第37話(最終回)

文字数 6,115文字

 警部が久美子は闘病中だという事を伝えると、医師の太田はすぐに治療を行っている大学病院へ連絡を取る。

 太田は大学病院の担当医と話し終えると、
「久美子さんは身体中に転移したすい臓がんの末期で、最後にもう1度だけ化学療法による治療を行う予定だったらしく、それが10日前から始まる事になっていたようです」と神妙な顔で告げ、「入院する日に姿を現さなかったので何度も自宅に連絡したようでがずっと留守で繋がらず、皆で困っていたらしいですよ」心配そうに言った。


 警部はすぐに久美子の転院手続きをし、伊達のいる警察病院へ向かった。

 青木と合流して伊達の病室へやって来た警部は、
「お母さんは病気の治療中だったようです」と静かに話し出す。

「何の病気なんです?」伊達が神妙な顔で訊くと、
「すい臓がんで、10日前に入院治療を受ける予定だったそうです」すぐに答えたが、久美子が末期だと伝えたくない警部は病状について訊かれないようすぐに話を変え、「それと、離れ離れでいた時の事を話してくれるようにとの、伊達さんへの伝言を預かって来ました」と続けた。

 伊達が何か言おうとすると、
「先程、治療予定だった病院への転院手続きも済ませておきました」警部がそれを遮るように続け、「転院後もそちらの病院で付き添いを続けますのでご安心ください」最後にそう言って、青木の方へ視線を逸らした。

 伊達はそんな警部の様子を見て久美子の病状を理解したのかそれ以上は訊かず、
「僕がその事を話しに行けるようになるのはいつ頃になりますか?」悲しい表情を青木に向けた。

「退院については先日話した通り、すぐにと言うわけにはいきませんが…。外出許可だけでもなるべく早く出すようにします」転院の話からただならぬものを察した青木はそう言うと腕時計を見るフリをして、「では、今日はこれで失礼します」と告げ、伊達に気づかれぬよう警部へ目配せをして病室から出ていった。

 後を追って出てきた警部へ振り返った青木は
「先程の話では久美子さん、病状はあまり良くないと感じましたが?」病室のドアが閉まるや否や、心配そうに訊ねた。

「転院先で病状について確認してみないと何とも言えませんが、今日の電話で担当医は末期がんだと言っていましたので…。それに久美子さん自身はもう長くないと悟っている感じがします」警部は残念そうに答えて、「明日、病院へ行って確認してきますが、伊達さんをできるだけ早くお母さんに会わせてあげてください」と頭を下げた。


 翌日、転院先の大学病院を訪れた警部は久美子の担当医が不在だと知らされ、共に治療を担当しているという別の医師と話していた。

「あまり時間がないとはどう言う意味ですか?!」その医師が何を訊いてもはっきりした事を言わないので、警部は苛立っていた。

「長くはない…と言う事ですが…」少し考えた医師が答え、
「どのくらいですか?」警部が訊ねる。

「どのくらいかは…本人次第というところでしょうか…」医師がそう答えると、警部はその歯切れの悪さでついに冷静ではいられなくなった。

「じゃあ、最後の治療はどうなってしまうんですか?!」警部が完全に怒りながら訊くと、
「落ち着いてくださいよ…、とにかく体力が回復しないと何も出来ないんですから…」と困った表情で答えた。


 その足で病室を訪れた警部がそっとベッドを覗き込むと寝ていた久美子がパッと目を開けた。

 お辞儀をする代わりにゆっくり瞼を閉じて、
「圭一は退院できそうですか?」意外な程はっきりした声で訊いてくる。

「ええ、すぐに離れ離れだった時の事を話しにきますよ」警部は励ますように言って微笑んだ。
 何の薬が効いたのか分からないが久美子は少し元気を取り戻しているように見えた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 それから3日後、ようやく短時間の外出許可が出た伊達は転院先の病院を訪れた。

「今度は僕がお母さんの回復を手伝う番だ。良くなって退院したら、一緒に住んでゴローみたいな犬を飼おうね」伊達が久美子の手を取って言うと、
「良かった…、ゴローの事も思い出したのね。ずっと可愛がっていたものね…」安心したように小さな声で言った。

「うん。次に来る時は離れ離れだった時の事も話すから待っていてね」短い時間の外出許可しか出ず、医師からの話も聞く予定だった伊達はそれだけ言うと名残惜しそうに病室を離れた。



「じゃあ、これ以上の治療は出来ないというんですね?」
 伊達は取り乱す事なく冷静に担当医の話を聞いていた。

「残された時間はあとどのくらいですか?」伊達が静かに尋ねると、
「短ければ1週間、長くても数ヶ月でしょう」担当医ははっきりと告げた。

 伊達はそれを聞いてしばらく黙っていたが横に座る青木を見て、
「僕はいつ退院できますか? 間に合いますか?」答えられないとわかっていながら訊かずにはいられなかった。



 医師から知らされた事実によってショックを受け、精神状態が異常な頃に戻ってしまうのではと心配する青木をよそに自分の病室へ戻った伊達はこれから何をすべきか冷静に考えていた。

 母親が自分の命に係わる治療を後回しにしてまで自分を助けてくれたというのに、元のように狂ってしまったらそれこそ親不孝でしかないし、残り少ないその人生を支えられずに終わったら一生後悔する事になってしまう。
 今は、その命が尽きる前に再会出来たからこそ最期に立ち会えるのだと考えて悲しむのは後回にし、母親のために最善の事をしてあげようと伊達は思っていた。

 1週間後、青木が病院長に掛け合ったお陰で退院の許可を貰った伊達はその青木と共に取るものも取り敢えず、久美子の元へ駆けつけた。

「今日からずっと一緒にいるからもう心配は要らないよ!」病室で以外に元気そうな久美子を見て嬉しそうに言うと、伊達は近くにあった椅子を引き寄せてベッドのすぐ側に腰掛けた。
 治療ができないからかそれとも不要だと言って外して貰ったからなのかわからないが、久美子は酸素マスクや心電計などは一切着けていない。

「待っていて良かった。話しに来てくれたのね」久美子はそう言いながら横に座る伊達を見て少し微笑んだ。
 その後、一緒にいた青木が帰ると伊達は早速、離れていた時の事を話すことにした。


 記憶喪失になって光明院で過ごした日々とから話し始めると、
「そうなの、片瀬さんには本当にお世話になったのね」久美子は小さな声で相槌を打ちながら聞いている。

 その後、メモリーハンターとして青木と共に警察へ協力するようになった話になると
「今の隼人があるのは青木さんのお陰ね」、「大変ね、警察の仕事をするのは」と、しきりに感心する。

 伊達はこの平和で穏やかな時間があと僅かだという現実を良く理解していたが母親と話ができるのが嬉しくてたまらず、子供の頃のようにあれこれ自慢したり驚かせたりしながら話した。

 しばらくして、久美子が少し疲れてきたように感じた伊達は少し休もうと言ったが、続きが聞きたいとせがまれて再び話しだす。

 久美子を探していた時に出会った人達の話しになると、
「そうなの…井東さん、2人共お元気なのね…」昔を思い出したのかとても懐かしそうに応える。

 奈良に会った事を告げると、
「学校で教えてるの? あの人、昔から頭が良いから…」と嬉しそうにした後、久美子は伊達の顔をじっと見詰めながら父親の事故について触れた。

「あの日は元々遊園地に行く約束だったの。でも、急に仕事になっちゃって…だからお父さん、代わりに新しい車を見せるからと言ったんだけど『お父さんなんか死んじゃえ!』と隼人が怒ってね…、その後に事故が起きてしまったものだから…」そこまで話すとゆっくり息を吐く。

「隼人は自分のせいでお父さんが死んじゃったんだと…ずっと泣いていたのよ」再び話し出すと、「お父さんが事故に遭ったのは、あなたのせいじゃないのよ。もう、忘れなさい」伊達の方を向いて優しく言った。

 それを聞いた伊達は自宅で暴れるきっかけになった「死んじゃえ!」という片瀬に対するSNSの書き込みを思い出し、何故その言葉に耐えきれない程の嫌悪感を抱いたのかが判った。


 話が麻理の事件の事になると、
「お父さんが亡くなった時、私のお腹には…真里と名付けたあなたの妹がいたの…」久美子は寂しそうに伊達が知らない事を話し出す。

「2歳の隼人は覚えていないと思っていたけど…。毎日、その名前を呼びながら悲しんていだから…心のどこかに刻まれていたのね…」そう言って小さくため息をつくと、「だから同じ名前の麻理ちゃんを特別に感じ…一生懸命守ろうとしたのかも知れないわね…」と不思議そうに話した。

「…辛い事が…たくさんあったのに…、一緒にいてあげられなくて…ごめんなさい…」再び小さなため息を吐き、「私が病気にならなければ…、行方の分からない隼人を探し続ける事ができたのに…」涙を流しながら言って目を瞑る。


 その後、ラーメン屋で暴れた事や犯人逮捕の為に試した犬の記憶転送の事などを話していると伊達は一瞬、母親の表情が変わった事に気付いた。


 それは、久美子のとても平和で静かな最期だった。


 母親が逝ったとわかった伊達の目には涙がこみあげ、もう話す事も、声を出す事すら出来そうになかったが歯を食いしばってそれを堪え、
「その後…光明園の…片瀬さんへの…書き込みを見て我慢できなかった…んだ。部屋の中をメチャメチャに壊してしま…たんだよ。そんな事しちゃ…ダメだ…よね」と何度もしゃくりあげながら話し続ける。

 瞼を閉じたその久美子の顔を見詰めながら、
「それで…警察の…病院に…入れられちゃったんだよ…。迷惑を…かけて…ごめんね」絞り出すような声で話し、久美子が助けにくるまでの辛い警察病院での入院生活を話す。

「母さんが…助けに来てくれたの…、わからなくて…ひどい事して…、ごめんね…。心が固まっていたんだ…。どうしようもなく…。助けてくれて…ありがとう…母さん…」

 途切れ途切れになんとか最後まで話し終えると、
「約束通り…、離れ離れでいた時の事は…全て話したよ…」何の返事も返ってこない久美子の手を取り、「僕があんな風になっていなければ…最後の治療が受けられたのに…ごめんね…」絞り出すように言って大声で泣き始めた。

「なんで…、ゴローのような…犬を飼って…一緒に暮らそうと言ったじゃ…」それ以上何も言えずにただ久美子の細くなった顔を見て泣き続けた。


 しばらくして、決心したように涙を拭いた伊達は、話しを始めた時の安心した表情のままでいる久美子に語りかける。

「心配しないで、もう僕は大丈夫。母さんが命がけで助けてくれたから…」
「お父さんがいなくなっても…1人で僕を育ててくれた母さんのように…もっと強くなるよ…」
「だから心配しないで…安心して…。1人でもちゃんと生きていけるから…」最後にそう言うと崩れるように膝をつき、ベッドの柵を両手で握り締めながら再び泣き始めた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 伊達は松戸の霊園を訪れ、父親の墓前で久美子が亡くなった事を報告した。
 生まれて来なかった真里の為に建てた地蔵が同じ霊園内にあることを、青木が預かっていた書類を見て知った伊達はそこにも花を供えて祈った。

 その後光明園へ行き、退院してから会ってなかった片瀬園長へ母親が亡くなった事を報告した後、沙也香とコジローを伴って初めて麻理の墓を訪れた。

 沙也香が保管していた麻理の赤いブレスレッドとスニーカーを墓前に供え2人で手を合わせると、
「やっと大切にしていたブレスレッドを麻理に届ける事が出来たわ…」同じスニーカーを履いた沙也香がそう言ってため息をついた。

「でも…なぜ、私の両親みたいに自分の子供を虐待する大人がいるのかしら?」沙也香がずっと心に抱いた疑問を投げかけたが、
「……………………」伊達は何も答えられなかった。

「なぜ、子供達を傷つける大人はいなくならないの?」少し責めるようような口調で訊ね、黙ったままの伊達を見詰める。


「…済まない。沙也香ちゃんの言う通りだね」しばらくしてようやく口を開いた伊達は「子供を傷つける事なんかない、優しい世界を大人たちが創らなきゃいけないね」申し訳なさそうに下を向いて言った。

「どうして、園長さんや伊達さんのような大人は助けてくれるの?…。絶対に癒せない傷だってあるのに…」不思議そうに訊ね、「だって…生き残った後、麻理のように全てを自分で抱えるしかないとしたら…、最初から助けてもらわない方がイイもの…」麻理の墓に備えたスニーカーを手に取り、そう呟きながらそっと撫でる。

 その言葉は鋭い矢のように伊達の心に深く突き刺さった。
 沙也香の疑問に答えられないもどかしさとその痛みで頭がクラクラしたが、やがて声を絞り出すように話し始めた。

「この世界が子供達にとってどんなに不完全で冷酷なものでも自分達大人にはそれを変える事が出来ず、ただ手を差し伸べるしかないのかも知れない。そしてもしかしたら、傷つける者がいるけど助ける者もいるんだという子供達への言い訳なのかも知れない」

 伊達はそう話しながら、犯人が捕まらずコジローも見つからない状況で麻理が放った、「大人は役に立たない」という言葉を思い出し、悪い大人をどうする事も出来ない自分たち大人の不甲斐なさから、沙也香の顔を直視できずにいた。


「…でも、助けてくれる人がいないと、私みたいに何とか生きていける人もいなくなってしまうわ…」伊達の言葉を聞いてしばらく黙っていた沙也香が何かを悟ったように言う。

「残された人は皆、強くならないといけないのね…」沙也加は遠くの空に浮かぶ雲を見ながら呟き、
「麻理は家族を亡くして強くなり、私を歩けるようにしてくれた」そう言って麻理の墓を見る。

「久美子さんは最愛の夫を亡くして強くなり、そして伊達さんを救ってくれた」隣の伊達を見て言うと、
「そして、今度は麻理を亡くした私が強くなって誰かを助ける番なのね」伊達の背中にそっと手を添える。

「沙也香ちゃんは誰を助けるの?」伊達が顔を上げて訊くと、
「えっと…、私はとりあえず園長さんかなぁ」笑いながら言い、「伊達さんは?」すぐに訊き返した。

「うん。じゃあ、僕は園にいる皆、という事にしとくよ?」2人は顔を見合わせて微笑む。

「そうそう、コジローだって麻理ちゃんを失って強くなったのよ。だって、警部を犯人から立派に守ったんだもの…」沙也香はそう言うとコジローの背中を思いっきり撫でた。


 1年後、高校を卒業した沙也香はそのまま園のスタッフとして働く事になった。
 一方の伊達はメモリーハンターを引退し、青木の医院で治療を続けていたお陰で精神は完全に回復していた。


 それから3年程経ち、光明園の片瀬が退職すると伊達は迷うことなく全財産を園に寄付し、その言葉通り園長となった。

                                           
                                   終わり 
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