第20話 忙しい(せわしい)
文字数 1,141文字
賢人と翡翠は誰からも頼まれない誰からも感謝されない誰にも知られもしない『巡業』を平成が終わり令和元年を迎えた朝も続けていた。
広島を出て次なる大陸、『九州』を目指して行くのだが、どうやって海を渡るかを賢人と翡翠は激論していた。
真夜中に車を走らせながら。
「橋があるよ」
「いや。海を渡りたいんだ」
自称巫女で生活保護受給を源泉とした神への奉仕活動を続ける存在そのものが非現実的な翡翠が、『関門海峡大橋』という極めて現実的な選択をしようとするのに対し、賢人は『海を渡りたい』という漠然としたやや非現実的な方向へ話を持って行こうとしていた。
「カーフェリーだ。運行スケジュールなんかを考えたら徳島からだな」
「ごめん、賢人。わたし中卒だしあんまり完璧に地図とか頭に入ってないけど徳島って四国だよね」
「ああ」
「ここって本州でこの間四国を縦断して戻って来たんだよね」
「そうだな」
「バカじゃないの」
賢人は翡翠からバカと言われるのが嬉しかった。
翡翠との距離が一気に縮まった気がした。
バカと言われ続けたいがためにより一層賢人はカーフェリーでの渡航にこだわった。
ただ、翡翠は拒否を続けた。
「言ったよね。わたし乗り物にあんまり強くないって。小さい頃に地引網の体験実習でちっこい漁船に30分ほど乗っただけでもうダメだった」
「フェリーは揺れないさ。瀬戸内海から関門海峡あたりまでは波も穏やかだし」
「渦潮とかあるよね」
「ふ。ぐるぐる船が巻き込まれるとでも思ってるのか」
「わたしやだよ」
「
走行中だったが、停めて、と翡翠が言った。ハザードランプを点け、路肩に寄せて賢人は車を停めた。
「トイレか?」
「さよなら」
そのまま助手席から翡翠は降りた。後部座席のドアを開け、神の絵を出してひとりで抱えた。
賢人も車を降りた。
「おい。どこ行くんだ」
「東京に帰る」
「なんで」
「わたしは賢人のモノじゃない。それからこの神さまも」
翡翠の両手がふさがっているので賢人は絵の端を掴んだ。
「触るな!」
翡翠は狂っているとは言え、いつもはおっとりした長閑な雰囲気をどこかしら残していたが、今はそれが微塵も無かった。
神社の鳥居の下で伏せて身構え、下から視線を睨めあげてくる若猫のようだった。
「
翡翠の言葉は真実だと賢人は思った。
賢人の祖母は故郷で市場に流通しない自家消費の畑を耕して家族に食わせ、誰からも頼まれない花を畑の地蔵に供え、誰からも頼まれないままに氏神の社へ続く垂直に近い石段を登り、そして背中を振り返っておんぶしている赤子の賢人に語りかけた。
「ケンちゃん、ケンちゃん。『ありがとう』って拝むのさ」
「翡翠、許してくれ。もう言わない」
賢人がそう言うと翡翠は黙って車に戻った。
広島を出て次なる大陸、『九州』を目指して行くのだが、どうやって海を渡るかを賢人と翡翠は激論していた。
真夜中に車を走らせながら。
「橋があるよ」
「いや。海を渡りたいんだ」
自称巫女で生活保護受給を源泉とした神への奉仕活動を続ける存在そのものが非現実的な翡翠が、『関門海峡大橋』という極めて現実的な選択をしようとするのに対し、賢人は『海を渡りたい』という漠然としたやや非現実的な方向へ話を持って行こうとしていた。
「カーフェリーだ。運行スケジュールなんかを考えたら徳島からだな」
「ごめん、賢人。わたし中卒だしあんまり完璧に地図とか頭に入ってないけど徳島って四国だよね」
「ああ」
「ここって本州でこの間四国を縦断して戻って来たんだよね」
「そうだな」
「バカじゃないの」
賢人は翡翠からバカと言われるのが嬉しかった。
翡翠との距離が一気に縮まった気がした。
バカと言われ続けたいがためにより一層賢人はカーフェリーでの渡航にこだわった。
ただ、翡翠は拒否を続けた。
「言ったよね。わたし乗り物にあんまり強くないって。小さい頃に地引網の体験実習でちっこい漁船に30分ほど乗っただけでもうダメだった」
「フェリーは揺れないさ。瀬戸内海から関門海峡あたりまでは波も穏やかだし」
「渦潮とかあるよね」
「ふ。ぐるぐる船が巻き込まれるとでも思ってるのか」
「わたしやだよ」
「
カネは俺が出すから
」走行中だったが、停めて、と翡翠が言った。ハザードランプを点け、路肩に寄せて賢人は車を停めた。
「トイレか?」
「さよなら」
そのまま助手席から翡翠は降りた。後部座席のドアを開け、神の絵を出してひとりで抱えた。
賢人も車を降りた。
「おい。どこ行くんだ」
「東京に帰る」
「なんで」
「わたしは賢人のモノじゃない。それからこの神さまも」
翡翠の両手がふさがっているので賢人は絵の端を掴んだ。
「触るな!」
翡翠は狂っているとは言え、いつもはおっとりした長閑な雰囲気をどこかしら残していたが、今はそれが微塵も無かった。
神社の鳥居の下で伏せて身構え、下から視線を睨めあげてくる若猫のようだった。
「
わたしだって稼いでる
」翡翠の言葉は真実だと賢人は思った。
賢人の祖母は故郷で市場に流通しない自家消費の畑を耕して家族に食わせ、誰からも頼まれない花を畑の地蔵に供え、誰からも頼まれないままに氏神の社へ続く垂直に近い石段を登り、そして背中を振り返っておんぶしている赤子の賢人に語りかけた。
「ケンちゃん、ケンちゃん。『ありがとう』って拝むのさ」
「翡翠、許してくれ。もう言わない」
賢人がそう言うと翡翠は黙って車に戻った。