黒い友だち (6)

文字数 6,264文字

 六月に入った。「いつまでコタツに布団かけたままなんだ」と言われ続けていたが、漸くコタツを裸にできた。いくらか涼しげになったか。
 若干爽やかになった(?)二〇一号室の裸コタツに最初に足を入れた「客」がトシでも成美でもなかったことは意外だった。
 六月最初の日曜日、夜八時半、コタツを挟んでマサキの前には女性が座っていた。
 ――これまでと違った夏になる……。
 そんな予感を胸に、女性を迎えた。
 それは、雀躍りしたくなるような明るいものではなかった。彼女は、島方美穂である。
「うん、元気そうだ」
「神さんも、相変わらずいい部屋してますね」
「まあね、こぎれいでハイソな部屋はどうも、こういう部屋が落ち着く」
 ハイソなんて言葉久しぶり、いや、人に使ったのは初めてか。これ通じるのか?
 ――何を浮かれているのだ、わたしは。
 美穂の笑顔は、「ハイソ」という言葉に対するものではないかもしれない。
 ――笑顔は昔とそう変わらない。
 マサキは安心した。若干、顔が細くなっていることには気がついた。そのことを、本人に言うつもりはない。
「変わらないね、神さんは。神さんの顔見ると落ち着く。この部屋、昔を思い出す。懐かしいです」
 美穂の声とその喋り方、「変わらないですね」という言葉。「神さん」という呼び方こそこそばゆく、些か寂しくもある。
 あの頃の友だちと、もうほとんど連絡は取り合っていない。電話からラインか、年に一度あるかないか。
「みんな昇進して結婚して、中には子どもがいるやつだっている。三十前にしてこんなことをしているのはわたしくらいだ」
 かわいい女の後輩の前でかっこつけたというのは多分にある。夢を追いかけて会社を辞めた、いかした先輩風を吹かせてみた。
――「いかした」というよりは「いかれた」か。
 雑談と昔話。彼女は笑った。彼女の笑顔に、マサキもすっかり乗せられた。
「乗ってあげた」と言うと偉そうだが、彼女の笑顔を引き出すために頑張った。
 儚い。
 笑顔の裏に隠された彼女の印象。
 ラインをしている中で作られた先入観はあるに違いない。彼女が笑ってくれるのが嬉しくて、いつになく饒舌だった。
 風史やトシや、成美にも見せない、マサキの一面だったろう。
「二週間くらい前、彼に結婚を申しこまれちゃったんです」
 彼女がここにきた訳がこれだった。おどけたにしろ、彼女の言葉には確かに「困惑」の気味が混じっている。
 ラインを見る限り、のろけるようなコメントはない。しかし、彼女が、ある意味辛い思いを堪えて仕事を頑張るのは彼氏のためだ。それはラインからでもわかっていた。
「おお。で、どうした、受けたのか?」
 笑顔を保っているが、受けたものとして祝福はできない。苦しみの原因でもあるのだ。
 会ったこともない男なんかよりも、彼女の健康のほうが遥かに大切だ。
「保留しちゃいました。神さん、どう思う?」
「ん?」
 どこの馬の骨ともわからんやつに、美穂はくれてはやれん!
「今度連れてくることだ、わたしが見極めてやる。男を見る目はある」
「神さん、まさかそっちの趣味が……。だから彼女作らないんだ」
 切り返しの鋭さは、昔と変わっていない。
「秘蔵動画みせようか?」
「え、BL? 衆道ですか、衆道?」
「おい、衆道なんて、よく知ってるな。そんなの誰に教わったん?」
「神さん」
 学生の頃より切れ味は増しているかもしれない。
「じゃあ、ハメ撮り? ハメ撮りだろ! ヘンタイ! リベンジだ、リベンジ! 最悪、信じらんない!」
「ったく。誰がリベンジなどするか、恐ろしいことを言うな」
 そもそもリベンジする相手もいない。悲しいから、口にはしないけど。
「ハメ撮り映像など、あるわけがない」
 ある、ない、みせろ、みせない。結婚の話題から、話は外れに外れた。暫く、「大人のおもちゃがあるなら出しやがれ!」「そんなもの、持ってるわけがないだろう!」というところで一息ついた。
「ヘンタイ!」
「どっちが!」
 東側の壁の向こうで物音がする。こんなときに限って、隣の大学生は部屋にいるようだ。こちらのことなど、あまり気にしてなどいないだろうが。
 彼女はコタツの中で足を思い切り伸ばしていた。
 マサキはその足をよけるように自分の足を引いたり、変な方向に出したり。落ち着かない足がだんだんと疲れてくる。
「それで彼氏から、なんか変なこと言われたりしたのか?」
「んん、別に。びっくりしてたみたいだけど」
 何気ない様子を装っているが。
「そんな彼氏と別れて、わたしと付き合えばいい」
 十パーセントの本気が、こんな冗談を言わせることをさせない。
「部署を変えてもらうとかはできないのか?」
と聞くのが精一杯だった。
 本当は、彼氏のことはともかく、こんな会社など辞めてしまえばいい、と言いたかった。
 聞くまでもないだろう。彼女にとっては、会社=彼氏(の活躍)であり、彼氏=彼女なのだから。
 ――彼氏に依存しすぎているのか……。
 彼女は気づいていない。彼女はきっと否定する。「自分の意志」だと。
 だから、彼女は気づいている。彼女は、気づいていることに気づいていない。
 仕事の話になると、彼女の笑顔は萎れてしまう。まっすぐ前を向いていた花は、力なく地面を見つめる。
 彼女は、常に三つを背負っている。
 彼氏と仕事と「自分」、切り離して別々に背負うことができていない。
 いや、むしろ全部別々にして背負っているのか。
 公私混同と言うが、大抵の人は「公」と「私」は混ざり合っている。それを場面場面で拾い出して使い分ける。
 だから背負っているのは「一つ」だ。
 だが、彼女は、全部を切り分けて背負っている。
 普通を「一」とすれば、彼女は「三」を背負っている。やつれるはずだ。
 これらのことを言ってあげるべきか。聞けば少しは楽になるかもしれない。
 ――言ったら、もう連絡つかなくなるかもしれない……。
 強迫神経症患者が、分析家に夢や思い付きを語り続けるのは、分析家に核心をつく質問をされないため、と本で読んだ。
 マサキは分析家ではないし、分析家でないマサキに彼女が「病気である」のかどうかの判断はつかない。
 が、いわゆる「図星」をつくことが相手にとって多少とも衝撃的である、ことはあるのではないか。
 問題は、至極ナイーブだ。
 マサキには結局、彼女の語りを待つしかできない。

 時刻は二十二時二十分。彼女が帰るということで、マサキも送って外に出た。
 晴れていたが、星はまばらだった。風もなく、暖かい夜だった。
 ――春名町では、夜空で星が瞬いていた。今日は風もなく、湿気も多いからな。
 風史と美穂の夜は、何か対照的な象徴だった。成美が今日はいないことに、少しほっとした。
 ――バカな、わたしがそんなことでどうする。
 時間はかかるかもしれない、簡単ではないかもしれないが、きっと、きっと。
「彼氏のマンションに帰るのか」
「うん……。それより、いいんですか、送ってきたりなんかして」
「え?」
「彼女さんに怒られますよ」
「彼女などおらんよ」
 マサキの話題になると、彼女はぱっと明るくなる。不思議だ。
「私がきたとき、一階で会いましたよ。部屋の外で目が合って、すぐ中にもどっちゃいましたけど」
「あの子は、家庭教師の生徒だ」
 今日は昼間合同練習で高校生と激しく練習して疲れたとかで上がってこなかった。
 そのタイミングで顔を出すとは、やはり恐るべし……。
「かわいい子ですね。神さん、昔からメンクイだから。いいじゃん、先生と生徒」
「中学生だぞ。まだ犯罪者になりたくはない」
「愛には年齢なんか関係ない! 塀の中と外で、愛を育むことだってできる! 大丈夫、愛があれば」
「おいおい」
 笑う。顔色を覗くように彼女に視線を向ける。真っ直ぐ、彼女と目が合った。
 フラッシュバック。
 そこにいるのは、学生時代、マサキが大好きだった「島方美穂」だった。
 二人はその場で立ち止まり、見つめ合った。マサキの時計の針は止まった。
 ピピッ、ピカッ。マサキの背後で電子音が鳴りライトが光った。マサキアパートの非契約駐車場に、既に着いていた。
 パワーウィンドが下りて「おやすみ」「おやすみなさい」。彼女のPOLOを見送った。
「また次があるかな」
 お地蔵さんは、常に微笑んでいる。
 彼女が「おやすみなさい」の後に言った、
「また、きてもいいですか?」
 彼女に特別感じたことじゃない。過去、マサキに「また電話してもいいですか?」「また遊んでくれますか」、「また~してもいいですか?」と言った女性は何人かいた。
 往々にして「また」はなかった。
 触れれば折れるような彼女を前に、何もできなかった自分をマサキは嘲笑(わらっ)た。
 彼女を助けたいのか? それとも自分のものにしたいだけか?
「つまらないことを迷っているな、わたしは」
 ふぅ、と溜息を残して歩き出した、と、慌てて戻って「おやすみなさい」とお地蔵さんに頭を下げた。
 助けたいのか、手にしたいのか。
 迷った挙句、マサキは〝何も〟しない。これまでは、それでもいいと思っていた。
 変わりたい。せめて、彼女のことに関してだけは。
 道を折れてなお、マサキはじっと真っ直ぐ前を見つめていた。
「愛があれば、か」
 その言葉は、そのまま彼女に返そう。
「いや」
 それだけは言ってはいけない、か……。

 蛙たちの声が喧(かまびす)しい。
 木曜日、マサキは風史に呼び出された。あれから八日が経っていた。
 三輪町総合グラウンドは、アパートから南に車で十分ほど。マサキが着いたとき、時刻は二十二時を過ぎていた。
 近くの住所で写真が上がっていたという。挨拶もそこそこ、風史は切り出した。
「捕まったのか」
「らしい」
 猫を殺していた犯人が捕まった、「らしい」というのはトシの情報だった。
 週が明けてすぐ、中学の「裏」掲示板をほとんど一色に染めた話題があった。
 三年のなんとかいう男子生徒が学校にこなくなった。どうやら、警察に捕まった、出頭したという。
 その彼が猫や他の動物を「いじめているのを見た」というような書き込みがどっと溢れたのはその後だ。
 彼に対する、読むに耐えないような書き込みが掲示板を埋めた。
 猫が死んでいることではなく、「捕まった」ということに過剰に反応するのは、大人も子どもも変わらないというか。
「イマドキの若い者は」とか「ワレワレの若い頃は」などと言っても、いつの時代だって「子は大人を映す鏡」ということは変わらない。
 風史とは電話やラインで「報告」も多少の「やりとり」も済ませている。
 直接会って話がしたいと思っていたのは、マサキも同じだ。今夜も風史は黒で決めていた。
「見てくれ」
 風史がスマホの画面をマサキに見せる。そこでマサキは目にしたのは。
「これは」
 昼間の写真である。
 写っているのは、猫。やはり動かない、猫の死体。
 しかしその猫には、どこか痛ましさを感じない。なぜなら、その猫には、花が添えられているから。
「あの夜の」
 三人で花を添えて手を合わせた、あの猫の写真だった。
「誰かが、写真をあげてくれたらしい」
 風史の「リード・ハイマート」に写真があがっていた。
 翌日の昼間にでも、誰かが見つけてアップしたのだろう。
 不謹慎かもしれないが、マサキの顔が笑顔になる。
 あの夜はよくわからなかったが、明るい太陽の下で。
 ――これほど明るく映える花だったのか。
「結局、中学生が犯人だったのか。まだ確かかどうかは、わからんが」
 風史やマサキに確かめる術はない。風史が「まだ」と言ったのは、「これで犯行がなくなれば」という意味であろう。
 二人の車はグラウンド東側の道路に路駐している。道路の西がグラウンド、東側は、田んぼが開けていた。
 六月を目前にする、五月の夜気は生温い。二人は、田んぼの畦に立ち、南を向いて立っている。南も、一望田んぼだった。
 その先の建物は闇に埋もれている。彼らの近くだけ、蛙の鳴き声はやんでいた。二人は、彼らの婚活を邪魔している。
「これでよかったのか、わからない。もっと他にできることがあったんじゃないか、例えば、警察に情報を提供したり、あるいは、他にも」
 マサキには相槌の打ちようもない。それは、独り言なのだから。
 風史が何か言おうとしたかもしれないが、マサキはそれにも気づいていないかのように口を開いた。
「ある本で読んだ、スペインからきた征服者は、原住民に心があるかどうかを知りたかった。原住民は、スペイン人たちの体が腐敗するかどうかを問題にした。原住民たちの持つ『アニミズム』によれば、人間も動物も同じ『人間性』を持っている。違うのは中身じゃなく、姿である」
「どういうことだ?」
 マサキは間髪入れずに答える。
「さあ」
 フッと風史が鼻で笑った。最近本で読んで「面白いな」と思った、それを、ただ言ってみたかった。
 風史は笑顔をすぐに引きしめる。
「いじめられたり虐待された子の心が病むことを、多くの人間はおかしなこととは思わないだろう。そのくせ大人は子どもを治療したがる。心が体を動かしているというデカルト的な発想は、大人にとっては好都合だ。自分たちを『治す(直す)』必要はないんだからな」
「すいません」
「社会が子どもの身体を制約する、どう動けばいいか体に刻み付ける。体が心を決めることだってある、病や怪我の痛み苦しみで心が塞ぐように。あるいは、苦しみを理解してもらえないがために余計に苦しくなるように。今回の子が、果たしてどんな環境にいたのかは、わからないが」
 ――この人は、イジメられていたのだろうか……?
 当然、気安く聞けることではない。聞く気もない。
 風史の過去が、現在の風史を形作っている。嫌な経験も良い経験も、記憶にある事も、ない事も、全てが風史を作っている。全てが風史だ。
 過去を変えることはできない。過去とは即ち、現在だ。マサキが言う。
「心が十分に健康な人間なんて、何人、いや、そもそもそんな人がいるのかどうか。それでも、生き物の命を奪うというのは普通じゃない。それを正当化できる理由、条件は無い、皆無でしょ」
「命を奪うなんて絶対にやってはいけない。ただ、もしそれをすることでしか、いや、逆に、体の健康を維持するために心を歪めなければならなかったとしたら、彼も被害者……、ダメだな、そいつは、彼は罪を償わなければならん、一生」
 人が、猫の喉を切らなければならない理由とはなんだろう。生き物の命を奪わなければならない理由とは。
 その命を奪わなければ自分が生きていけない、という命ではないはずだ。
 野良猫の命を奪わなければならない必然的な理由、条件など、あるはずがない。
 誰の心だって闇を抱えている。闇に囚われてはいけないし、闇から目を逸らしてもいけない。
 人は、その微妙なバランスをとりながら、「境界」という綱の上を渡っていく。バランスを崩せば、悲劇が待っている。
 風史のスマホは、いまだにマサキの手の中にある。リード・ハイマート。
 そこに、マサキの視線をとらえて放さない写真が載っていた。
 一枚は、悲しいが明るい写真。もう一枚は、暗いが心が温かくなるような写真。
 一枚は、夜の空き地で、三つの影がしゃがんでいる、ちょっと不思議な写真だった。
「いい写真だよな」
「いい写真だな」
 もちろんだ。誰が撮ったかは、知らないが……。
 蛙の鳴き声が、二人の人間をすっかり包み込む。姿を見ることのないたくさんの蛙が、二人の影まで隠してしまうようだった。
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