第35話

文字数 3,206文字

 その日は伊達が病室の中をずっと歩き回っていた為、久美子は落ち着くまで待つことにして1人でベッドに腰掛けてアルバムを見ていた。

 やがて昼食の時間となり伊達が先に食べ始めたが、担当官が差し出した汁物のチューブを吸うとむせて咳き込み始めてしまった。
 久美子は背中をさすろうとしてすぐに近づくが、伊達に肩で体当たりされて跳ね飛ばされ、床に倒れ込んでしまう。

 天井のスピーカーから、
「大丈夫ですか! 直ちにに救出します!」と警備員の大きな声が響いてきたが、
「このくらい何でもないです。来ないでください!!」久美子は急いで起き上がりながらそう叫び、むせ込み続ける伊達に再び近づいてその背中をさすった。

 すると今度は抵抗せずに身体を任せる。
 そのまましばらくの間、苦しそうに咳込んでいたが落ち着いてくると背中をさすり続ける久美子へゆっくり振り返った。

 その目に今までとは違うものを感じた由紀子は鉄格子の間から飲み物の容器を手に取り、そこに付いているチューブを伊達の唇にそっと近づける。
 伊達は久美子の顔をチラッと見た後、口を近づけるとチューブを咥えて静かに飲み始めた。

 二口程飲んだ所で咥えているチューブをゆっくり引き離した久美子は再び鉄格子の向こうに手を伸ばしてパンを手に取り、小さくちぎるとその口元に運ぶ。

「それは危ないから止めてください!」と担当官は慌てて格子の向こう側から制したが久美子はそれを無視し、パンを持つ手をそのまま近づけた。

 伊達は差し出されたパンを唇でそっと受け取るとゆっくり噛んで飲み込み、次を催促するように久美子を見つめる。

 久美子は嬉しさで涙が溢れ、食事をする圭一の顔が滲んで見えたが再びちぎったパンを口に運びその後、ゼラチンで固められたおかずも同様に食べさせていった。
 そうしてトレーに乗っていたものを全て与えると、これまでに見せた事のない満足そうな表情を浮かべた伊達はゆっくり部屋の隅へ行ってに座った。


 その後、自分も昼食を摂った久美子は床を見詰めて座る伊達を見ながらアルバムの思い出を語り始めた。
 小学校の担任の先生について、運動会や遠足などのイベント、圭一が好きだったお弁当のおかずなどを丁寧に詳しく話していく。
 そうして静かな声で話し始めると7メートル程離れた所で壁に寄り掛かって座っていた伊達は身体を横にずらようにして少しだけ久美子のいる方へ近づいた。

 話を聞いているのか、そのままいつものように自分の前の床をじっと見詰めている。
 1枚ずつ写真の内容を思い出すことに集中していた久美子が30分位経った頃にふとアルバムから顔をあげると、最初の半分程の距離まで伊達が近づいているのに気付いた。

「もっと近づいて良いのよ。何も心配はいらないわ」久美子が笑顔で言うその顔を伊達は何か言いたげな目でじっと見詰めた。

 それからさらに30分程話し、
「そろそろ休憩しましょうね」そう言ってアルバムを閉じると伊達はすぐに立ち上がり、最初の位置に戻って座った。
 久美子は少し残念な気がしたが、短い時間でも近くにいてくれた事がすごく嬉しかった。

 早く助けたいという思いから共に暮らすことを選んだ久美子だったが今はそんな事より、ただ近くで話したり抱きしめたりして圭一の事を感じたかった。
 こんな状況にありながら、これが永遠に続いても良いと思う程、再会した圭一と2人だけで過ごすその空間が久美子にとっては平和で心地良いものだった。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 それから2日経つと伊達は久美子との暮らしに慣れて来たようで、拘束衣によって腕の関節が固まってしまうのを防ぐ為のマッサージでも全く抵抗しなくなった。
 初めて食事を与えた日以来、毎日同じようにしてきた久美子は伊達に夕食を食べさせた後、徐に拘束衣のベルトを外し始めた。

 すぐに天井のスピーカから、
「ダメです、それは止めてください!」と制止する警備員の大きな声が響いてくるが、
「息子の為に母親がこうするのは当然です!」久美子はそう言って譲らなかった。

「医師の判断が必要です!」警備員は続けて警告するが、
「誰よりも息子の事を分かっている母親だから出来るんです! 医師の判断は要りません!!」久美子がそう言うと、その毅然とした話し振りにそれ以上何も言えなくなった。


 全てのベルトを外し、そっと拘束衣を脱がすと、
「ごめんさなさい、窮屈だったわね。もっと早く外してあげれば良かった…」久美子は固くなった両腕を優しくさすりながら言った。

 伊達は何も言わずに小さな子供がお母さんを見るような目で久美子の顔を見ていた。


 ほどなくして病室に青木がやってきた。

 拘束衣を脱がしてしまったという連絡を受け、急いで様子を確認しに来たらしく、
「大丈夫ですか、久美子さん? 大人しくしているようですが何の刺激で暴れだすか判らないですよ」病室に入って来るや否や息を切らしながらそう言い、警戒した目つきで伊達を見る。

「そんな言い方はやめてください、圭一は獣ではなくて人間です」久美子は怒ったように言い、「何度も言っている通り、私は命を掛けています。たとえ殺されたとしても息子を縛り付けることは望みません。お願いです、私に任せて下さい、許可してください」そう言って何度も頭を下げた。

「…………………」青木はしばらく黙って考えていたが、「全てをお任せすると言った以上、そうすべきですね」と伊達が大人しくしているのを見て同意した。


 拘束衣から解放されて1週間ほど経つと自分の手で食べられるようになった伊達の表情は少し和らぎ、自分が食事を終えた後は久美子のために場所を空けるようになるなど、精神と行動の両方で変化が起きていた。
 久美子がアルバムの思い出を話し出すとその優しい声に癒されたいのか、伊達は3メートル程離れた床に座ってじっと聞いているのだった。

 まだ、会話をするほどにはなっていなかったがその表情や行動からは明らかに回復しているのが伺え、一方の久美子は慣れない暮らしに疲れて来たのか長く話しているのが辛そうに見えた。
 青木がそれを気遣い、一時的な中断を提案したが久美子がそれを受け入れる事はなかった。


 翌日、伊達が夕食を摂り終えて場所を空けたが食欲がない久美子はマットを重ねて作られたベッドで横になったまま何も食べられず、そのまま夜になっても起き上がれなかった為、アルバムの思い出は午前中に少し話しただけだった。

 疲れて眠っていた久美子は気配を感じて目を開けた。

 どの位眠っていたのか分からなかったが小さなライトだけの薄暗い部屋の中、目の前に大きく開かれて血走った2つの目があった。
 黙って見詰めていると徐々に息遣いが荒くなっていくのが分かった久美子は余計な刺激を与えないように再び目を閉じた。

 その次の瞬間、いきなり両足を強く引っ張られてマットが敷かれた床にドンッと落とされるようにベッドから引きづり下ろされる。

 伊達は小さく「ウウゥーッ」と唸りながら久美子が着ているパジャマを破り始めた。
 小さな明かりだけの薄暗い病室で「ビリッ、ビリッ」っと布が破かれる音だけが大きく響く。

 暗視カメラ越しに監視している警備員の叫ぶような声が
「今、助けに入ります!」とスピーカーから聞こえ、同時に照明が眩く点灯する。

 久美子は床で左右に転がされながら
「来ないでください!。大丈夫です!」必死で叫び、病室に入ろうとするのを制止する。

 伊達は一旦手を止め、もうパジャマとは呼べないボロボロの布を纏った久美子を睨むと今度は馬乗りになって首を締めつけた。

「死んでしまえー!!」と絞り出すような声で叫ぶ。

 耳が遠くなり目の前が霞んできた久美子は最後の力を振り絞って腕を掴み、足で床を蹴って横に転がると2人の体制が逆になる。

 馬乗りになった久美子は伊達の頬を右手の平で思いっきり叩いた。

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