コユキと眼鏡 (7)

文字数 6,010文字

 三の丸の休憩所についた。東の眼下に広がる景色にも夕闇がかかり始める。
 向こうに見える赤木山が、夕日を受けて赤く燃えるようだった。裾野は長し赤城山。
「俺とコマツくんがこんなふうに二人で散歩するなんて、彼女はきっと想像もしていなかっただろうな」
 幸雄からの返事はない。
 返事がないと、なんとなく偉そうなセリフになる。ちょっと恥ずかしくい。
 マサキは東屋のベンチに座った、幸雄も続いた。
 テーブルを挟んで、二人は向かい合う。二人の他に人影はなし。
 少し、無言が続く、マサキは少し、眠気を覚える。マサキが口を開いた。
「もし、コマツくんが現場にいっていなければ、わたしはきっと彼女が自殺したなんて信じることはできなかっただろう。彼女は殺された、その真相を突き止めるために、まあ、今と同じようなことをしていただろうな」
 マサキのセリフに続いて、幸雄が今度は声を発した、ただし、マサキのセリフに対するアンサーではなかった、やはり。
「神さん、聞いていいですか?」
「はい」
「ブログの最後のほうに、神さんのことが〈大好きでした〉とあった。神さんと美穂、学生時代なんかあったんですか?」
 幸雄はやはり気になっていた。
 マサキも気になっていた。幸雄が気にしているだろうということ、いつ聞いてくるだろうか、ということ。
「いや。一緒に遊んでただけだよ。一時期、かなり、と言っても二人だけじゃなくて、バイトの仲間たちとだったけど、ほとんど毎日遊んでた」
 聞かれた瞬間はドキッとしたが、口から声が出始めると、それは「ホッ」に変わる。
「付き合ってなかった?」
「なかった」
 烏の鳴き声が頭上を通り過ぎた。汗が少しづつ乾いてきた。
「告白されたりも?」
「ないない」
「告白したことは?」
「ない」
「神さんには付き合っている彼女がいた?」
「いなかった」
「ほんとっすか? じゃあ、美穂には、彼氏がいた?」
 夕暮れの中、町を見下ろしている自分が、「あの頃」の自分と重なった。
 高台から見下ろした記憶はあまりない。
 あの頃、マサキはよく一人で川を眺めていた。ときに大学をさぼって、土手や河原で本を読んで一日過ごした。
 彼女と二人きりで、「ここ」にきたい、「ここ」で過ごしたい、きっと彼女も喜んでくれるだろう、そう思ったことは幾度となく。
 現実になることはなかった。
「彼氏はいなかった、て言ってたよ。少なくとも、俺の近くで彼女と付き合っていたヤツはいなかったな」
 幸雄が「じゃあ」と口を開く。マサキには、何も恐がるものはない。
「最近は? 寝てはいないっていうのは信じます。そこまではいかなくても」
「ない」
「……」
「ぶっちゃけ、寝たい、と思ったよ。でも、そんな勇気はなかった。どうせなんとも思われてない、て思ってたし」
 幸雄の顔を見て、一つ、笑顔で頷いた。幸雄は「そうですか」と無表情なままで言った。
「戻ろうか」
「はい」
 二人は立ち上がり、歩き始めた。
 幸雄とこういう話ができたこと、答えられたことが、マサキの中で満足だった。
 自分の中でつかえていたことがとれたようだった。……ちょっぴり、嘘をついた。
 
 城山を巡り、観音堂の階段を降りると、非契約駐車場の前に出る。時刻は既に十九時に近い。さすがに暗い。
「このまま帰ります」
 幸雄は手ぶらできていた。心なし元気がないようだ。疲れたのかもしれない。
 車の横で、じゃあ、と小さく頭を下げた幸雄に、マサキがギリギリ言葉をかけた。
「シェイクスピアの『リチャード二世』という物語中のセリフにこういうのがあるそうだ」
 悲しみは、ひとつの実態が二十の影を持っています。それは影に過ぎないのに、悲しみそのもののように見えます。
 ……正面から見るとただの混沌しか見えないのに、斜めから見るとはっきりと形が見えてくる、そんな魔法の鏡のように、実際には存在しない、悲しみの幻影を見てしまわれるのです。
「どういうこと?」
「さあ」
「え?」
「ちょっと言ってみたかった」
「は?」
「いや。一つの悲しみは、いろいろな所に影を落とす。なんでもかんでもつまらない、うまくいかないようで、実体は一つの悲しみに過ぎない、過ぎないってことはないな」
 彼女の死は、十分過ぎる悲しみだ。
「『悲しみ』という言葉を、『怒り』や、あるいは『迷い』なんて言葉に変えてもいいかもしれない。生活全般を覆う重たいものも、実はしっかり目をこらしてみると、ある一つのものが見せている幻影かもしれない」
「美穂は、俺の彼女は死んだんです。大切な人を失って、悲しくない人間なんていないでしょ」
「その悲しみが様々な幻影を生み出すとしたら?」
「さっきからなに言ってんすか。意味がわからない」
 少しの睨み合いの後、「ごめん」とマサキが謝った。
「一つの悲しみ」が(決して小さくないことはわかっているが)幸雄の生活全てを侵しているように思えた。
 世界が影に覆われているわけではなく、一人の人間が大きな「一つ」の影に入っているだけである、というようなことを(自分は彼氏に)教えたかったのだろうが。
「俺もちょっと口が過ぎたかもしれない。変なこと言った、申し訳ない」
 マサキが小さく頭を下げた。
「すいません、また連絡します」と捨て台詞のように言い置いて、幸雄のBRZは南へと去っていった。
 彼氏の気分を害したことは気にはなる。
 が、それよりも、〝言えた〟満足のほうが大きかった。謝ってもいるし。
 深呼吸一つで心の凹みを埋めると、お地蔵さんに頭を下げ、アパートに向かって歩き始めた。
 観音堂に下りてくる道の暗かったこと。その申し訳なさも重なり、マサキは少し、笑っていた。

 まるで、美穂に怒られたようだった。
 マサキに「すまん」と言わせ、その後の自分の態度。
 マサキの言ったこと、あまりよく憶えていない。
 文字では憶えていないが、どうもムカついた。
 わからないことを言われたことにムカついたのか。
 俄かに、マサキに対する不愉快が具体化した。
 いい気なもんだ。ブログを見てなんのかんの言ったところで、実際の現場で動くのは幸雄だ。
 しかも、同期入社の同僚がからんでいる可能性がある。
 あくまでも可能性ではあるが、それらを確認するのも幸雄の仕事で、責任も幸雄がとらなければならない。
 友の顔を思い出すと、気持ちが萎えた。正直、
 ――いっそこのまま俺も退職しちゃいたいよ。
 美穂が、佐々木と「合わない」と言っていたことをいやがうえにも思い出す。
 付き合い始めた頃から言っていた。彼女は、美穂は、佐々木に何を見ていた、感じていたのか……。
「真相を追い求める」という(脅迫的な)使命感が、ここにきて幸雄を締め上げる。
 あのクソ上司どもは許せない。しかし、そのために乗り越えるハードルは高く、多い。
「いろんなネガティブな感情は、実は一つの実体が見せている幻影かもしれない……」 
 そんなことをマサキは言っていた、ような気がする。マサキがほんとに言いたかったことはやはりわからない。
「大切な彼女(ヒト)が不当にこの世を去った」という事実が全ての元になってはいる。当たり前のことだ。
 そのことが人生全体に影を落とす。どこの国の誰だってそうだろうが。
 エアコンの効く部屋で、幸雄はまたベッドにもたれて目を瞑る。二十時少し前。
 そう言えば、お腹がすいている。そう言えば、昼何食べたっけ。そう言えば、朝は何か食べたんだっけな、そう言えば……。

 目を開ける、スマホ、二十二時二十二分、二並び、ライン受信。マサキから。
 いろいろなことが寝起きの頭に過ぎっていた。
 マサキに謝らせたこと。改めての謝罪か。
 愛想を尽かされたか。あの人だって腹は立っただろう。マサキのアパートで言われたことも。
 ブログのことで何かわかったか。ラインを確認するのが億劫だった。
 一日が終わりに向かっていること、会社に出勤しなければならない「明日」に近づいていることも、幸雄の不快に与っている。
〈メール関係の書類探しに彼女の実家にいきたい。妹さんに確認とりたいんだけど、お願いできるかな〉
 ――あの人、B型か?
 美穂の家族が浮かんだ。重たい、薄暗い、……拒否(幸雄の心理が如実に反映する)。
 立ち上がり、部屋の灯りをつけた。ガラスに映る自分、なんて暗い……。
 明日は仕事だ、大変なストレスだ。
 ハイエンド機の開発を抱えながら犯人捜索など、現実に可能なのか?
 尿意。トイレにいくのに少しふらつく。疲れが溜まっている。
 何もしていない。何もできない。このままじゃ、自分が自殺……。
 トイレを済ませて水を流した。ソファーに戻る。トイレの水音がいつまでも耳に残るほど、この部屋は静かで寂しい。
〈俺たちが彼女のブログを見て犯人を突き止めること、美穂はどう思ってますかね?〉
 皮肉を込めて送ってやった。返事がくる。
〈彼女がそれを望んでいるとは思わない。わたしたちに託したわけじゃないだろう。しかし、わたしたちに失望したり怒りを覚えたりということはないだろう。苦笑いをするくらいで。〉
〈なんでそんな風に思うんですか? レイプされたなんてこと誰にも知られたくないんじゃないですか?〉
 自分の中の不自然な感情に、幸雄自身気づいていない。気づかないようにしている。
〈それはそうだろう。だけど、わたしたちはもう知ってしまった。画像まで見てしまった。ここまできてやめることはできない。〉
〈正直、わからなくなりました。もちろん、星尾や岡野は許せない。けど、だからと言って俺なんかになにができるのか? タイヤが誰か突き止めたところで、それで自分の気持ちが晴れるのかどうか……。もう、このまま終わりにしたほうがいいんじゃないか……。〉
 このままじゃ、自分も壊れそうだ。
 情緒が不安定になっている。うつ病にでもなったら、自分の命さえも危うくなるんです。
 マサキの返事はこれまでよりも遅かった。
〈コマツくんがやめたいと言えば、わたしにはどうすることもできない。きみのつらさは、わたしなどには到底理解できる範疇にない〉
 ――はん……、読めねぇんだよ!
〈けど、妹さんの連絡先は教えて欲しい。わたしはここで退くつもりはないから。〉
 ――あんたは、なんでそこまでできるんです!
 幸雄は電話をかけていた。マサキはすぐに出た。
「なんでもうやめたほうがいいって考えないんすか? 美穂のパソコンのぞいて、メールボックスまでのぞいて、そこまでする資格が神さんに、俺たちにあると思ってるんすか?」
「さぁ、どうかな」
「さぁ、て」
 やっぱりB型だ、この人。
「わたしは彼女に言われたんだ、昔と変わらないね、て。そんなわたしが『大好き』だって。だから、わたしはわたしであることをやめたくない、やめるわけにはいかないんだ」
 マサキの言葉は、今の(今までの)幸雄には通りづらく。
「わたしは、さんざん逃げてきた、いろんなことから。勉強から、仕事から、社会から、家族から。逃げられるものから逃げてきた。だから、逃げずに済むものからは逃げたくないんだ。できる、やってやるって自分で思ったものからは、もう逃げたくない」
「逃げるとか、よくわかりませんよ。逃げるわけじゃないでしょ。彼女の知られたくないプライベートを勝手に覗くことをやめることは逃げることじゃないでしょ。彼女がそれを望んでいないなら」
 電話の向こうは度々静まり返る。幸雄にもわからないけど、わかっている。
 マサキがしゃべり始めるまで、たっぷり時間をかけた。
「わたしは、彼女のことが好きだったよ、美穂ちゃんのことが、好きだった」
 ぐっと、幸雄は心臓を鷲づかみされた。
「相談にくるたびに、仕事なんか辞めちゃえ、彼氏となんか別れちまえって、言おう言おうと思って言えなかった。後悔した。でも、もう後悔してない」
 ――してないのか……。
「彼女の恨みを晴らしたいわけじゃない」
「は?」
 ――だったら、それこそなんのために……。
「またコマツくんは怒るかもしれないが、わたしの中の彼女が、わたしを見てるんだよ。わたしがわたしらしく生きることを、ずっと見てる。コマツくんの気持ち、家族の気持ち、もうほっといてくれっていう思いはわかる。けど、わたしの中の彼女は、わたしの中にいる美穂ちゃんは」
 ――名前を呼ぶんじゃねぇよ。
「わたしがブログ見ながら一人でぶつぶつ言ってる姿を見て笑ってんだよ、そんな気がするだけだけど。だから、わたしはもう止まることはできない。彼女の言葉を、全部受け止めたい、受け止めなきゃならないんだ」
 ――なにかっこいいこと言ってんだ、このおっさんは!
 ついさっき「後悔してない」とか言ってたくせに。
 ――俺だって! 俺だって、俺は、俺は……。
 見えない、自分の姿、本当の、自分。
 一番大事なものを失った、そう思っていた。自分は、世界で最も不幸で悲しい人間だ、そう思っていた。
 生まれてから二十数年、やっと巡り合えた運命なら、失った「愛の落差」は彼女の身内に勝るとも劣るまい、奈落の悲しみを我が身に受けてもいい、そう思っていた。
 思い込んでいた。自ら、「影」に隠れていた。
 ――俺の中には「美穂」がいない……。
 声にならない。喉が震えて。頭が、心が痙攣して。
〝失った〟のではない、自分から〝消した〟のだ、自分を慰めるために!
 電話の向こうで「コマツくん? 彼氏?」と呼んだ。
 それは一度きり。
 電話を切ることなく、電話の向こうはひたすら待っていた。幸雄はベッドに顔を押し付けて、声を漏らして泣いていた。

 彼女の「笑顔」を見たのは、果たしていつ以来だ……。
 神正樹は、「笑っている彼女」をいつも見ているというのに……。

 泣くだけ泣くだけ、泣くだけ泣いた。
 およそ五分、体の全てを震わせて、泣いた。泣ききった。
 後には何も残らなかった。
 つかえのとれた喉から、滑るように出てきた。
「いついくんですか?」
「ん? おお、ああ、そう、そうだな、明日か、明後日か、また妹さんの都合を確認して」
「俺もいきます」
「お、おう」
 いかなければならない。
 マサキの中にはいるという。
 幸雄の中にはいない。美穂のところに、いかなければならない。
 妹の奈緒に確認して、また連絡します。
 電話を切った。電話が切れた。
 ラインを確認する。
 マサキから美穂の〈実家にいきたい〉ラインがきたのは二十時三十一分。もしかして、あの人は今夜いくつもりだったのか。
 美穂を失ってから初めて、しめつけていたものが外れたような気分だった。
 生産終了なんて話も聞こえている白色蛍光灯の光の下、全てがキラキラ輝いた。
 電話の向こうの男に負けたくなかった。「ありがとう」そう言って電話を切った、神正樹という、眼鏡の男に、負けたくなかった。
 洗面所にいって、顔を洗う前に鏡を見た。グズグズになった自分の顔を見て、幸雄は声を出して笑った。
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