするような感覚で翡翠は手際よく業者との打ち合わせで指示を出す。
 小規模なリフォームにもかかわらず、百万単位の金額にはなった。そして翡翠はこうも言った。

「賢人。10年分割払いでもいい?」

 賢人が工事代金を現金払いで立て替える格好とし、翡翠は金銭消費貸借契約証書を賢人と交わし。工事代金を翡翠に貸し付ける形とした。翡翠は毎月1万円を賢人に払い続けることとなった。
 利息は1万円の他に別途支払うこととして。

 賢人は翡翠がまるで自分を赤の第三者としてしか見ないような対応だと悲しくなったが、法律的観点からは杓子定規に対応しておいた方が二人が決別した時にも合理的だろうと納得した。

 そして、マンションのLDKが神社という異様な空間が出来上がった。

「参拝者は想定しているのか?」
「とりあえず新聞屋かな。ははっ」
「ダメだ」

 賢人は新聞屋の参拝を拒絶した。それは賢人の居ない白昼に男女が神社という密室で二人きりになることへの妄想からであった。仮に実際には神の絵と三者での邂逅だったのだとしてもだ。
 ならばと翡翠は暫く考えてこう言った。

「弟」

 賢人は一気に高熱が出て膝がガクッと折れる感冒になった時のあの感覚を思い出した。
 そして、暖かな秋の午後、大学時代の友人の結婚式の二次会に参加した後、陽気の中、背筋がゾクゾクと悪寒に襲われ、顎も咀嚼がままならないほどに震えて歩いた時のあの感覚をも思い出していた。

 ただ、弟ならば、認めないわけにいかないだろうという強い義務感が賢人を苛んだ。
 恐らくは翡翠の親族の中で唯ひとり、前提も停止条件もなく他者を一方的に恨み・呪ってもいい人物が弟だと賢人自身も嫌というほど分かり過ぎた。

 残りは全員自業自得の輩たちだと賢人も思い、翡翠もそう結論していた。

 ただ、だからこそ弟は恐ろしい霊魂だろうと想像される。

 そしてその霊魂が、神の絵の前に現れる。
 なにを祈願するのか、賢人は想像できなかった。
 いや、想像することそのものが破滅への手順のような気がした。
 なのに翡翠はこう言った。

「弟を招くのはわたしのやりたいこと。ははっ」

 賢人は拒否するタイミングを永遠に失った。
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