第32話

文字数 3,876文字

 次の日の11時、医院にやってきた母親の久美子は、
「皆さんに色々ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」と青木に向かって深く頭を下げた。

「いえ、長年警察に協力してきたのですから伊達さんは何も悪くありませんよ」青木はすぐにそう応え、「今回は私が犬の記憶を転送したことが原因かも知れないんです…」と申し訳なさそうにして下を向いたが、
「隼人が…いえ、圭一が望んだのなら、警察や青木さんの責任ではありません」久美子は青木が伊達と呼ぶのに合わせて仮の名で言い直し、「子供の頃から、人を助けられるようになりなさいと育ててきたので自らの意志でやった事だと私には分かります」毅然とした態度で2人に告げ、「治療の方、私は何でもしますから遠慮なさらずに申し付けてください」再び頭を下げた。

 青木はその言葉に小さく頷き、
「済みません。つい、伊達さんと呼んでしまいました。彼は一条隼人さんだと判明していたんでしたね」苦笑いして言うと、
「皆さんの呼び方で構いません。伊達圭一と言わなければ判らない方も多いでしょうから」久美子はすぐにそう応えた。

 青木はボイスレコーダーのスイッチを入れると、
「では、圭一さんと呼ばせて頂きますが、先ずは彼が生まれた時から行方不明になるまでにあった事を何でも構いませんのでお話し頂けますか?」久美子を見て言った。

 久美子の話しでは伊達が一人息子だからかとても可愛がられていたようで事故で亡くなるまでは父親からも多くの愛情を貰い、ことあるごとに色々な場所へ出掛けて様々な経験をさせてもらったようだ。
 父親亡き後は母親の久美子が女手一つで大切に育て大学まで行かせる事ができたと話し、母一人、子一人で苦労はしただろうがそんなに不自由のない愛情に溢れた暮らしぶりが伺えた。

 久美子が話し終えると、黙って聞いていた青木が口を開いた。

「お話し頂いた内容からは普通の家庭と比べ、愛情が足りていないとは思えません。また、トラウマがあるとすれば早くに亡くした父親の事くらいですが、その後の生活ぶりからは今回の狂乱の原因とは考えにくいです」手にした紙に何かを書き込んだ後、「ここからは私が気になっている事について質問しますので何か気付いた事があれば教えてください」そう言ってデスクの棚から取り出したファイルを開いて久美子に質問を始めた。

「圭一さんは一家殺人事件の被害者である麻理という名の子へかなり感情移入していましたが、何か思い当たる事がありますか?」
 青木が最初の質問を投げかけると久美子はハッとした表情を浮かべ、話し始める。

「夫が事故で亡くなった時、圭一はまだ2歳だったので覚えているとは思えませんが…」少し自信なさそうにして、「私はそのショックで妹になる筈の子供を流産してしまったのです。夫と2人でそうしようと決めていた『真里』という名前を呼びながら、毎日悲しみに暮れる私を圭一が見ていたのかも知れません」真剣な面持ちで青木を見た。

「そうでしたか。おそらく記憶にはないでしょうが深層心理に刻まれているのかも知れないです…」そう言うと、「次に、その被害者の行方不明になった飼い犬の捜索にも固執していました。その犬はコジローという名の茶色い柴犬ですが何か関係のありそうな出来事を思い付きませんか?」青木は次の質問に移った。

「圭一が12歳の時に拾ってきた黒柴のゴローという犬を飼っていました。子犬から飼い始めたので成犬になっても自分が守らなくてはならないと思っていたようです。圭一が行方不明になった後、私が両国を離れる3年前まで生きていました」思い出すようにしながら答えた。

 青木はそんな要領で多岐に渡る質問をした後、
「最後の質問は少し難しいかも知れませんが…彼が大人を信用しなくなるか、敵意を持つようになる事を経験したという事はありませんか?」理解しやすいようにゆっくりした口調で訊いた。

「私が知る限りではそういう事はなかったと思います」と少し下を向いて考えた後、久美子が答えた。


 青木はしばらくの間、何も言わずに質問が書かれたファイルに久美子の答えを書き込んでいたが顔を上げると、
「これまでのお話からはコジローが黒柴のゴローの記憶を脳のどこかに思い起こさせ、本人が気付かぬ内にコジロー探しに固執させたのだと思います。麻理という被害者へのこだわりと大人に対する不信感については何が原因なのかハッキリしませんが、心の深い部分にある何かがそうさせたのかも知れません」時計を見ながらそう言い、「少し休憩しましょう」と5時間に渡って休みなく続けた話し合いを中断した。

 軽い食事を摂って休憩した後、青木が伊達の精神が今の状態に至った経緯とそれによって起きた一連の出来事を詳しく話した。
「今の状況でお母さんにどう協力をお願いしたら良いのか、考えあぐねていまして…」困った表情でそう言うと、
「私にも考えさせてください」何かを決心したように言い、「明日、関係した場所や人に会わせて頂けませんか?」久美子が警部と青木を見て言った。

「では、私がお連れします」警部がすぐさまそう答えた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 翌日、吉田警部の案内で両国のラーメン屋を訪れた由紀子は
「息子がご迷惑をお掛けして本当に申し訳ございませんでした」と頭を下げたまま言った。

「久しぶりに会えたというのに、頭を上げてくださいよ」店主は照れ臭そうにして、「息子さんはずっと警察に協力していたからああなってしまったと事情は良く解っているから気になんかしてませんよ。それより、早く元気になるといいね」と優しい眼差しで久美子を見て言った。


 その後、警部の車で光明園へ行った久美子は片瀬に世話になった礼を言い、施設での伊達の暮らしがどんなだったかを聞いた。
 玄関で園長の片瀬と別れの挨拶をしていると沙也香がそこへやって来た。

「伊達さんのお母さんですね? 見つかって良かった…」胸に手を当てながらそう言うと、「伊達さん、あんな事になっちゃって残念です…、コジローを連れてきてくれると約束してくれたのに…」と下を向いて黙る。

「圭一がそう約束していたのなら、代わりに私がコジローを連れてくるわ」沙也加の背中を撫でながら慰めると、
「いいの、それより…伊達さんが早く治るように側にいてあげてください」首を振って顔を上げ、久美子を見てそう言った。

 園を後にすると久美子は早速、コジローの元へ案内してくれるよう警部に頼んだ。

「お連れする事は出来ますが、コジローには誰も近づけないので園に連れて帰るのは無理ですよ」警部は残念そうに言ったが、
「行くだけで良いんです、お願いします」久美子が何度も頭を下げて言うので、ペット探偵の藤岡に手助けを頼んで現地で待ち合わせることにした。

 現地に着くと藤岡はすでにそこにいて、2人が車から降りるのを見て近付いてくる。
「私は伊達さんからコジロー捜しを依頼されたペット探偵の藤岡です」先ず、藤岡が挨拶した。

「久美子と申します。圭一が大変お世話になりました」丁寧にお辞儀をしてから犬小屋を見る。

「近づくと危ないので先ず、私が様子を見てきます」藤岡はそう言うと恐る恐る犬小屋まで歩いて中を覗くが
「ガウゥー、ガァワン、ガウゥゥー、ガウゥー」コジローが唸りだすとすぐに諦め顔になる。

 藤岡は2人の元へ戻ってくると
「こんな調子です。ここまで嫌われる事はめったにないんですが…」悲しそうに言ったがそれを聞いた久美子は黙ったまま犬小屋の方へ歩き出した。

「あ、危険ですよ!」そう言う藤岡の忠告も聞かずに進み小屋から2メートルの所まで行くと、唸り始めたコジローに背中を向けていきなり地面に寝そべった。

 警部と藤岡は久美子が何をするつもりなのか分からず、ただ黙ってそれを見守った。

 コジローがさらに激しく唸り始めたが久美子は横になったままピクリともせず、10分程経って静かになると寝返りを打つようにして犬小屋へ向きを変え、再びじっとする。
 警部と藤岡は一体何をしようとしているのか分からずに時間も忘れて久美子を見ていたが20分経っても何も起こらない。

 しばらくして再びコジローが唸り始めたかと思うと突然、久美子の顔を目掛けて犬小屋から飛び出してきた。

「危ない!!」
「危ない!!」
 警部と藤岡の2人は同時に叫んだが、久美子が少しも動じずに優しい眼差しで見詰め続けるとコジローは動揺して後ずさり、おどおどし始める。
 その後「クゥー、クゥーン」と鼻で鳴きながら顔を舐め始めると久美子はようやく起き上がり、胡坐をかくように座り直して両手でコジローの顔をぐちゃぐちゃにいじる。

「ずっと守ってきたのね。これを…」そういうと久美子は小屋の中にあった赤い革のブレスレッドを拾い上げた。

 コジローを繋いでいた鎖を外すと短く持って警部と藤岡の元へ連れて行き、
「このブレスレッドは?」と訊ねる。

 警部は止め金具の横で食いちぎられたその赤い革のブレスレッドを見て、
「それは麻理ちゃんのものかも…、理由は判りませんが犯人が奪って行ったのをコジローが見ていたのかも知れません」そう言うと、「コジローは奪われた麻理ちゃんのブレスレッドを取り返そうとして犯人を追っていたんでしょうか」藤岡を見て不思議そうに言った。

 藤岡は警部に黙って頷いた後、
「それにしても久美子さん、すごい迫力でした。コジローが完全に気迫負けしていた」感心して言うと、
「どうしても圭一がした約束を果たしたかったのです」先ほどの迫力をすっかり消して久美子が答えた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み