第13話 嬉しい

文字数 2,104文字

 賢人は腹を決めた。

「有給、取ります。とりあえず来週いっぱい休ませてください」
「なに言ってんだおい。来週休んで次が10連休ならお前15連休だぞ。辞めるつもりか?」
「もしこれで辞めなきゃいけないならそれでも構いません」

 課長に話して渋られると賢人は働き方改革で有給休暇消化が義務付けられていることを盾に取った。それから偏頭痛も芳しくないことを伝え、療養も兼ねて休ませて欲しいと訴えるとそれ以上何も言わなくなった。

 昨夜借りたレンタカーの契約も延長した。

「翡翠。荷物は?」
「これだけ」

 本当は遠出するならバンの方がいいかとも思ったが翡翠の荷物は驚くほど少なかったのでそのままにした。下着の着替え、それも翡翠は胸に普段から何もつけない主義らしく、ソックスも無いので本当の下の下着だけでしかもそれをスーパーのマイバッグに入れて車に乗り込んだ。

 もう一つの重厚な荷物はあったが。

「絵も、持っていくのか」
「お給仕しないと」
「巫女だからか」
「そう」

 賢人は薄々気づいていた。翡翠が自分と恋人になれないのは未成年で若すぎることが本当の理由ではなく、神の絵が理由だと悟った。
 翡翠の生死はこの絵と共にあるのではないかとすら思った。

「どこへ行く」
「南」

 運転席の賢人と助手席の翡翠と後部座席に立てかけて固定した神の絵。
 賢人がバックミラーを覗くごとに日の女神と目が合った。

 高速を使い東京から南下する2人。
 最初の夜は大阪だった。
 ネットでビジネスホテルのツインを予約した。シングルよりも安く、絵をベッド以外の場所に置こうとしたらツインの大きな調度でないと無理だと賢人は考えたのだ。それでもチェックインの際には改めて許可を得た。

「絵も持ち込んでいいですか」
「はい。構いませんが?」
「神の絵だよ」

 言うな、と言っても翡翠は、ははっ、と笑い、ホテルスタッフがどういう反応をするか楽しんでいるようだった。賢人と翡翠は部屋に入るとベッドの頭上にあるランプやケトルを避けてスペースを確保し、そこにズレて倒れ込まないように神の絵を安置した。翡翠は部屋に備え付けられた湯のみを御神酒の容器にし、空になったアップルタイザーの瓶を二本洗面所で綺麗に洗い、ロビーで生花店を訊いて買ってきた榊を立てた。

 神の絵を安置し奉った後に2人は車で神社へと向かった。ネットでは電話番号と地図しか表示されないような小さな神社や、社務所もなく電話番号すら表示されない(やしろ)もあった。事前に管理者と連絡がつく神社については可能な限り許可を取り、そうでない神社はそのまま訪れることにした。

「翡翠。何箇所?」
「8」

 会社で朝一で有給を無理矢理に認めさせてその足で翡翠を拾って大阪に着いたのが午後遅い時間。それからホテルのチェックインをして最初の神社に着いたのがもう17:00近かった。本来神社へは夕刻以降の遅い時間はネガティブな意識体が集まって来るために参拝は避けるべきなのだと翡翠は言ったが、大阪での滞在時間が限られる以上、すぐに活動し始めるしかなかった。

 賢人と翡翠の仕事は単純だった。
 境内を掃き清めて塵芥を一箇所に集め風で飛び散らないようにした。それから社殿前の床が破れていたりガラスが割れていたりした場合は応急処置で補修した。当然のことだが奉仕に来た賢人と翡翠が更に壊したり、失火などということがあったらそれは2人の命に関わることだと翡翠は説明した。
 それから

「賢人、ダメ!」
「え。いや、葉の形が珍しかったから」
「神さまは葉っぱ一枚、木の枝一本境内から取っていくことを嫌うのよ」
「ケチなのか」
「人間ごときのわたしには分かんないよ。ははっ」

 最後の神社は市街から少し離れた畑の中に建っていた。農作業をしていたであろう老人たちは独居か婿や嫁と一緒に居づらいであろう家へと帰ってしまっており、白い街灯が一本あるだけのエリアで賢人と翡翠は2人きりで作業を始めた。暗いので車のヘッドライトを点けっぱなしにして足元と手元を照らし出した。
 作業が終わりかけた頃、ぞくっ、と気配を2人同時に感じた。

「猫か」
「黒猫だね」

 翡翠が言う通りヘッドライトの光から少しズレた位置で伏せるような態勢で下から見上げてきており、体躯は細いが前足の肩の筋骨が隆起しているような勢いの若い黒猫だった。眉間に皺を寄せ、賢人と翡翠を睨めつけるような視線を向けてきている。
 翡翠が思わぬ行動を取った。

「南無観世音菩薩、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩」

 観音を称え、両手を合わせて猫を拝んだ。

「なんだ、それ」
「猫が憐れだから」
「どうして」
「神の道も仏の法も知らない畜生だから」

 翡翠は称え終わると猫の前でしゃがみこみ、喉のあたりを撫でてやると黒猫は目をつぶって嬉しがった。法悦の表情にも見えた。

 LEDの冷たい白さのヘッドライトに照らし出される翡翠のショートパンツでしゃがんだ態勢のハムストリングスがぺたんと平べったく広がっている様子を見て、賢人は就職活動をする中で浅草寺の観音さまを縋っていた頃の青春時代を思い出した。翡翠にこう言った。

「人間でも神も仏もないっていう奴が最近は多いぞ」
「知らないよ。ははっ」
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