第34話

文字数 2,875文字


 久美子は部屋に入るとアルバムを胸に抱えたまましばらくの間、じっと立っていた。

 ベッドでの拘束の代わりに拘束衣を着せられた伊達は、部屋の隅に座ったまま血走った目だけを動かして久美子を見たが、それ以上何もせずに大人しくしていた。
 久美子は先ず、危害を加えないということを解らせる為に伊達から一番遠い対角の位置に座り、横にアルバムを置くとその後はじっと動かずに4時間過ごした。

 やがて夕食の時間になり、部屋の中程にある壁の一部分がモーターの音と共にゆっくり上にスライドして開いた。

 扉は幅も高さも1メートル位はあるが表面にはマットが貼られ、閉じられると壁のマットと平らになるので実際に開くまでそこにある事には気が付かない。
 その開口部には鉄格子が嵌められていて、プレートに乗せられた食事が向こう側のステンレスのカウンターの上に置かれているのが見える。

 食事が乗るステンレス製のプレートは特別なものではないが台にしっかり固定出来るようになっており、そのメニューも食器を使わずに食べられるよう工夫されているので患者が箸やスプーンを使って自傷する心配はなかった。
 通常は患者が格子の隙間から手を伸ばして好きなものを食べるという仕組みだが、拘束衣を着ていた伊達は手を使えない為、担当官が差し出す食べ物を口で受け取る方法で毎日食事をしていた。



 伊達は格子の向こう側に担当官が待機したのを見るとそこへ歩いて行く。

 最初に具のない味噌汁のチューブが格子の間から差し出され、それを咥えた伊達は大きく深呼吸するようにして吸った後、ゴクッという音と共に喉へ流し込んだ。
 次は一口大の卵焼きが口の中へ入れられ、10回程ゆっくり噛んでから飲み込むと再び口を開けて待つ。
 
  担当官は伊達が食事を喉に詰まらせないよう適当なタイミングでお茶や汁物のチューブを差し出すが、飲まなければ再び食べ物を口に入れるという具合に次々とトレーのものを与えていく。
 おかずやご飯に加え、飲み物や汁物がリズム良く出されるのでたとえ意思疎通が出来なくてもスムーズに食事が摂れ、扉が閉まって終了となった。

 その後、久美子の食事が出されるという段取りになっていたが、再び開いた扉を見た伊達がやってきてその前を離れようとしないので食べるのを諦めて扉を閉めて貰った。

 久美子は入口側の壁沿いにある、マットを数枚重ねて造ったベッドの上で横になった。

 食事を終えた伊達は時々宙を睨みながら小さく唸るだけで言葉を話したりはせず、何かを考えているのか反対の壁沿いに造られたマットのベッドに座っている。
 しばらくの間、身じろぎもせずにじっと目を瞑っていた久美子は徐に起き上がると伊達の方を向いてベッドに座り、持参したアルバムの中から1冊選んでそれを開いた。

「最初の写真は…あなたが生まれた時、お父さんが仕事を放り出して病院へ駆けつけた所ね。この写真、一体誰が撮ったのかしら…」とその場面を思い出しながら静かな口調で話し出す。

「次は保育器の中に入れられた圭一をお父さんが撮ったものね。体重が少なかったから仕方ないけど、お父さんはあなたを抱けずにがっかりしていたわ…。ほら、こんなに小さかったのよ…」

「その隣は圭一が私の横で寝ている写真よ。お父さん、保育器から出られたのが嬉しくてあちこちに電話を掛けていたわ」

「これは自宅のベビーベッドに寝かされている写真ね。あまり泣かないおとなしい子だったのよ…」
 アルバムのページに貼られたそれぞれの写真をじっと見詰め、思い出した記憶を独り言のように語り続ける。

 久美子が話し出すと伊達は一瞬そちらへ視線を向けたが、すぐに床を見詰めるいつもの態勢に戻った。

「この大きなパンダのぬいぐるみ…、すごく高かったのよ。給料日だからとお父さんが無理して買ってきちゃって…。でも、圭一のお気に入りになったわね…」

「そして、これは大嫌いな沐浴の時間…、圭一は誰かににあやして貰いながらじゃないとじっとしていなかったの。だからお父さん、仕事中でもお風呂のために家に帰ってきたりして…」久美子はそう言うと顔を上げて、
「忙しかったけど、とても幸せな時だった…」そう呟いた後、お宮参り、七五三、幼稚園の入園式など順を追って話していった。

 幼稚園の運動会まで話したところで壁に取り付けられた時計を見ると、午前1時を指している。
 
 久美子は少し驚いたようにして、
「あら、もうこんな時間。続きは明日にして寝なくちゃね」床に座って静かにしている圭一に告げ、「じゃあね、おやすみなさい」パタンと小さな音をさせてアルバムを閉じると毛布を掛けて目を瞑る。

 いつの間にか眠りについた由紀子は昔、圭一と行った海水浴の夢を見ていたが、病室の照明が少しずつ明るくなってくると目が覚めた。

 病室は窓まで壁と同じマットで塞がれて自然の光が入らない為、身体の活動リズムを保てるように外の明るさに合わせて部屋の照明が調整されていた。
 時計の針は午前6時を少し過ぎた所で伊達を見ると床に座ったまま壁に寄りかかって寝ている。

 その姿をしばらく見詰めていると最初は他人のように思えた顔にも子供の頃の面影が感じられ、それがやがてアルバムの中で見た幼い頃のものと重なってくると久美子の目から涙が溢れ始めた。

 我が子をじっと見詰めながら静かに泣いていると、伊達が目を覚ました。

 涙を流している久美子に気付いた伊達は驚いたようにその目を大きく開き、しばらくの間じっと見詰めていたがやがて大粒の涙を流し出す。
 両腕を固定され、頰を流れ落ちる涙すら拭えずにいるその姿がとても哀れに思え、耐えきれなくなった久美子は圭一に近付くと両腕でそっと抱きしめた。

 自分の腕の中にいる伊達の身体はとても温かかった。

 息子との再会をようやく肌で感じる事が出来た久美子は自分の命と引き換えにしてでも必ず圭一を救い、再びその人生を歩き出せるようにするのだと心に誓わずにはいられなかった。


 10時になると青木が診察にやってきて、
「お母さんに抱かれて泣いていましたね。感情が動き始めているのかも知れません」と監視カメラの映像を確認したのか伊達を抱きしめた事を知っていて複雑な表情でそう言った。

「回復の兆しでしょうか?」そうあって欲しいと祈りながら久美子が訊くと、
「私も回復の兆候だと思いたいです」青木と共にやって来た吉田警部もすぐにそう言った。

 青木は先ほどの複雑な表情のまま、
「まだ何とも言えません。怒りで固まってしまった感情が違う方向へ動いたのは確かですが…」と告げ、「しばらくは注意深く様子を見ないといけません。感情が動いて逆に久美子さんが危険になるといけないですから…」警部を見てそう言ってから、「そんなに急がず、ゆっくり進めてください」と今度は久美子を見て忠告する。

 すると久美子は
「私は……、ただ、圭一が心配で…」と何故か口籠った。

 警部はその言葉に違和感を持ち、これが初めてではないと思ったがそれについてどう訊ねたら良いか分からず、そのまま青木と共に病室を後にした。

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