第66話 鬼を殺すという中二病と殺せないという老人

文字数 2,102文字

 鬼が腕を火傷したのではないかと思える瞬間に更に翡翠は人間とは思えない行動を取った。

「溶けろ! 悪鬼神!」

 翡翠は青鬼に唾を吐きかけながら地獄の掛け軸をタオルで鬼の手首のあたり全体を洗い流すように摩擦し尽くした。

 鬼の右手首が溶け崩れ落ちた。

 対等、という言葉は例えば人間対人間、悪魔対悪魔、神対神という場合の言葉だと賢人は思い描いていたが、人間対鬼というケースにも「対等」という概念が当てはまるのかと錯覚しかけていた。

 だが、すぐに賢人は気づいた。
 これは対等ではない。

 仏の子孫対鬼という、翡翠が優位者である戦いなのだと。

「ウオオオオオオイヤァァァアア!」

 だが手首が溶けて白い骨の断面が崩れた肉片から見えたその状態で鬼は吸引した。

「ああああっ!」

 堤防の上で視聴していた老人たちの内の老爺がひとり、中空をスライドして鬼の前に飛行してきた。飛行ではなくただ単に飛び寄せられているだけなのだが。老爺は周囲が何も成せないまま鬼がブラックホールの漆黒の平面盤から顔面から首までをにゅりにゅりと出してくるその前に飛来してきた。

「わわわわわわわ!」
「じいちゃん、嚙みつけ!」

 翡翠が怒鳴りつける脇で一命をとりとめた賢人が眞守から反射鏡の追加を受け取って鬼の目の辺りを狙ってスロウした。だが鬼が瞼を閉じるとその瞼の厚みが完璧なシールドとなって反射鏡をはじき返した。

「助けてくれっ!」
「だから嚙みつけって!」

 いくら大柄の鬼とて身長4mではそのままの口腔の直径で老人といえども人間を丸飲むことはできない。鬼は顎を外してまるでヘビのような手法で老爺の髪が抜け落ちた頭部を赤くてそこだけ柔らかそうな口内に含んだ。
 そのまま飲み込むことは体の構造上無理なのだろう、堅牢な歯牙でもって頚動脈の辺りで老爺の頭を噛み切った。

 噛み切ったのだ。

 眞守が吐いている。

 賢人も吐きたかったがなんとか堪えた。

 翡翠のイラつきが極度に達し、チチチチ、と貧乏ゆすりのような舌打ちをしながら独り言のように怒鳴った。

「だから嚙みつけって言ったのに!」

 切り離された老爺の残った体躯を堤防の上から老人たちは見ているにも拘らず誰も逃げるために走り出したりしない。
 念仏を唱えているようだ。

 翡翠は老人たちを叱りつけた。

「助かろうと思え! 絶望するな! 念仏を称えながら、走れ! わたしが仏だっ!」

 とうとう翡翠は「仏」を自称した。

 それが事実なのか虚構なのか賢人はまだ判断を下せていなかったが、そう叫ばないと老人たちは自ら生き続けようとはしないだろう。ようやくまだ生き残っている老爺・老婆たちは歩くようなスピードで堤防を向こうの方へ走り出し始めた。

 ブラックホールの方へ賢人たちが目を戻すと、多分そういうことが可能なんだろうと予測していた事態が起こっていた。

 鬼の手首がモニュモニュと再生していたのだ。

 釈迦が悟りを得んとして鬼の餌食となる覚悟で鬼の口腔に飛び込んだのとは真逆の精神状態で鬼に頭部を食われた老爺は鬼の血肉となり鬼の手首となって蘇ったのだろうか。

 だが、よく見ると小指がまだ生えていなかった。

 逃げ走る内の老婆が一人、ブラックホールに吸引され飛来してきた。

 小指のためだ。

 翡翠は喉から血が出るほどの音量で老婆を叱咤した。

「ばあちゃん!! 嚙みつけえっ!!」

 おそらく老婆は部分入れ歯であろうその口腔を何度かモグモグするような運動をさせた後で、飛来した瞬間の出会い頭に、おそらくは最低でもバナナぐらいの太さはあるであろう鬼の薬指に齧りついた。

「噛み切れぇえっ!!」

 翡翠の絶叫に脊髄反射で人生最大のアドレナリンを分泌させ、老婆は鬼の指をゴリン、と齧り切った。

 ただしそのまま老婆は地べたに落下し鬼の指を咀嚼せぬまま飲み込んでしまい、喉に詰まらせて白目を晒した。
 賢人が滑り込むように駆け寄って老婆の喉に手首を突っ込み、鬼の青黒い剛毛が生えた指を引きずり出した。
 賢人は老婆の生死を確認しないままにその鬼の指の研ぎ澄まされたような鋭利さを持つ爪をスラックスのベルトを外して指ごと反射鏡にグルグル巻きにして括りつけた。
 賢人は翡翠の気合を真似た。

「死ねぇぇええっ!!」

 今度こそ賢人は鬼の眼球を捉えるためにフリスビーでも円盤投げでもなく、ハンマー投げの剛腕のけれども鉄人でありながら哲人のようなオリンピック金メダリストの投擲のフォームをテレビで視聴したその様子を記憶のみで完全模倣したターンを何回転も繰り返して、さきほどの老婆と同様人生極大のアドレナリンを放出して投げ放った。

 それは必然のように鬼の左目に肉迫し、まるで眞守がGPSを駆使して寸分違わぬ精密さで反射鏡のセッティングを行った正確さのように鬼自らの爪の最尖端の点が咄嗟に閉じていた瞼の肉にプスリと刺さり、そこからその下の人間よりも大きな瞳孔を確実にえぐった。

「ウオウオウオウオウォォオーーっ!」

 咆哮のようなけれども間違いなく苦痛から発せられたであろう大きなデシベルの音声が賢人たちの鼓膜をビリビリと震わせた。

「わたしとおんなじだ。ははっ」

 翡翠と同様、鬼は左目を失明した。
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