男前先生 (6)
文字数 6,382文字
大丈夫か、特に痛むところはないか、骨が折れているようなところはないか、と聞かれても、正直わからなかった。
痛いと言えば、体中が痛む。明日、というか、寝て起きてみないとなんとも言えそうにない。
体を気遣う風史と、バカだのアホだの言い続けるトシに支えられて、無事に車に戻ってこれた。
「先輩、これ、持って帰るの?」
「ああ」
「えー、捨ててったほうがいいよ。取り返しにきたらどうすんの」
「あんなやつらに、木刀は持たせられない」
やっぱりバカだ、と言いながら、トシはマサキを後部座席に置いた。
「兄さん、寝かせても?」「後ろでふらふらされると鬱陶しいから倒しておけ」という会話を、マサキは虚ろに聞いた。
車がゆっくりと動き出す。車の天井を、あるいは後部ガラスの向こうの夜空を見ながら、マサキはふっと子どものころのことを思い出した。
父親の運転する車の後部座席で、母親の太ももを枕にして見ていた風景。弟と席を代わってもらった。そのときの温もり、安らぎの記憶が、脳から血管を通って体を巡った。
痛みと安らぎを抱えて、マサキは車に揺られてアパートまで帰った。
風史に肩を抱かれ、片方の手で手すりを伝いながらに階段を上がった。
部屋に入って布団に寝かせられる。トシが木刀を枕の頭の上に置いた。
二人が部屋から出ていき、「鍵は?」「大丈夫でしょ、こんな部屋」というのがドアの向こうから聞こえた。階段を下りる音がやんで少し、マサキは起きて入り口の鍵をかけた。
――トシ、送って……。
あいつはなんとかするだろう。ラインでもしてみようかという考えは一瞬で蒸発した。
痛みも疲労も大したことはないが、改めて布団に横になると、意識も体も沈んでいくように、あっという間に眠りに落ちた。
目が覚めたとき、辺りはすっかり明るかったが、時刻はまだ七時だった。
何時に寝たのかわからない。恐らく、一時は過ぎていたんじゃないだろうか。体の痛みを確認しつつ、昨日の夜のことを思い返していた。
殴られ蹴られるのを体を丸めてじっと耐えていた、怒号、爆音。そのとき聞こえた。
「サン爆だぁぁ!」
その瞬間の嬉しさが、ありありと蘇った。
その後どうなったか。
駆けつけたのは、守谷学の旧「サン爆」と、かつてサン爆と争っていた二つの族のメンバーたち伝説の『三族』、さらにメンバーの知り合いを加えた総勢五十人近い集団だった。
マサキの電話をもらったサトルが集めた。その中に、タケルの所属する族の後ろ盾に当たる人がいた。
その人が、リーダーと話をつけてくれ、おかげで、タケルはそのまま族を抜けることがでた。
あばらと手の指を何本か骨折し、顔も体も傷だらけになったが、入院が必要なほどではななく、後遺症が残るような怪我もなかったのは、僥倖と言っていいかもしれない。
実は、タケルたちの族では、今回のような「儀式」は原則禁止されていたという。
「辞める」という仲間に対しては、それこそ居酒屋やファミレスなどで送別会が通例だった。
タケルにとっても初めてだった。その点でマサキの読みは外れていたと言っていい。
ただ、「あの場所」が有名で「うってつけ」であることは、タケルたちの間でも知らないものはなかった。あの場所に集まるということが即ちどういうことかは、タケルにも十分わかっていた。
――半分、いや、七割は正解だったと言っていいな。
リーダーによれば「タケルに思いとどまって欲しかったから」ということ。友情が、ときに行き過ぎるのは若者の故か。
その後、サトルと直接話をする機会はないが、ねぇさんからのラインによれば、タケルに対する制裁が理由で、その族が潰れるとかのペナルティはなく、厳重注意で済んだ。
「かび臭い真似はやめろ」ということだったが、「このご時勢、目立ったことはしてくれるな」というのが本音らしい。
随分時代が変わったと、サトルが嘆いたようだ。そもそも、サン爆には「後ろ盾」などなかったが。
タケル自身は、月曜から仕事に出ていた。無論、それまでと同じように体を動かせるわけもない。手を出すこともできず、口を出す、声を出すくらい。
それなら休んでればいいのに。
とは、マサキは思わない。それでもなんとなくみんな楽しそうに笑っている現場が、頭に浮かんだ。
タケルが、マサキの部屋に勉強にきたのはさらに二日経った水曜の夜。九時過ぎ、タケルが部屋に入ってきてマサキの左側に座った。
成美が二人の顔を見比べて。
「二人とも、ブサイク」
と言って鼻で笑った。成美が帰ると、とても「勉強しよう」という気にはなれない。
「大丈夫か」
「はい。先生は」
「おう……、ダメだな、体中が痛くて」
「俺もっす」
「タケル、お前いい顔になったな」
「先生も、なかなかの男前っすよ」
「男の勲章だな」
女子にはわからん、という台詞は、既にいない成美に遠慮した。
マサキは、怪我をしたことなど微塵も後悔していない。タケルとこうして心の底からの笑顔を向け合えるようになったことは、何ごとにもかえがたい。
「実は」
と、タケルが話し始めた。なぜあんなことになったか。
「実は、北村の、リーダーの彼女を俺がとっちまったんす」
さらに。
「その彼女を、俺が妊娠させちゃって」
「おお!」
ということだった。
子どもができるというのに、いつまでも暴走族なんかやってられない。女房子どもを養うために、一生懸命稼がなければならない。
愛する女性のために仲間を捨てて、そのための制裁を甘んじて受ける。
「裏切ったのは俺のほうなんで、ケジメっつうか」
実際、みんな本気ではなかったという。でなければこんな怪我では済まないだろうと。
北村だけはどうだったかわからないが。
なるほど、行き過ぎたのは「友情」ではなく「愛情」か。リーダーにしてもタケルにしても「愛」が「友」を上回る、か。
「浪花節だね」
「え、なんすか?」
「いや、なんでもない。もしかして、俺のときのほうが本気だったのか」
「たぶん。出てきたときはマジびっくりしましたよ。リーダーを倒したときはマジやべぇと思ったっす」
ぞっとした。もう二度と、ああいう場面でしゃしゃり出るのはやめよう。
「でも、マジで嬉しかったっす」
「いいよ、もう。二度といかないから」
「はい。だいじょぶっす。先生、ほんとに」
「待て、まだ早い。わたしに礼を言いたければ、一人前の空師になるんだな」
と、かっこいいことを言おうと思っていたのだが、タケルの言葉に割り込むことはできなかった。「先生、ほんとに、ありがとうございました」と、最後まで言わせてしまった。
仕方なし、うんうんと頷いただけだった。
「ありがとう」という言葉、感謝の気持ちは、マサキにとって、タケルの笑顔ほどには響いていない。
「タケルの子どもは、わたしが育ててもいいぞ」
「え?」
「男の中の男に育て上げてみせる」
「まだ男か女かわからねんすけど。でも、この部屋で育ったら、強くなりそうっす」
タケルは、部屋をぐるっと見回して、笑顔で言った。
子どもにもサッカーをやらせたい、ゴルフはどうだ、危険だがオートレーサーが儲かるらしいぞ、云々。
空師の仕事は高木の枝を払い幹を倒す。それは、空を切り開く仕事だ。
自身と家族のために、支えてくれる仲間のために、そしてマサキのために、空を見事に切り開く男になって欲しい。
「いやー、ほんと、あのときは流石にヤバイと思ったわ」
「それでその顔の傷ですか」
「そう、体中傷だらけさ。ほら」
と、マサキはティーシャツの半袖をまくって右肩のあざを見せた。相手は島方美穂である。
あの日曜日から九日が経った火曜日の夜十時。
美穂は仕事が終わってそのままきたのか、白のブラウスに紺のスカート、ストレートに延びた髪は首の中ほどまで下りている。仕事中はまとめるのだろうか。
その姿も見てみたいと、マサキは愚かに妄想する。
「わぁ、痛そう。体大丈夫なんすか? 神さん、もうすぐ三十路なんだから、あんまり無茶しちゃだめっすよ」
と、美穂は笑顔でマサキを嗜めた。
美穂から「今日いっても大丈夫すか?」と電話があったのは夜の八時ころだった。
「いいじゃん、きてもらえば。わたし帰るから」
――聞こえてるのか……?
ほんとにわかっているのか、それともカマをかけられてるのか。
電話の向こうで「あれ、まずいっすか?」と言われ、脳裡に修羅場が見えた。なんでもないじゃないか、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「え、えっと、何時ころになりそう? 九時半から十時くらい、そう」
聞こえるように復唱したが、時間が遅くなればなるほどフォローが効かないということに気づいたのはその直後だった。
「大丈夫だよ、じゃあ、お疲れ」と電話を切った。結局、成美は九時過ぎまでいたが、電話の後の気まずさはかなりのものだった。
美穂は、やせたようだ。会って真っ先に比較の対象になるのは、前回会ったときではなく、その都度学生のときの彼女である。
比べれば、確かに痩せた。それは大人っぽくなった、とも言える。
今の彼女は、かつての快活さ、屈託のなさを失いつつある代わり、凄艶な大人の色香を備えつつあるようだった。
入り口を入って止まる、部屋の中に入り、マサキの正面に腰を下ろす、部屋をぐるっと眺めて、笑顔になる。
学生時代、初めてマサキの部屋に入ったときの彼女と重なる。そして、マサキの顔に戻ってきて。
「相変わらずですね」
と言ってにこっと笑うのだ。「相変わらず」と美穂に言われたいがために部屋を整理しないのかもしれない。
「あれ、先輩、顔、どうしたんすか?」
「ん、あ、これね、これは」
「のぞきがばれたんすか?」
「ばれてない。いや、ばれてないじゃなくて、のぞきなど」
美穂と話をすると、マサキは自分がおかしいほどしゃべりたがっていることに気づく。彼女を笑わせたい、そのために。
学生のときからそうだった。彼女の笑顔ほど、マサキに元気をくれるものはなかった。
こないだのことを一通り話し終わる。次はどうしよう、どうやって笑わせようか。
――ん?
美穂が俯いてしまった。マサキのせいではないことはわかっている。
どう声をかければいい?
言葉を考える、書くことを生業にしようという男が、こんなときに気の利いた言葉一つ出てこないとは。「どうした?」と聞くのが精一杯だった。
美穂が顔を上げた。じっとマサキを見つめる、その瞳から、不意に、涙が流れた。
「神さん……」
マサキを動かしたのはその声か、それとも涙か。
立ち上がり、テーブルを回った。速かったのかゆっくりだったのか、わからない。美穂の隣に片膝ついて座ると、彼女の頭をそっと抱いた。
――こんなのは、悲しすぎる。
折れそうな彼女を辛うじて支えることしか自分にはできないのか。
彼女の彼氏と家族に対する怒りが俄かに込み上げる。マサキのもとに彼女を運んだのは、彼女の抱えるこの悲しみ、苦しみだろう。
こんな出会いは、こんな抱擁はいらない。彼女が幸せなら、その幸せぶりをたまのラインで確認できれば、そのほうがどれだけ励みになるだろう。
年に一、二回電話で声が聞けるなら、電話の向こうで彼女が笑ってくれるなら、それがどれほど力になるだろう。
そしてマサキは嫉妬する。彼氏に。
お前なんかより、わたしのほうが前から彼女を知っている、彼女を好きになったのもわたしのほうが先だ、彼女に募らせた思いだってわたしのほうが厚いに決まっている。好意、僻み、諦め……。
わたしのほうが彼女を笑顔にさせられる、彼女だって、わたしと遊びたいと思ってるはずだ。
それをさせないお前は、彼女を幸せにする義務がある。
義務だ!
〝それ〟を他人の義務と言う。自分の使命ではなく。彼女に幸せをもたらすのは、「わたし」ではなく「おまえの義務」だと。
それが「神正樹」だった。その情けなさこそが「わたし」であり、その報われなさこそが「わたし」なのだ。
――涙にくれる彼女を抱きしめるなんて、神正樹じゃない。
腕の中に抱える、彼女の涙が少し落ち着いてきたのを感じる。右手で頭を抱き、左手を彼女の背中に回した。彼女から、いい匂いがした。
「どうした? 仕事のことか、ん?」
彼女は、震える喉で深呼吸を数回繰り返した。
「ごめんなさい」とマサキの胸から頭を離すと、もう一度「ごめんなさい」と言って、無理矢理に笑顔を作った。
マサキは手を伸ばしてボックスティッシュを取り、彼女に渡した。涙を拭き、鼻の下にティッシュを当てる様子を、マサキはじっと眺めていた。
彼女がマサキの方に向き直る。まるで自分の姿を探すように、マサキは彼女の潤んだ瞳を見つめた。
パチン!!!
いきなり左の頬を叩かれた。
「え? え?」
びっくりしたマサキの顔を見て、彼女が、笑った。
「なんだそりゃ!」
左の頬がジンジンする。二倍にも三倍にも膨れ上がったようだ。彼女はゲラゲラ笑っている。
「いや、めっちゃいてぇ」
彼女が、涙を流して笑っている。マサキも笑った。痛くて、涙が出てきた。
「マジであのエロクソ上司むかつくんすよ。『今日もきれいだね』て、おめぇに言われたくねぇわ。油ギッシュなメタボ野郎が! 切り刻んで春名湖の魚の餌にしたい!」
頬をさすりながら、テーブルを戻ったマサキに、美穂は大いに語った。
――酔ってるわけじゃ、ないんだろう。
上司の文句から風変わりな後輩に対する注文、ランチに食べたパスタが硬かった、生理痛が酷かった、妹のこと、両親のこと。
彼女の起伏に富んだ表情を楽しむように、「へぇ」とか「そうなんだ」とか言いながら、マサキはただ聞いていた。
――彼氏のことが、出てこない。
気になった。いい話題も悪い話題も、彼氏に関する話はない。
プロポーズを一度断ったということだったが、その後どうなっているのか……。マサキから話を振ることは、なかなかハードルが高い。
ブブブブ、とスマホが震えた。電話だ。時刻は十一時を二十分ほど過ぎていた。
彼女が立ち上がった。マサキが「待って」と手を上げかけた。帰るのなら止めようと思った。
立ち上がると、彼女は入り口ではなく、台所にいって冷蔵庫を開けた。「なんもねぇな」とか言う彼女に苦笑いを浮かべつつ、電話に出た。
相手は成美だった。
「おう、どうした、うん、そうか、ああ、まだいるよ、うん」
1.5リットルのコーラペットボトルをラッパ飲みしながら戻ってきた美穂と目が合った。成美が眠れないという。
「くるか? いいぞ、別に、うん、うん、ああ、わかった、おう」
成美が、これから部屋にくるという。コーラのボトルを床に置く。
「わたし、帰ったほうがいい?」
「いや、いいよ」
そこからは、昔話になった。
「あれ、最近、誰かと連絡とった?」
「ぜんぜん。みんな元気でやってますかね」
二、三分後、トン、トン、トン、階段をゆっくり上がってくる。カチャとドアノブが鳴った。美穂が振り向いて言った。首筋がきれいだ。
「こんばんは」
「こんばんは」
ドアを後ろ手でしめながら、枕を抱えた成美が返した。笑顔はなかったが(誰にでもそうだが)、しっかり目を見て返事をしたようだ。マサキは、少しほっとした。
「ねぇ。ちょっと、横になっていい?」
「おお、いいよ」
成美はマサキの後ろにある万年布団に横になった。マサキの枕を端に除けて、自分の枕に顔を埋めた。
「寒くないか?」
「だいじょぶ」
それだけで、成美は静かに寝息を立てていた。
「こんな時間。そろそろ帰ります」
静かに言った美穂の、マサキの背後に向ける目が優しかった。
マサキが自分の左後ろに横たわる黒髪に向かって「ちょっと送ってくるぞ」と声をかけたが、返事はなかった。美穂に一つ頷いて、二人は静かに立ち上がり、部屋から出た。
痛いと言えば、体中が痛む。明日、というか、寝て起きてみないとなんとも言えそうにない。
体を気遣う風史と、バカだのアホだの言い続けるトシに支えられて、無事に車に戻ってこれた。
「先輩、これ、持って帰るの?」
「ああ」
「えー、捨ててったほうがいいよ。取り返しにきたらどうすんの」
「あんなやつらに、木刀は持たせられない」
やっぱりバカだ、と言いながら、トシはマサキを後部座席に置いた。
「兄さん、寝かせても?」「後ろでふらふらされると鬱陶しいから倒しておけ」という会話を、マサキは虚ろに聞いた。
車がゆっくりと動き出す。車の天井を、あるいは後部ガラスの向こうの夜空を見ながら、マサキはふっと子どものころのことを思い出した。
父親の運転する車の後部座席で、母親の太ももを枕にして見ていた風景。弟と席を代わってもらった。そのときの温もり、安らぎの記憶が、脳から血管を通って体を巡った。
痛みと安らぎを抱えて、マサキは車に揺られてアパートまで帰った。
風史に肩を抱かれ、片方の手で手すりを伝いながらに階段を上がった。
部屋に入って布団に寝かせられる。トシが木刀を枕の頭の上に置いた。
二人が部屋から出ていき、「鍵は?」「大丈夫でしょ、こんな部屋」というのがドアの向こうから聞こえた。階段を下りる音がやんで少し、マサキは起きて入り口の鍵をかけた。
――トシ、送って……。
あいつはなんとかするだろう。ラインでもしてみようかという考えは一瞬で蒸発した。
痛みも疲労も大したことはないが、改めて布団に横になると、意識も体も沈んでいくように、あっという間に眠りに落ちた。
目が覚めたとき、辺りはすっかり明るかったが、時刻はまだ七時だった。
何時に寝たのかわからない。恐らく、一時は過ぎていたんじゃないだろうか。体の痛みを確認しつつ、昨日の夜のことを思い返していた。
殴られ蹴られるのを体を丸めてじっと耐えていた、怒号、爆音。そのとき聞こえた。
「サン爆だぁぁ!」
その瞬間の嬉しさが、ありありと蘇った。
その後どうなったか。
駆けつけたのは、守谷学の旧「サン爆」と、かつてサン爆と争っていた二つの族のメンバーたち伝説の『三族』、さらにメンバーの知り合いを加えた総勢五十人近い集団だった。
マサキの電話をもらったサトルが集めた。その中に、タケルの所属する族の後ろ盾に当たる人がいた。
その人が、リーダーと話をつけてくれ、おかげで、タケルはそのまま族を抜けることがでた。
あばらと手の指を何本か骨折し、顔も体も傷だらけになったが、入院が必要なほどではななく、後遺症が残るような怪我もなかったのは、僥倖と言っていいかもしれない。
実は、タケルたちの族では、今回のような「儀式」は原則禁止されていたという。
「辞める」という仲間に対しては、それこそ居酒屋やファミレスなどで送別会が通例だった。
タケルにとっても初めてだった。その点でマサキの読みは外れていたと言っていい。
ただ、「あの場所」が有名で「うってつけ」であることは、タケルたちの間でも知らないものはなかった。あの場所に集まるということが即ちどういうことかは、タケルにも十分わかっていた。
――半分、いや、七割は正解だったと言っていいな。
リーダーによれば「タケルに思いとどまって欲しかったから」ということ。友情が、ときに行き過ぎるのは若者の故か。
その後、サトルと直接話をする機会はないが、ねぇさんからのラインによれば、タケルに対する制裁が理由で、その族が潰れるとかのペナルティはなく、厳重注意で済んだ。
「かび臭い真似はやめろ」ということだったが、「このご時勢、目立ったことはしてくれるな」というのが本音らしい。
随分時代が変わったと、サトルが嘆いたようだ。そもそも、サン爆には「後ろ盾」などなかったが。
タケル自身は、月曜から仕事に出ていた。無論、それまでと同じように体を動かせるわけもない。手を出すこともできず、口を出す、声を出すくらい。
それなら休んでればいいのに。
とは、マサキは思わない。それでもなんとなくみんな楽しそうに笑っている現場が、頭に浮かんだ。
タケルが、マサキの部屋に勉強にきたのはさらに二日経った水曜の夜。九時過ぎ、タケルが部屋に入ってきてマサキの左側に座った。
成美が二人の顔を見比べて。
「二人とも、ブサイク」
と言って鼻で笑った。成美が帰ると、とても「勉強しよう」という気にはなれない。
「大丈夫か」
「はい。先生は」
「おう……、ダメだな、体中が痛くて」
「俺もっす」
「タケル、お前いい顔になったな」
「先生も、なかなかの男前っすよ」
「男の勲章だな」
女子にはわからん、という台詞は、既にいない成美に遠慮した。
マサキは、怪我をしたことなど微塵も後悔していない。タケルとこうして心の底からの笑顔を向け合えるようになったことは、何ごとにもかえがたい。
「実は」
と、タケルが話し始めた。なぜあんなことになったか。
「実は、北村の、リーダーの彼女を俺がとっちまったんす」
さらに。
「その彼女を、俺が妊娠させちゃって」
「おお!」
ということだった。
子どもができるというのに、いつまでも暴走族なんかやってられない。女房子どもを養うために、一生懸命稼がなければならない。
愛する女性のために仲間を捨てて、そのための制裁を甘んじて受ける。
「裏切ったのは俺のほうなんで、ケジメっつうか」
実際、みんな本気ではなかったという。でなければこんな怪我では済まないだろうと。
北村だけはどうだったかわからないが。
なるほど、行き過ぎたのは「友情」ではなく「愛情」か。リーダーにしてもタケルにしても「愛」が「友」を上回る、か。
「浪花節だね」
「え、なんすか?」
「いや、なんでもない。もしかして、俺のときのほうが本気だったのか」
「たぶん。出てきたときはマジびっくりしましたよ。リーダーを倒したときはマジやべぇと思ったっす」
ぞっとした。もう二度と、ああいう場面でしゃしゃり出るのはやめよう。
「でも、マジで嬉しかったっす」
「いいよ、もう。二度といかないから」
「はい。だいじょぶっす。先生、ほんとに」
「待て、まだ早い。わたしに礼を言いたければ、一人前の空師になるんだな」
と、かっこいいことを言おうと思っていたのだが、タケルの言葉に割り込むことはできなかった。「先生、ほんとに、ありがとうございました」と、最後まで言わせてしまった。
仕方なし、うんうんと頷いただけだった。
「ありがとう」という言葉、感謝の気持ちは、マサキにとって、タケルの笑顔ほどには響いていない。
「タケルの子どもは、わたしが育ててもいいぞ」
「え?」
「男の中の男に育て上げてみせる」
「まだ男か女かわからねんすけど。でも、この部屋で育ったら、強くなりそうっす」
タケルは、部屋をぐるっと見回して、笑顔で言った。
子どもにもサッカーをやらせたい、ゴルフはどうだ、危険だがオートレーサーが儲かるらしいぞ、云々。
空師の仕事は高木の枝を払い幹を倒す。それは、空を切り開く仕事だ。
自身と家族のために、支えてくれる仲間のために、そしてマサキのために、空を見事に切り開く男になって欲しい。
「いやー、ほんと、あのときは流石にヤバイと思ったわ」
「それでその顔の傷ですか」
「そう、体中傷だらけさ。ほら」
と、マサキはティーシャツの半袖をまくって右肩のあざを見せた。相手は島方美穂である。
あの日曜日から九日が経った火曜日の夜十時。
美穂は仕事が終わってそのままきたのか、白のブラウスに紺のスカート、ストレートに延びた髪は首の中ほどまで下りている。仕事中はまとめるのだろうか。
その姿も見てみたいと、マサキは愚かに妄想する。
「わぁ、痛そう。体大丈夫なんすか? 神さん、もうすぐ三十路なんだから、あんまり無茶しちゃだめっすよ」
と、美穂は笑顔でマサキを嗜めた。
美穂から「今日いっても大丈夫すか?」と電話があったのは夜の八時ころだった。
「いいじゃん、きてもらえば。わたし帰るから」
――聞こえてるのか……?
ほんとにわかっているのか、それともカマをかけられてるのか。
電話の向こうで「あれ、まずいっすか?」と言われ、脳裡に修羅場が見えた。なんでもないじゃないか、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「え、えっと、何時ころになりそう? 九時半から十時くらい、そう」
聞こえるように復唱したが、時間が遅くなればなるほどフォローが効かないということに気づいたのはその直後だった。
「大丈夫だよ、じゃあ、お疲れ」と電話を切った。結局、成美は九時過ぎまでいたが、電話の後の気まずさはかなりのものだった。
美穂は、やせたようだ。会って真っ先に比較の対象になるのは、前回会ったときではなく、その都度学生のときの彼女である。
比べれば、確かに痩せた。それは大人っぽくなった、とも言える。
今の彼女は、かつての快活さ、屈託のなさを失いつつある代わり、凄艶な大人の色香を備えつつあるようだった。
入り口を入って止まる、部屋の中に入り、マサキの正面に腰を下ろす、部屋をぐるっと眺めて、笑顔になる。
学生時代、初めてマサキの部屋に入ったときの彼女と重なる。そして、マサキの顔に戻ってきて。
「相変わらずですね」
と言ってにこっと笑うのだ。「相変わらず」と美穂に言われたいがために部屋を整理しないのかもしれない。
「あれ、先輩、顔、どうしたんすか?」
「ん、あ、これね、これは」
「のぞきがばれたんすか?」
「ばれてない。いや、ばれてないじゃなくて、のぞきなど」
美穂と話をすると、マサキは自分がおかしいほどしゃべりたがっていることに気づく。彼女を笑わせたい、そのために。
学生のときからそうだった。彼女の笑顔ほど、マサキに元気をくれるものはなかった。
こないだのことを一通り話し終わる。次はどうしよう、どうやって笑わせようか。
――ん?
美穂が俯いてしまった。マサキのせいではないことはわかっている。
どう声をかければいい?
言葉を考える、書くことを生業にしようという男が、こんなときに気の利いた言葉一つ出てこないとは。「どうした?」と聞くのが精一杯だった。
美穂が顔を上げた。じっとマサキを見つめる、その瞳から、不意に、涙が流れた。
「神さん……」
マサキを動かしたのはその声か、それとも涙か。
立ち上がり、テーブルを回った。速かったのかゆっくりだったのか、わからない。美穂の隣に片膝ついて座ると、彼女の頭をそっと抱いた。
――こんなのは、悲しすぎる。
折れそうな彼女を辛うじて支えることしか自分にはできないのか。
彼女の彼氏と家族に対する怒りが俄かに込み上げる。マサキのもとに彼女を運んだのは、彼女の抱えるこの悲しみ、苦しみだろう。
こんな出会いは、こんな抱擁はいらない。彼女が幸せなら、その幸せぶりをたまのラインで確認できれば、そのほうがどれだけ励みになるだろう。
年に一、二回電話で声が聞けるなら、電話の向こうで彼女が笑ってくれるなら、それがどれほど力になるだろう。
そしてマサキは嫉妬する。彼氏に。
お前なんかより、わたしのほうが前から彼女を知っている、彼女を好きになったのもわたしのほうが先だ、彼女に募らせた思いだってわたしのほうが厚いに決まっている。好意、僻み、諦め……。
わたしのほうが彼女を笑顔にさせられる、彼女だって、わたしと遊びたいと思ってるはずだ。
それをさせないお前は、彼女を幸せにする義務がある。
義務だ!
〝それ〟を他人の義務と言う。自分の使命ではなく。彼女に幸せをもたらすのは、「わたし」ではなく「おまえの義務」だと。
それが「神正樹」だった。その情けなさこそが「わたし」であり、その報われなさこそが「わたし」なのだ。
――涙にくれる彼女を抱きしめるなんて、神正樹じゃない。
腕の中に抱える、彼女の涙が少し落ち着いてきたのを感じる。右手で頭を抱き、左手を彼女の背中に回した。彼女から、いい匂いがした。
「どうした? 仕事のことか、ん?」
彼女は、震える喉で深呼吸を数回繰り返した。
「ごめんなさい」とマサキの胸から頭を離すと、もう一度「ごめんなさい」と言って、無理矢理に笑顔を作った。
マサキは手を伸ばしてボックスティッシュを取り、彼女に渡した。涙を拭き、鼻の下にティッシュを当てる様子を、マサキはじっと眺めていた。
彼女がマサキの方に向き直る。まるで自分の姿を探すように、マサキは彼女の潤んだ瞳を見つめた。
パチン!!!
いきなり左の頬を叩かれた。
「え? え?」
びっくりしたマサキの顔を見て、彼女が、笑った。
「なんだそりゃ!」
左の頬がジンジンする。二倍にも三倍にも膨れ上がったようだ。彼女はゲラゲラ笑っている。
「いや、めっちゃいてぇ」
彼女が、涙を流して笑っている。マサキも笑った。痛くて、涙が出てきた。
「マジであのエロクソ上司むかつくんすよ。『今日もきれいだね』て、おめぇに言われたくねぇわ。油ギッシュなメタボ野郎が! 切り刻んで春名湖の魚の餌にしたい!」
頬をさすりながら、テーブルを戻ったマサキに、美穂は大いに語った。
――酔ってるわけじゃ、ないんだろう。
上司の文句から風変わりな後輩に対する注文、ランチに食べたパスタが硬かった、生理痛が酷かった、妹のこと、両親のこと。
彼女の起伏に富んだ表情を楽しむように、「へぇ」とか「そうなんだ」とか言いながら、マサキはただ聞いていた。
――彼氏のことが、出てこない。
気になった。いい話題も悪い話題も、彼氏に関する話はない。
プロポーズを一度断ったということだったが、その後どうなっているのか……。マサキから話を振ることは、なかなかハードルが高い。
ブブブブ、とスマホが震えた。電話だ。時刻は十一時を二十分ほど過ぎていた。
彼女が立ち上がった。マサキが「待って」と手を上げかけた。帰るのなら止めようと思った。
立ち上がると、彼女は入り口ではなく、台所にいって冷蔵庫を開けた。「なんもねぇな」とか言う彼女に苦笑いを浮かべつつ、電話に出た。
相手は成美だった。
「おう、どうした、うん、そうか、ああ、まだいるよ、うん」
1.5リットルのコーラペットボトルをラッパ飲みしながら戻ってきた美穂と目が合った。成美が眠れないという。
「くるか? いいぞ、別に、うん、うん、ああ、わかった、おう」
成美が、これから部屋にくるという。コーラのボトルを床に置く。
「わたし、帰ったほうがいい?」
「いや、いいよ」
そこからは、昔話になった。
「あれ、最近、誰かと連絡とった?」
「ぜんぜん。みんな元気でやってますかね」
二、三分後、トン、トン、トン、階段をゆっくり上がってくる。カチャとドアノブが鳴った。美穂が振り向いて言った。首筋がきれいだ。
「こんばんは」
「こんばんは」
ドアを後ろ手でしめながら、枕を抱えた成美が返した。笑顔はなかったが(誰にでもそうだが)、しっかり目を見て返事をしたようだ。マサキは、少しほっとした。
「ねぇ。ちょっと、横になっていい?」
「おお、いいよ」
成美はマサキの後ろにある万年布団に横になった。マサキの枕を端に除けて、自分の枕に顔を埋めた。
「寒くないか?」
「だいじょぶ」
それだけで、成美は静かに寝息を立てていた。
「こんな時間。そろそろ帰ります」
静かに言った美穂の、マサキの背後に向ける目が優しかった。
マサキが自分の左後ろに横たわる黒髪に向かって「ちょっと送ってくるぞ」と声をかけたが、返事はなかった。美穂に一つ頷いて、二人は静かに立ち上がり、部屋から出た。