第4話 妖しい

文字数 2,024文字

 翡翠が賢人を(いざの)うたのは病院だった。だがそれは2人が通院する街で一番大きなその総合病院ではなく、街で二番目の、しかし一級河川の堤防の淵に立つ七階建てのまだ新しい総合病院だった。そして病院の建物の中にではなく、その建っている敷地の外、堤防の上を走るアスファルトとゴムチップ舗装のサイクリングロードだった。翡翠が先に立って賢人を誘導する。

「ねえ、賢人。この病院、いいでしょ。リバーサイドに建ってるからリゾートマンションみたいで自殺しようっていう気も失せる。あ。逆の人もいるかもだけど。ははっ」

 翡翠は中途半端な高さの病院の建物や穏やかな川がある立地を見て客観的にそう考えざるを得なかったようだがそれよりも河川敷の雰囲気そのものを彼女が楽しんでいるようだった。翡翠は川幅の向こうに下からそびえるように立つ、やはり夕日の逆光によって黒くくっきりと浮かび上がる稜線の濃い黒色の輪郭を何か見逃してはいけないような。

 そして翡翠が賢人に本当に見せたかったのは夕日ではなかった。夕日が沈もうとする西の空の反対側の、まだ空の青さが残る上空には雲が少し薄くかかっているだけで、賢人が顎を上に向けて視線を真上に走らせると、青に雲の一部のように白い球体が浮かんでいた。

 有明の月。

 そしてそれはもうじき有明では無く、夜の月へと替わろうとしていた。
 沈みゆく夕日と昇りくる月とが対をなして拮抗していた。翡翠はセリフを止めなかった。

「ほらあ。あれが神」

 翡翠は人差し指と中指と薬指の三本をまっすぐ伸ばして夕日と月の中間地点を賢人に差し示した。賢人は最初翡翠の指の、深爪するぐらいに短く切り込まれた爪を見ていたのだが、神とは何なのかを必死で探した。そしてそれは見つかった。

「虹、って呼んでいいのかい?」
「いい」

 夕日と月がその角度に来た瞬間にふたつの天体の間にまたがる空間を、虹で埋めた。翡翠はそれを神と呼んだ。賢人は納得しかねて翡翠に質問を重ねる。

「なぜ、神?」
「ありえないから。こんなの、絶対にありえない自然現象だから」
「自然現象?」
「ん?」
「翡翠。キミが『自然現象』だなんて」
「ははっ。じゃ、生理現象って呼ぼっか?」

 そう言いながら翡翠は右手首のまるでリストバンドのような真白(ましろ)な包帯をビビビと解きほどいた。現れたのは、生乾きの一筋の赤いかさぶたが一本の線になった、おそらく傷だった。安いひょっとしたら男物のシェーバーから取り除いた、塩分で簡単に錆びるような代物の、カミソリで、すっ、と躊躇した力加減で、決して死因とはならないような作法で作られた、生乾きのジェリーのような、少しだけぷっくらとした隆起を見せる赤い線。
 それから、そのあらわになった、包帯が巻かれていた部分だけが異様に白い、生まれついての肌の白さと包帯によってふやけて白くなっているような白さとが月の白さに映えた。

 そのまま今度はやはりその右手で左目の眼帯を外し、親指と中指で眼帯の紐の部分をつまんでぶらんと下げた。
 翡翠の左目の眼球は黒目ではなかった。それは決して何かのコスプレをするカラーコンタクトで左右の眼の色を違える表現方法ではなく、翡翠の眼球は灰色だった。眼の光の色の無い灰色(グレー)。乳白色に近い灰色(グレー)

「失明したんだよね。ははっ」
「それ、自分で?」
「まさか。そこまで痛み知らずじゃない。家の庭で凶暴に繁殖したアジサイの茎が木みたいに()っとくなって枯れ果てたやつを始末しろって母親から言いつかって、ハンディ・タイプののこぎりで切ってたら、枝の破片が突き刺さってね。ちょうど黒目に。ゴーグルつけてりゃよかったね、ははっ」
「どうして笑うのさ、翡翠」
「どうして? 賢人はどうして笑わないの? こんな面白い話。ほら、見てよ。神様だって笑ってるよ」
「なんで虹が神なんだ」
「なんで? だってさ、日の光だけじゃなく月影と一緒になってできてんだよ? 神、でしょ。まるで」
「まるで、ってことは神そのものじゃないんだろ」
「ううん。神さまを表現してる。ねえ、賢人。こんな話知ってる? 大海原に出る直前の出港する船が岸壁から離れる時にね、虹が出てたんだって。幸運の印かと思ったらね。その船、直後に前夜の地震で海底が隆起してた水域で座礁して、全員発見されなかったって」

 賢人は今からでも遅くないと考えたかった。翡翠から離れて翡翠と無関係の人生にリセットして戻れる最後のチャンスが今だと思った。
 だが賢人は、翡翠の左目のグレーの光ない色と、右手首の白さとに既に性的なものともとれるような愛しい感情を抱いてしまっていた。顔を見ずに死んだ左目を見ていた。身体全体の白さを見ずに右手首の病的な生白さだけを見ていた。

 賢人は自分がうつ病を発症した時から、やや自分自身は狂っているんだと思っていたのだが、翡翠と出会って自分よりも圧倒的に狂っている人間とこんなにもあっさり出会ってしまうことに不思議さを抱いていた。

 狂ってるから、神なのだと思った。

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