第20話

文字数 3,500文字

 母親の捜索で判明した事実をひとつひとつ青木に説明していると伊達の頭の中で突然、何かが溢れ出すのを感じた。
 それは今、自分が抱えている心配事だとすぐにわかったが、やがてそれらが渦を巻いてもの凄い速さで回転し始めると何も話せなくなってしまう。

 伊達が右手で両目を覆いながら下を向くと、
「大丈夫ですか? 大分お疲れのようですが…」青木が心配しながら覗き込むが、
「済みません…。気になっている全ての事が突然、頭の中に広がり始めて…、混乱して何が何だか…」伊達が少しだけ目を開けて答え、「すぐに落ち着くと思います…」と再び下を向いてしまった。

 しばらく何かを考えていた青木が
「お母さんの捜索で様々な過去の事実に触れたことが脳への刺激となり、記憶が蘇ろうとしているのかも知れませんね…」そう告げると、
「過去の記憶が蘇ろうとしているのなら今、掘り起こしをやれば上手く行くのでは?」伊達はすぐにその顔を上げて訊ねた。

「確かにそうですが、先程の混乱が事件の記憶転送で受けた精神的ダメージによって引き起されたのだとしたら…」腕を組み、複雑な表情になった青木は「そんな時に記憶を掘り起せば、これまでに受けた悲惨な事件記憶が先に掘り起こされ、益々精神にダメージを与えることになってしまいます」と医師の顔になって告げた。

「……………」伊達が何も言えずにいると青木はしばらく考えてから、
「…やはり、今の精神状態が少しでも回復してからでないと掘り起こしは危険ですね」と告げた。

 何もかもが行き詰ってしまったと焦りを感じた伊達が
「じゃあ、犬の記憶を転送するのも無理ですか?」自分が考えたコジロー捜しの方法について触れると、
「伊達さん、変な事考えないで下さいよ。そんな危険な事は出来る訳がないですから…」青木は呆れたように大きく首を振った。

「麻理ちゃんはその後どうです? 順調に回復してますか?」益々焦燥感に駆られた伊達が麻理の様子について訊ねると、
「ええ。入園した時に花束をくれた沙也香という子と親友になり、その子を車椅子から立たせることに成功したと聞いています。光明園の環境にも慣れ、精神も安定しているのであまり心配する事もないでしょう」少し困惑しながら話す。

「犯人の手掛かりはまだ見つからないんですかね? 吉田警部から何か聞いてませんか?…」再び話題を変えたところで
「待ってください、やはり何かおかしいですよ…」と青木がその言葉を制した。

「薬を処方しますので今日からそれを飲んで、しばらくは自宅で休んでください」伊達を正面から見据えて真面目な面持ちで言うと、
「先程青木さんが言った通りです。母親や父親の話を様々な人から聞いたせいか何かを思い出せそうな感じで心がムズムズして落ち着かないんですよ」伊達が正直に打ち明ける。

「全て忘れてと言うのは無理でしょうけど、なるべく何も考えないようにして休んでください。薬がそれを助けてくれる筈ですから」青木がパソコンで処方箋を書きながら言った。


 1階の薬局に立ち寄って処方された薬を受け取り、自動運転タクシーで自宅に戻った伊達はキッチンで薬を飲むとすぐにベッドで横になった。
 何も考えるなと言われたので無心になろうと思い、瞑想しているといつの間にか眠ったがすぐに悪夢にうなされて目が覚めてしまう。

 大きな黒い犬が唸り声を上げながら無理やり口をこじ開けて身体の中に入ろうする訳が分からない夢で口の中がとても不快になった伊達は一旦ベッドから起きあがり、うがいをして再び横になった。
 その後も何度か悪夢で目が覚め、気付くと身体中が汗だくになっていたので時間を確認もせずにシャワーを浴びると意外に心が落ち着き、それからは明るくなるまで眠ることが出来た。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 2週間後、完全に落ち着きを取り戻した訳ではなかったが伊達は光明園を訪ねてみる事にした。
 伊達が事情聴取で警察に話せなかった部分、つまり麻理がレイプされた事について片瀬園長や青木は未だに何も聞かされていないらしく、伊達は手遅れになってしまうのではと気が気でなかったのだ。

「その後、麻理ちゃんはどんな様子ですか? 事件について何か話しましたか?」伊達はそれとなく園長に確認してみるが
「今のところ何も話さないけど、毎日楽しくやっているみたいよ。事件についてもいずれ話せるようになると思うわ」心配は無用と言わんばかりに「若い人の事は若い人に任せておけば良いわ。沙也香ちゃんがいつも一緒にいるから大丈夫! 大人が出る幕じゃないわね」と笑顔を見せた。

 そう話す園長が今日は呑気過ぎると思えた伊達は心の中で、(いずれでは間に合わなくなってしまうかも知れないんだ…)と呟いたがそれ以上どうする事もできずにだた、弱々しい笑顔を返しただけだった。


 その後、麻理と面会した伊達は予想とあまりに違う、その姿に驚かされた。

「麻理ちゃんごめんね、コジローはまだ見つからないんだ。今もペット探偵が張り込んでいるんだけど…」申し訳なさそうに言うと、
「いつか必ず見つけてくれると信じているので、よろしくお願いします」少しふっくらした健康的な姿で元気よく言い、
「甘いものばかり食べてこの通り、大分体重が増えちゃった…」と少し舌を出して、「でも、青木先生は回復している証しだから気にしないようにと言ってくれたの」と笑顔を見せた。

「そうだね。とにかく、元気そうで安心したよ。次に会う時はコジローを連れてこられるようにするからね」伊達も笑顔を返すと、
「青木先生、伊達さんのことを心配してたわ…。だから身体を大切にしてください、そしてお母さんも必ず捜し出してね」心配そうな表情で言うと伊達を見詰めた。

 伊達は笑顔で元気に話したり、他人を気遣ったりする以前と全く違う麻理に違和感を持ったが自分が精神的に不安定だからそんな風に感じるのだと思って何も訊かずに笑顔で別れた。



 その夜、麻理の部屋のドアが小さくノックされた。
「だれ?」返事のないドアを不思議に思いながらゆっくり開けると沙也香が後ろ手に何かを持ち、微笑みながら立っていた。

 何も言わずに微笑むだけの沙也香を見て、
「何を隠しているの? 早く見せてよー!」と麻理がふざけながら手を伸ばすと後ろにあった両腕を前に出して見せ、
「私からのプレゼント! 私と同じスニーカーを感謝と友情の印として…」真剣な眼差しで言う。

「このスニーカーは私にとって麻里がくれた勇気そのものなの。車椅子から立ち上がって歩く勇気を麻理から貰ったのよ。友情という大切な宝物と共に…」大粒の涙をその目に溜め、「だから、あなたの親友として今度は私が勇気をあげるわ。麻理が辛い事や悲しい事を乗り越えて生きていけるように…」沙也香はその頬に2つの光る筋を作ると麻理に抱きついた。

「沙也香…」抱き合いながら麻理も一緒に泣いた。


 沙也香から貰ったスニーカーを履いた麻理は、
「ありがとう、沙也香が言った通りね! これを履いたら何でも乗り越えられる気がしてきた、こんなに嬉しいものを今までに貰った事がないわ!」そう言い、両足で飛び跳ねて見せた。

 その嬉しさを誰かに伝えたくなった麻理は
「お母さんに見せてくる!」そう言って部屋を飛び出した。


 声も掛けずに園長室のドアを開けてしまった麻理が
「あ、済みません」と急いで閉めたが片瀬は少しも驚かず、
「どうしたの麻理ちゃん? そんなに慌てて何かあったのかしら?」閉められたドアへ静かな声で話しかけた。

 今度はノックしてからドアを開け、
「失礼します」と麻理は遠慮がちに頭を下げる。

「どうぞ、ここに座って」片瀬は自分の横にある椅子を示して優しく言い、「何か良い事でもあったの? 話してくれるかしら?」と麻理を促した。

 何から話したら良いのか迷った麻理が下を向き、
「沙也香が…」と自分のスニーカーを見て言葉に詰まると、
「あら、同じものじゃない? 沙也香がスニーカーをくれたの?」そう言って次の言葉を待った。

「沙也香が、自分が歩けるようになった勇気の印だと言ってこれを私に…。私が悲しい事も乗り越えて生きていけるようにと…」そこまで言うと下を向き、大粒の涙で自分の膝を濡らし始めた。

「そうなの、良かったわね。沙也香がそんな事を考えたなんて嬉しいわ、とっても嬉しい…。そうやって皆が幸せになり、それをこうして分けてくれるから私はいつも幸せよ」片瀬は目を潤ませながら言って麻理を抱き寄せた。

 すると、片瀬の腕の中の麻理は
「私…沙也香から勇気を貰って…話せるかも…。本当のことを…」途切れ途切れに言った。

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