第37話 消したい

文字数 1,595文字

 儀式は賢人が新たな職場に赴くその前日、正確には当日に既に日付が変わっていた明け方近く、賢人と翡翠が二人して早朝覚醒をした時間に始められた。

 何が起こっても、外界の誰もが救いに来ることのできない時間帯。
 更に言えば、隣室や隣の寝具で誰かが寝ていたとしても、「死にたい」と告げて助けを求めることもできず本当にそのまま自死してしまううつ病患者たちの、そんな状況と全く同じだった。
 だから、翡翠は賢人と共に目覚めたこのタイミングでないと、儀式を行うことはできないだろうと強く感じていた。

「呼ぶよ」

 翡翠が一言呟いたその単純な言葉が、どれだけの深く暗く温度の低いものか賢人は完全に理解することはできなかった。

 翡翠の人格をある程度は信じながらもどこかでこの自称巫女の自分が知り得ない恐ろしさをこの明け方にも感じながら、賢人は頷きもせず、無言で暗黙の了解の意思を示した。

 何をやっているのか分からなかった。
 翡翠が、手首の、赤い線の、つまりは鋭利な何かで切ったその切り傷の永遠に生乾きのかさぶたをカサコソと左手の中指でこそぎ落とすと、血が一滴、ぷくっと球のように浮き上がり、その球が完全な球体になる前に翡翠は神の絵の前に手首を水平に移動した。

「あっ!」

 それは賢人の声だった。

 それが神の罰を受ける行為ではないかと賢人は目をつぶった。
 けれども、翡翠は、その血を、採血する針から落とすように、まっすぐに、絵の、日の女神の衣装の赤い顔料の上に、落下させた。

 それは吸収されずに顔料の塊の上に乗ったままでいる。

「大丈夫。このまま乾くから」

 何が大丈夫なのかと賢人は翡翠に言いたかったが、言う間もなくその現象が現れた。

 元より灯火はろうそくのそれのみ。

 今更それが消えたところでなんの恐怖もなかったが、それは消えた。

 光、ではなく、観念としてその少年というよりは幼年が正座して賢人の顎の下から覗きあげてきた。

 ああ・・・・・・・

 賢人は絶望した。
 霊魂であろう、翡翠の弟であろうその幼年の男子の姿は、眼球が無かった。
 鼻が無かった。
 耳が半分のみ。
 右腕は肘から下が無く。
 脚のその足指は親指を残して凍傷のようなただれを見せ。
 実は火傷なのだが。
 けれどもその容姿のすべてのアングルからの映像が

 生きていた。
 死んでいない。
 霊魂が死んでいないということは。
 自分が死んでいるということなのか?

 賢人は翡翠の姿を探した。

 彼女は、弟のその不遇の姿を、抱きしめていた。

 姉弟の久方ぶりの再会なのだろう。

 そして、その映像だけでなく。
 まだ賢人を絶望させるものがあった。

『そうか。彼らの方がもっと不平不満を述べる権利を持つ子らだ』

 並んでいる、五つの肉の塊。けれども魂。
 胎内から外界へ出る前に鼓動を止められた子ら。

 五人の、翡翠と弟との、兄か姉かたち、五人。

 いつかの子供の頃の寺院の光景。
 雨の中の、アジサイが咲く景色。
 アジサイは凶暴に繁殖し、その傍らには地蔵が何体か。

 翡翠が失明したのはその寺院のアジサイの処理によってではなかったけれども、アジサイの茎がまるで枝のように雨の中、ヘドロのようなとろみを塗りたくって、表面上は可憐なフリをして咲いているその風景の中で、生まれ得なかった彼女・彼らの、

「ああ・あ」

 という嘆きのつぶやきに耳を傾けることが、せめてもの償いではなかろうか、と文語体で思考する賢人は。

 気絶することなどできずに四方からの、六人の視線に耐えながら、翡翠の手を、手首を闇の中でまさぐった。

 けれども、それは、どの手を握っても、翡翠の慣れ親しんだその手首ではなく、小さく握られた幼子の拳であったり、逆に賢人がその小さな手に、人差し指を握り込まれて、血流が止まり指先が壊死するぐらいの圧力で、死にたくなった。

 無理なこととは分かりながら。

 恐怖から逃れるために、早く眠ってしまいたかった。
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