第29話

文字数 3,296文字

 目の前を横切ったのは茶色い柴犬だった。

 犬はそのまま勢いよくあご髭の右腕に噛みついたお陰で弾丸は吉田警部の頭を逸れたのだ。
「くそっー! なんだこいつ、うあぁー、離せぇー!」あご髭の男が苦痛に呻き出し、その手から拳銃を落としてもがいている。
 男の腕に犬が噛み付いているのを見た警部は急いで背後に回り、反対の腕をねじりあげると地面に倒して押さえ込んだ。

「ガウッ、ガウッ」と犬が唸りながらその腕に喰いついていたお陰であご髭の男を押さえつけるのは簡単だったが、再び左から長い棒を手にした女が近づき、反対からは太った男がナイフを振りかざして迫ってくる。
 あご髭の男を両手で抑えつけている警部は何も出来ず、左右から迫る2人を代わる代わる見ながらどうすべきか迷っていると、あの黒いステーションワゴンが勢いよくやってきて女の後ろに急停車した。

 痩せた男が飛び出して来るのを見て、4人目の登場でもうダメだと警部が諦めたその時、
「きゃっ!」と小さな悲鳴が聞こえ、女が手にしていた棒が宙に飛んだ。

 その痩せた男は女が構えていた棒を蹴り上げた後、そのままジャンプして警部の頭上を飛び越え、向こう側にいる太った男の前に降り立つと同時にナイフを持つ腕を蹴り上げた。
 太った男は手から飛んだナイフが地面に着く前にパパパンッ!と見えない速さのパンチを3発みぞおちに喰らい、腹を押さえて倒れる。

 それらは一瞬の出来事で警部には何が起きたのか分からなかったが、とりあえず腰のサックから手錠を取り出して押さえつけている髭の男の片手に掛け、もう一方を反対の足に掛けた。
 男の右手にはまだ茶色い犬が噛み付いていたがやがて腕に巻かれていた赤いブレスレッドを食いちぎると、それを咥えて闇の中に走って消えた。

 その頃、女が再び痩せた男に挑んだが何かする前に奪われた棒で、みぞおちを突かれて呻き始める。
 女と格闘している間に太った男が起き上がり別のナイフを抜き出して背後から襲いかかったが、今度は痩せた男の鋭い回し蹴りを顔面に喰らって気絶してしまった。

 それを見た警部は車から予備の手錠を取り出し、気絶している男の手と足に掛けると落ちていた自分の拳銃を拾ってどこかへ逃走してしまった女を追う為に辺りを見回す。

 女がどの方向へ逃げたか分からない警部は自分の勘を頼りに走り出すと無線で応援を要請する。
 一方、痩せた男は自分のステーションワゴンへ戻り、リアゲートを開けると女が使った棒を黒いプードルに嗅がせて、
「行け!、捜せ!」と大きなジェスチャーで闇の中を指差す。

「ワゥ、ワゥッ」と小さく吠えながら走り出した犬はあっと言う間に闇の中に消え、痩せた男はジョギング程の速さでゆっくり後を追った。
 女を追っていた犬が1分も立たない内に
「ワンッ、ワォワンッ」、「ガルルゥー」というように鳴くのと唸るのを繰り返すようになった。

 痩せた男は犬の声がする方へジョギングで向かいながら、
「女はこっちです!」大きな声で知らせると警部がすぐにやって来て、建物の間で怯えながら耳をふさいでいる若い女をライトで照らし出した。

 女に手錠を掛けると、
「違うよ、あたしは関係ないんだよ。そうしろって言われただけなんだよ」あれこれ言い訳を始めたが警部は構わずに連行する。
 犯人と格闘した現場まで戻るとすでに応援のパトカーが3台到着していて、数人の警察官が手足に手錠を掛けられた2人の男を見張っていた。

 応援の警察官へ指示を出し終えた警部が痩せた男を捜すと、
「怪我はありませんでしたか?」黒いプードルを脇に従え、暗がりに立っていた男は声を掛けた。

「あちこちに擦り傷があるのと、数か所に打撲痕があるだけで大したことはありません」警部は痩せた男に近づいて告げた後、「私は警部の吉田と申します。お陰で犯人を逮捕できました」と深々と頭を下げた。

 顔を上げると男の後ろにある黒いステーションワゴンが目に入り、警部が思わず凝視すると、
「不審に思われてしまったかも知れませんが…、あれは私の車です」痩せた男がそう言い、「私はペット探偵の藤岡と申します。コジローという犬を捜して周辺を張り込んでいたんですが、逃げられてしまいました」と苦笑いをして見せた。

「先ほど犯人に噛み付いていた犬はコジローだと思います。どこへ行っちゃったのかなぁ~」たった今、まるで拳法の達人のような動きで犯人達を倒した人とは思えない、呑気な雰囲気を漂わせながら周りの闇を見回している。

「では、あなたが伊達さんに依頼されたペット探偵の…」警部がそう言うと藤岡は、
「伊達さんをご存知なんですね。再び入院してしまいましたが私は乗り掛かった船だと思って最後までやるつもりです」真面目な顔で話した。

 その後、警察の応援が沢山やってくると、ペット探偵の藤岡は邪魔になるからと言って目立たぬように去って行った。

 警部を襲った3人の内、若い女は声を掛ける囮として雇われた地元のヤンキーで一家殺人事件とは関係なく、犯人は鑑識の佐々木が描いた似顔絵のあご髭と太った男の2人だけだと判明した。


 次の日、コジローは麻理が住んでいた品川の家に戻っていた。

 その家は親戚がそのままの状態で管理し、コジローの犬小屋もそのままだった。
 麻理の叔母に当たる人が帰ってくるかも知れないからと毎日餌を運んでいたらしく、突然戻ったコジローが犬小屋の前で食べているのを見て驚いていたようだった。

 コジローが戻ったという連絡を貰った吉田警部は青木を通じてペット探偵の藤岡に連絡し2日後、品川の家で落ち合うことにした。

 親戚の話では麻理が学校に出掛ける時間と帰宅する時間、それと散歩に行く時間の合わせて3回、毎日犬小屋から何かを咥えて玄関の前に座り、彼女の事を待ち続けているらしい。
 詳しく聞いてみるとそれは犯人の腕から食いちぎって持ち帰ったあの革のブレスレッドで、麻理が帰ってこないと判ると再びそれを咥えて小屋へ戻り、翌日また同じ事を繰り返すのだと話した。

 そのブレスレッドは何を意味するのか知りたくなって警部が犬小屋を覗くと、コジローは「ガウゥゥー!」とうなって激しく威嚇し、決して見せようとはしなかった。
 私ならとペット探偵の藤岡が試しても結果は同じで、まるでブレスレッドは誰にも渡さないと言わんばかりに2人を威嚇し続けた。
 理由は分からないが次の日も、その次の日も2度と帰る事のない麻理のためにコジローはブレスレッドを咥えて玄関と犬小屋を行き来し、何時それを止めるのだろうと誰もが不思議に思っていた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 連続一家殺人事件の犯人逮捕によって院長の青木とペット探偵の藤岡は警視庁の会議室で表彰され、警視総監賞を授与された。
 メモリーハンターの伊達も表彰の対象者だったが、入院しているのでその場にはいなかった。

「伊達さんがここにいないのが残念です」表彰に立ち会った吉田警部が残念そうに言うと、
「まったくだ、自分を犠牲にしてまで事件の解決に尽力してくれたのに…」警部を見て、青木が頷きながら言った。

「コジローは結局、自分で帰ってきたので僕は何の役にも立ちませんでした…。伊達さんとの約束を果たせなかった…」と藤岡は肩を落としたが
「藤岡さんがいたから私は殺されずに済んだし、犯人も逮捕出来たんです」警部が真剣な顔で言うと、
「タイミング良くそこにいただけですが、そう言って貰えると嬉しいです」笑顔を取り戻した。

「あとは伊達さんに回復して元気になってもらわなれば…」青木が責任を感じながら重い口調で呟き、「お母さんをなんとか捜し出し、伊達さんの治療を手助けしてもらいます…」と決心したように続けた。

 するとそれを聞いた警部が
「犯人逮捕の褒美として長期休暇をもらいました。その休みを利用して私も伊達さんのお母さんを捜します。警察のデータベースを使う許可も貰いましたので必ず見つけ出しますよ」青木を元気付けるように告げると、
「僕にできる事があればいつでも知らせてください。私も喜んで協力します」藤岡も2人を見てそう言った。

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