第14話

文字数 3,452文字


 青木の医院で麻理が光明園へ入園する為の打ち合わせをしていると、伊達のスマートフォンが鳴った。

「吉田です。例の倉庫を3日間張り込んで何も掴めなかった為、これ以上根拠の無い情報には付き合えないと全員引き上げてしまいました。私はワンボックスを追跡する手段が無い以上伊達さんの情報に頼るしかないと、今でもそう思っていますが…」残念そうに話した後、「それで相談なんですが、コジローの捜索で犯人の手掛かりになるような物を掴んだら知らせて頂けませんか?」と遠慮がちに言った。

 コジローが1度も姿を現さなかった為に新たな目撃者探しに切り替えたと、ペット探偵の藤岡から報告を受けていた伊達は警察の張り込みが空振りに終わったと聞いても驚かなかった。

「コジローもそうですが、やはりワンボックスも戻って来ませんでしたか…。では、何か掴んだらすぐに連絡します」伊達がそう答えると、
「犯人に繋がる事は危険が伴いますので、呉々も注意してください。何かあったら警察に任せて危ない事はしないでください」そう念を押して警部は電話を切った。


 ソファの背にもたれ、伸びをしながらその会話を聞いていた青木が
「コジローは姿を見せず、ワンボックスも現れなかったのなら本当に犯人を追っているのかも知れないですね」そう言い、「そうだとしても、コジローの目的は一体何でしょうか?」と腕を組んで考え込む。

「確かに、事件を見ていた飼い犬が犯人を追いかけるなんてドラマじゃあるまいし、警察が信用しないのも良くわかります。でも、違う場所の目撃記憶に同じワンボックスがあるのも偶然とは考えにくいですよね…」そう言うと伊達も腕を組んだ。

「とにかく、犯人とワンボックスのどちらかをコジローは追いかけているんだと思います」少しの間を置いて伊達がそう続けると、
「コジローが現れる所に犯人あり、ですね」青木が笑いながら本棚へ歩き、人差し指で1冊の本を抜き出した。

 伊達に手渡したその本の表紙には『エクスペリメント・オブ・メモリートランスミッション・フロム・ヒューマン・トゥー・ドッグス』と英文字で長いタイトルが書かれている。
 それを見た伊達は人から犬への記憶転送実験について書かれた本だとすぐに分かったが、コジローの話とどんな関係があるのかまでは分からなかった。

「何ですかこれは?」渡された本の表紙を青木に見せながら訊ねると、
「いや、こんな技術が使えればなと思いましてね…。これは人間の記憶を犬に転送する実験ですが、その逆が出来ればコジローは何を追いかけているのかが判るだろうと…」青木は空想を持ち出した自分が恥ずかしかったのかそこまで話すと急に顔を赤らめ、「あり得ない空想みたいな話をして済みません…」伊達の手から急いで本を取りあげ、棚に戻した。

 苦笑いしている青木をよそに伊達は真面目な顔で、
「それはまだ実験段階なんですか?」棚に戻された本を指さして言うと、
「アメリカでは目撃者の記憶を警察犬に転送し、捜査に役立てている事例もあるようです。ただし、あくまで人から犬への転送でその逆はリスクが高過ぎて法律で禁止されています」戻した本を再び取り出し、実例を示すページを見せながら言った。

「確かに、犬の記憶を人に送るとどうなるのかなんて想像出来ないし危険な感じがしますね。どんな内容なのか見てみたい気もしますが…」伊達が笑いながら言うと、
「噂では、実際に試した人がアメリカにいたようです。実験の後は犬のように四つん這いでしか暮らせなくなり、やがて狂ってしまったそうですよ」青木がその目を輝かせながら話し、「あくまで噂ですがね…」と、自分がタブーに触れてしまったと思ったのか慌ててそう付け加えた。



 青木の医院から家に戻りシャワーを浴びた伊達は喉が渇いていたせいで久しぶりに冷たいビールが飲みたくなった。
 キッチンへ行き冷蔵庫を覗いて見つけた数本の缶ビールの中からロング缶1本を選び、ついでにサラミソーセージを手に取ると、そのままリビングに行ってインターネットラジオのジャズを聴きながら飲み始めた。

 少し飲んだだけで強烈な眠気に襲われ、思わずソファに寝そべるとすぐに夢を見始めた。

 それは自分の家に泥棒が入ろうとするのを屋上から見ていて何も出来ず、「こらぁー」と叫ぼうと必死になっている夢だった。
 夢の中でいくら叫ぼうとしても声が出ず、何度も必死で叫んでいる内に実際に声が出て、「ごらぁー、」と大声を部屋中に響かせながらソファの上で目を覚ます。

 今日もまた悪夢をうなされてしまったと考えていると今度は気分がそわそわし始めて落ち着かなくなり、何故か開け放っていた窓から見える夜の景色がとても恐ろしく見えてくる。
 その何だか分からない恐怖は徐々に激しくなっていき、夜空からやってくる大きな黒いものに自分が飲みこまれて死んでしまうような不安に襲われると全ての窓を閉めて鍵を掛けずにはいられなくなった。

 普段見ている景色すら恐ろしく感じて窓という窓のブラインドを下ろし、家にある照明を全部点けてそこらじゅうを明るくするとようやく我慢できる程度の恐怖になった。
 自分の精神状態がおかしくなってしまったと思い、もう1度ブラインドの隙間から外を覗くと見慣れた夜の街がすさんで見え、今度は世界がガラガラと崩壊してしまい誰も生きていられなくなる切羽詰まった感覚に襲われ始めた。

 寝ている時に悪夢でうなされる事は多かったが目覚めた状態でこんな気分になったのは初めてだと伊達は不安になり、午後11時と遅い時間だったが青木に電話した。

「伊達です、遅くに申し訳ありません…。でも、どうしても…」そこまで言うと伊達の様子に異変を察知したのか、
「今からそちらに行きましょうか? 構いませんよ」と青木がすかさず答えるので伊達は気が狂ってしまいそうな恐怖から、
「お願いします。自分でもよく分からないんです」と懇願するように言って電話を切った。

 青木はまだ起きていたらしく予想より早く伊達の部屋へやってきた。

「ビールを飲み、ソファで寝てしまって…。悪夢で目が覚めてからおかしいんです」伊達が言うと、
「大分、精神にダメージがあるようですね。そんな時は少量のアルコールでも精神をとても不安定な状態にし、それによって何でもない事を恐怖に感じたりする事があるんです」心配そうにしながらそう言うと、「人は普通、悲しみや辛い記憶を自分が持つ喜びや楽しい記憶で覆い隠しながら生きて行くんですが、伊達さんは昔の記憶を失っているのでそれが出来ないんです」と残念そうに話す。

「つまり、犯行現場などの悲惨な記憶転送を楽しい記憶で霧に包み自然に忘れて行くという事が出来ず、ついに本格的な精神症状として現れてしまったのです」青木は申し訳ない表情で話すと、「残念ですがメモリーハンターから引退する事を考えなくてはならないかも知れません。このまま続けると狂ってしまう恐れがあります」伊達を見てそう告げると黙って頷いた。

「最近、少し変だと感じていましたがやはりそうですか…。今回の事件が解決したら今後の身の振り方を考えます」伊達は神妙な面持ちでそう答え、「メモリーハンターを辞めたら精神状態は良くなりますか?」と心配になって訊く。

「これまでに転送された事件記憶が残っている所に普通の人と同じ日常的なストレスが積み重なっていくので今より悪くなる可能性の方が高いです」苦しそうに話すと、「残念ですが、自分が愛されていた頃の楽しい記憶を取り戻し、それによって辛く悲しい事件記憶を覆い隠すしか良くなる方法はありません」青木は医者として診断を下すようにはっきり告げ、「失っている記憶をどうしても取り戻せないのであれば、母親から愛されていた頃の記憶を転送して貰うしかないですね」と付け加えた。

 しばらく黙っていた伊達が、
「記憶を取り戻せない今の僕には、あの写真の母親を捜し出して愛情を分けて貰うしか方法はないんですね」呟くように言うと、
「人は皆同じですよ。麻理ちゃんも様々な人たちに愛される記憶を沢山作り、その記憶で事件の悲しみを薄れさせ風化させる事ができれば回復出来るはずで、それによって大人になって抱えるストレスに負けない精神を築く事ができるんです」青木は遠くを見るようにして言うと伊達の目を見て、「人が生きていくには誰かを愛する事が不可欠でその愛情は敏感な子供時代に十分愛される事で育まれるんです。愛情は人が生きて行くのに重要なものなんです」と力説した。

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