第21話

文字数 3,512文字

 麻理が話そうとしているのは事件の事だと片瀬は直感した。

「本当のことって…、事件のことなら無理に話さなくても良いのよ」麻理を落ち着かせようと静かに話す。

「私…事件の時に…、2人の犯人に…レイプ…されたん…です」伏し目がちに最後まで言い切った後、園長の目をじっと見詰めた。

「えっ、…………………」片瀬は予想だにしなかった麻理のその言葉に驚愕し、何も言えずにただ息を飲むばかりだった。


「……あなた、大丈夫? …なの?」しばらくしてようやく言葉を絞り出すと、
「はい。でも、もう5ヶ月目だと思います」麻理が下を向いて小さく絞り出すように言う。

 それを聞いた片瀬は大声で泣き叫びたかった。

 明るく振舞いながらもその影では誰にも言えない大きな悩みを抱え、たった1人で苦しんでいた麻理が心の底から可哀想に思えた。
そして、無理に食べて太ろうとしているように見えた不思議な行動はお腹が目立たないようにする為だったのだと、この時初めて理解したのだった。

 片瀬はその事に気付けなかった自分の至らなさを感じて、
「ごめんなさい。あなたが抱えていた事に気付かずにいて…、本当にごめんなさい」とただ謝り続けるしかなかった。

「とにかく明日病院に行って検査し、それから考えましょう」慰めるようにその背中をそっと撫で、「この事は誰にも言わなくて良いわ。今は2人だけの事にしておきましょう」そう言って麻理を部屋へ帰した。

 麻理が部屋を出て行った後、園長の片瀬は固く握った両手の拳固を目の前のデスクに押し付け、宙を睨みながらこんな世界を恨んでいた。

 自分がどんなに頑張ろうとも、守りきれずに傷付いてしまう子供たちがいる。
 光明園という施設を創り、傷ついた子供達を癒す場所としてきたが、そこですら絶対に救うことが出来ないことが存在してしまうそのやるせなさで涙が溢れた。

 しばらくして落ち着いた片瀬は急に麻理の事が心配になり、沙也香をそっと呼んだ。
 気になる事があるので隣の部屋を見守る様にと頼むその表情に、ただならぬものを感じた沙也香は何も訊かずに、
「分かりました。絶対に目を離さずに見守ります」と神妙な面持ちで答えて静かに部屋へ戻った。


 午前0時を回った頃、麻理の部屋のドアが微かな軋みと共に開くのを沙也香は聞き逃さなかった。

 寝ずに見張っていた沙也香はカチャッと小さな音を立ててドアが閉まると少しだけ待ち、自分の部屋のドアをそっと開けた。
 その細く開いた隙間から覗くと麻理の後ろ姿が見え、暗い廊下を階段の方へゆっくり歩いて行くのが分かる。

 声を掛けようか迷っている内に麻理はどんどん遠ざかって行き、突き当りの階段を上り始めた。
 後を追うしかなくなった沙也香が気付かれぬよう音を立てずに階段へ向うとすぐその後ろ姿に追いつくが、夜間は足元を照らす照明だけなので表情までは見る事が出来ない。

 麻理は5階まである階段の3階で立ち止まりしばらくじっとしていたが、やがてゆっくり上り始めると屋上へ通じるドアを静かに開けて出ていった。
 そこまで気付かれることなく追いかけてきた沙也香は何だか怖くなって誰かを呼びに行きたかったが、このまま麻理を1人で置いていくのはもっと不安でそのままドア越しに様子を伺うことにした。
 しばらく聞き耳を立てていても何も聞こえてこないので意を決し、ドアをほんの少しだけ開いてみる。

 仄かな明かりだけの屋上は薄暗く最初、誰もいないように見えたが目を凝らしてみると下を向いた麻理が膝を抱えて小さくなり、手すりの内側に座っているのが分かった。
 その姿を見てすぐに飛び出そうとした沙也香だったがふと、そこに座っているのが麻里とは別人に思え、一旦躊躇してしまうとその後はなぜか怖くなって身体が動かなくなってしまった。

 見ているだけでどうすることも出来ない沙也香が誰かを呼びに行こうとそっとドアを閉めた時、扉が軋んで閉まりガタッと大きな音を立てた。
 気付かれてしまったと思い、再びドアを開けた沙也香は膝を抱えたまま顔を上げ、こちらを見ている麻理と目が合った。

 すると、驚いた顔になった麻里は慌てて手すりを乗り越え、外側の狭いコンクリートの部分に立つ。

「麻理! 何してるの!!」思わず飛び出した沙也香が震える声で言うと、
「やだ! やだ、来ないで!」手すりの外側で行き場を失った麻理はそう叫びながら左右に行ったり来たりし始めた。

「やめて! じっとして! 動いちゃダメ!!」沙也香がそう叫ぶと、その声を聞きつけたスタッフが屋上のドアから飛び出すようにやってくる。

「なにしてるの! 麻理ちゃん、こっちに来て! ダメよ!」スタッフの女性が叫び始めると、
「あぶないぞ! 誰だ、誰が屋上にいるんだ!」下でも誰か気付いたのか階下からも声が響いてくる。

 その声に気付いた麻理は怯えたように下を見て、
「やめて…来ないで! 止めないで…仕方ないの!…こうしないと生まれてきてしまうの!」と叫んだ後、今度は屋上にいる2人を見て、「私は愛せない!…この子を愛せないのに…もう、どうする事もできない…」と泣き出した。

 屋上と1階の様子を交互に見ては何か叫び、片手で涙を拭いながら左右に動くので今にもそこから落ちそうだった。
 沙也香はその言葉で麻理が妊娠している事とそれが事件に関係がある事そして、それを隠す為に食欲旺盛なフリをして太ろうとしていた事を一瞬の内に理解した。

 消防が到着したのか近づきながら鳴っていたサイレンが止むと、沢山の回転灯の反射で周囲の建物が真っ赤に照らされる中、サーチライトの筋がいくつも空に向けて伸びる。
 すぐに全てのサーチライトは同じ場所へ向けられ、屋上に立っているパジャマ姿の麻理を眩い程白く浮かび上がらせた。

 手すりの向こうで泣きじゃくる麻理の顔が斜め下から照らされると全く別人のものに見え、沙也加は現実が遠のいていく。
 やがて今、起こっている全ての事がまるで夢の中のように感じて実感がなくなり、目の前にいる別の麻理にどう話し掛けたら良いのかも分からなくなって言葉を失った。


 麻理は突然、動くのを止めた。

遠い目をしている沙也香をじっと見詰めながら手すりから両手を離すとゆっくり水平に開き、そのままじっとしている。
その表情がこれまでにない程安らいで見え、夢の中にいる様に感じていた沙也加は麻理が天使になったんだと思った。

 誰も声を出せず、何も出来ずにいる中、麻理は見えない糸に引かれるように後ろへ倒れながらゆっくり屋上から消えた。

「きゃぁぁー、」スタッフの叫び声がした直後に何かがぶつかるようなドーンという音とズシンという地響きのような振動が同時に沙也香の身体に伝わった。

 沙也香は目が覚めたようにハッとして、
「あ”あ”ぁー、ま”りぃー。麻理ぃー……」動物の鳴き声のような叫び声を上げながら転げるように階段を駆け降りていく。

 ずっと悲鳴に似た声で麻理の名を叫びながら階段を走って下りると中庭へ通じる出入口へは向かわず、近道をするためにドアが開いている部屋に飛び込む。
 そこにあるベッドに飛び乗りそのままデスクに駆け上ると開いている窓から庭へ飛び出した。

「あ”あ”ぁー、ま”りぃーー、あ”あぁー」沙也香は悲鳴をあげながら麻理へ近づこうとしたがあと5メートルの所で、後ろからお腹に抱き付くようにして消防隊員に引き止められてしまった。
 そのまま身体をくの字に折って泣き崩れた沙也香は目の前に落ちている自分と同じスニーカーの片方を急いで拾い上げ、
「違う! こんなの勇気じゃない!! 私はこんな勇気をあげたかったんじゃない!!」と張り裂けんばかりの声で叫んだ。


 救急隊員が麻理の首にコルセットを巻き終え、細長い板に乗せてベルトで身体を固定している時、沙也香はライトで照らし出されたその表情をはっきり見た。
 麻理は目と鼻そして耳からも血を流していたがその表情は屋上で最後に見た時のまま安らいでいて、まるでこれで良かったんだと沙也香に語りかけているように見えた。

 ベルトで板に全身を固定され、腕に点滴の管が繋がれた麻理は4人の隊員によって救急車に運ばれて行き、そこにはもう片方のスニーカーだけが残された。

 急いでそれを拾った沙也香は落ちた時に付いてしまった泥を払い、もう片方と合わせて胸に抱くと、
「なぜ! 私を歩けるようにして…、一緒に走ろうと…、自転車に乗ろうと言ったじゃない…。どうして私だけ置いて行ってしまうの!…そんなのずるい…。親友なのに…なぜ打ち明けてくれなかったの!…。私じゃ、ダメだったの!…私じゃ…」その場に崩れる様に膝をつき、長い間泣きながら呟いていた。

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