第61話 死にたいひとたちと死にたくないひとたち

文字数 1,708文字

 曇天だった。
 ただ、翡翠が日常会話のようにこう言った。

「ズラすよ。ははっ」

 イグサの香りが全くしなくなった民宿の畳の上に立てかけた神の絵に翡翠はひれ伏し、畳表に額をズリズリと擦り付ける摩擦音がする中、それが終わる頃には部屋の出窓から日が差し込んでいた。

「え、ええっ!? 翡翠ちゃん、雲をズラしたの!?」
「そうだよ」
「そんな・・・まさか・・・」
「うるさいなー。普段は色んな人が迷惑するからやらないだけだよ。子供の頃からなんとなくできてたし。上空の雲をちょっとズラしただけだし。大したことないよ」
「説明が、つかない」
「知らないよ。科学的に分析しなよ」

 だが眞守がもっと驚いたのは翡翠の今日の『巫女装束』だった。

「翡翠ちゃん、それ・・・」
「なんだよ」
「エッチだよ」

 ベトナムで吊るしで買ったアオザイ。
 純白で胸のあたりに錦糸で紫陽花を刺繍したそれ。
 賢人は苦言を呈した。

「翡翠。アオザイは下の衣装もセットなんだぞ」
「あー。あの長いヤツね。動きにくくて戦闘の邪魔だからいい」
「でもそれじゃ・・・下着が見えるぞ」
「え? でも腰までスリット入ってるからしょうがないよね。ははっ」

 翡翠は下の下着しか着けない。
 だからスラックスのようなアオザイの下の部分を履かなければ腰まで入ったスリットでふくらはぎから太腿、腰のその下着までが露わになる。

 胸にも下着は着けていないので白い布地で胸のふくらみのその先の部分も透けて露わになっている。

「まさかこの『ハレの日』にいつものボロボロのワイシャツにホワイトジーンズって訳にいかないでしょ?」

 そういう翡翠は普段の素足に踵を履き潰したデッキ・シューズではなく足元は踝までの足裏に滑り止めがついたソックスを履き、濃いブルーのレース用超軽量ランニングシューズで、白のアオザイと直線と曲線が美しい白い脚の肌にやはり美しく映えていた。

 この決戦の朝、三人は顔を洗い口をすすぎ、神の絵に額付いて必勝を祈願した。

 それから女将が用意してくれた、味噌汁、白米、たくあん、フグの干物、煮豆の朝食を二杯ずつ無理にでもお代わりして食べた。

 戻るとは伝えながらも賢人は宿代を女将に先払いしてからバンに神の絵と地獄・極楽の掛け軸と反射鏡とを積み込み、河川敷へバンをスタートさせた。

 市街なので10分ほどの移動で河川敷の堤防へ乗り入れる道にたどり着く。ちょうどその道の脇は一級河川をバックにするような形で護国神社が位置しており昨日既に参拝を済ませてあったその社殿に通り過ぎる際に全員で祈りを捧げた。

「あ。アオサギの雛」

 社殿裏の林に巣作りをしているアオサギの群れがグワグワと鳴くその中に嘴の黄色い若鳥が飛行練習をする様子を翡翠は雛と表現したのだ。

「かわいい」

 翡翠がこんな単語を発することにずっと接してきた賢人は長閑な気持ちというよりは万感の思いを込めたギリギリの精神状態を想像した。

 細い進入路にバンは入り曰く付きの桜の木が植わっている碑文の横を通り過ぎて河の本流と支流がぶつかる地点まで来てバンを止めた。
 河川敷のグラウンドゴルフ場には後30分ほどで有史以来最大規模のブラックホールが出現することやそもそもニュースでようやく映像を捉えたと大騒ぎのそれが地球の自分たちの足元に過去から当たり前のように出現していたことなど知る由もない主に老人たちが、ゴルフもどきに興じていた。

「どうしよう。全員死なせちゃったら。ははっ」
「それも『潮時』ってことだろう」
「賢人さん。クールですね」
「何もしなけりゃ少なくとも本州の人間は全員死ぬ」
「ははっ。みんな死にたいのかな? 死にたくないのかな?」
「翡翠ちゃん、シュール」
「眞守。俺はな、生まれてから一度も死にたいと思ったことのない人間は信用しない」
「う、うん」
「そういう人間は自分が死にたくなるような事態に陥る前に他人に死にたいと思わせてるからだ。他人を殺して生きてるのと何ら変わらない」
「そ、そっか」
「賢人。そろそろセットしようよ」
「ああ。眞守、頼む」
「はい」

 賢人は河川敷にいる大勢の老人たちよりも、翡翠と賢人という10代の若者たちをなんとか死なせずに勝ちたいと切望していた。
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