第15話 険しい

文字数 2,123文字

 賢人と翡翠は獅子殺しを見た後大阪を出て四国へ渡った。香川と愛媛の県境辺りの、源氏と平氏が海戦を繰り広げた海を見下ろす小高い山の上にある神社を目指した。翡翠も神社の名前は分からず、正確な場所も知れなかったので山を目指して車で走り、山の手前の公営駐車場に車を停めて徒歩で向かった。

「置いていけない」

 車上荒らしが神の絵を盗むことを翡翠は恐れた。賢人は美術品的価値を見込んで盗むのかと翡翠に聞いたが、翡翠はそうではなく神の方から招くのだと言い張った。もし自分がこの絵の伝承者であることを否定されたら自分は今度こそ決断しなくてはならないとも言い張った。なんの決断かと賢人が訊くと命の決断だと言った。だから賢人は神の絵を持って山を登らざるを得なかった。

「わたしが持とうか? ははっ」
「いい」

 陽光が降り注ぐ山へと登る小道から瀬戸内海が見え、賢人は一瞬だけ朗らかな気持ちになった。ただ、この明るい海で日本の歴史を決するような死闘が行われていたのだと思うと、自分と翡翠との運命も悲劇的な結末ではないかという思いを抱いた。その時、翡翠がもう一度言った。

「母親の実家が四国の神社だった」
「お母さんも巫女だったのか?」

 うん、と頷いてそれから吐き捨てた。

「わたしの神社よりも格上だったらしい」
「なんだい、その格ってのは」
「知らない。なんでも宮司として母方の祖父の方が父方の祖父よりも位が上だったみたい。だから祖母は嫁につらく当たった」
「神様に関係ないじゃないか」
「そうだよ。人間の背比べの話」
「くだらんな」
「くらだないよね。ははっ」

 賢人と翡翠は鳥居をいくつもくぐった。翡翠も諸知識を学ぶ前に身内の神職が全滅したので鳥居が複数あることの理由も翡翠は知らなかった。ただ、神社のエリアの外界からの何者かの侵入に厳重に備えているのではないかという想像は賢人はできた。

 登り切った場所は平地で、腐葉土とその上に更に降り積もった柔らかなクッションの上にまた更に水溜りがいくつかできていたが、その水がいつ降った雨のものなのかまでは分からなかった。翡翠はその水溜りをも踵を履き潰したデッキシューズで濡れることを頓着せずに歩み進んだ。

 人間が歩行するにはやや困難な敷地の上に、だが荘厳な歴史的重みが滲む、けれども手入れが行き届いた美しい社殿がそこにあった。

 ただ、無人だった。

「賢人。絵を」
「ああ」

 翡翠と賢人は社殿の階段を登り、おそらくは神楽が舞われていたであろう黒光る板敷に第一歩を下ろすと賢人は靴下を通じて、翡翠は裸足の足裏に直に氷のような冷たい温度を感じながらスサスサと滑るように前へと進んだ。満月の銀盆のような鏡が置かれた台の前に天照皇大神宮が描かれた神の絵を立てかけ、翡翠はやはり師を死滅によって失ったための我流の舞を舞った。

 それは早朝暗がりの大阪の地で観た、天狗役に抜擢された少年が獅子を殺す瞬間の激烈なステップのような、おそらくは日本の史実に出現しなかった新しいタイプの神楽だった。
 雅楽もない中、翡翠は何かが乗り移ったように神の絵の前でダンスした。

 舞い終わると翡翠は汗で彼女にとっての巫女装束たる白のワイシャツとブリーチした白のスリムジーンズとをぐしょぐしょに重たくしていた。
 ワイシャツは背中に張り付いてその肌色を透けさせるだけでなく、胸も肌色が滲み、控えめな桃色の二つの突起が賢人の目に入った。
 それでも賢人は真正面から視線を交わし合う女神への畏怖を捨てず、微塵も性欲を持たないように自身の心身をコントロールし尽くした。

「賢人。ナイフを」
「ああ」

 本当は魔を斬るための短刀が欲しかったが入手のハードルが高すぎるため真摯に仕事に向き合う鍛治が打ったとされる果物ナイフを刀の代わりに使った。

 翡翠は、ナイフを利き手ではない右手の親指と人差し指と薬指とで持ち、決して乾燥しない赤いラインの入った手首のスナップを利かせながら何度も宙空を斬った。

「てい、てい、てい!」

 翡翠が動く度に翡翠の前の空間に居るネコ科の猛獣が咆哮を上げ、その度ごとに口腔の赤い肉と生臭い呼気が吐き出され、賢人の顔に目に見えているものはほんの幻で目に見えないものは現実でないのではなく、52段高(だんたか)の異次元の高みなので自分ごときには見えないのではないかと感じ始めていた。翡翠そのものが対峙しているのはそういう世界を前提に目に見えないが確実に目の前にブラックホールのように存在する質量との戦いなのではないかと思い始めた。

 その瞬間、翡翠のオクターブが下がった。

「ニチゲツハテンタイデハナイ。ナンジラガヒヲツクレルノカ。ツキヲツクッタタメシガアルカ」

 ステーキハウスへ向かう山中で聞き取れなかったことを教訓にしていた賢人は翡翠が神に向かう時はスマホのヴォイス・レコーダーを常にオンにしていた。だが、今の言葉は賢人はすぐに理解し、脳内で即座に意訳した。

『太陽と月は単なる天文学上の天体ではない。人間は太陽も月も創れないのに小賢しく宇宙の真理に近づいたなどと言うんじゃない』

 儀式が終わった後、賢人はスマホの音源を翡翠の前で再生して見せた。そして問うた。

「翡翠。これは一体誰の言葉なんだ」
「分からない」
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