コユキと眼鏡 (6)

文字数 5,319文字

 春名湖に飛び込む前日の彼女のブログが、一人になるとマサキの頭の中を占拠する。
〈タイヤこそ悪だ。あのファッキン野郎! 「ワイルドの写真もばら撒くぞ」だと! 
 もしかしたら、被害者はもっといるのかも。もうやるしかない……。コユキ、ごめん。もうやるしかないみたい。わたしのこと忘れて、なんて言っても、無理かもね。
 でも、もうやるしかないの。あいつだけは生かしておけない。
 ジョーさん、ごめんね。あの頃、ジョーさんはみんなのアイドルだった。誰にでも優しくて、いつでも笑ってた。みんなでジョーさんのアパートで遊んでたころが、人生で一番楽しい時間だった。
 ジョーさんのこと、大好きでした。もう会えない。ごめん。わがままなわたしで。
 奈緒、お父さん、お母さん、ごめんなさい。わたしの体を餌に、タイヤをホテルに呼び出した。決着をつける!〉
 幸雄に対する謝罪、〈やるしかない〉という文字通り悲壮な覚悟に続いて、マサキのことについて、マサキのアパートで遊んでいたころが人生で一番楽しい時間だった、と書いていた。
 その後に、〈大好きでした〉と。
 その〈好き〉がどんな種類の、あるいは「どっち」の「好き」か、マサキはわかるつもりだ。
 感情が激しく吐露されているようで、書いてあることはきっちりコントロールされている。これはブログではない。
 ――紛れもなく、これはメッセージ。
 手紙。〈大好き〉と書いてあるが、この部分だけを切り取ってもマサキ宛の〝ラブレター〟ではない。
 最も大事なことは〈人生で一番楽しい時間だった〉ということ。それこそがマサキのアイデンティティ。
 自分が弱いことを自覚している、だから、他人に対して強く出ることができない、結果、「優しい」と言われる。
 弱者であるが卑屈にはなりたくない。
 だから、友だちと笑い合った。マサキの近くでは、みんな笑っていて欲しかった。
 そんな中で、美穂と特別な仲になれれば、と思ったことは一度や二度ではない。
 踏み込まなかった部分もあるし、踏み込めなかった部分もある。
 どうせ脈などない、と思えば、やはり踏み込めなかった、のだ。
 八年後、マサキは自分が正しかったことを知らされた。最大級に悲しい方法で。
 知ったときには、絶望的にどうにもならない状況だった。だったら、
 ――前を向くしかない、進むしかない。
 残されたブログを、宛てられたメッセージを、改めて見直した。
〈ワイルド〉という女性に会えれば「犯人」については一気にわかりそうな気もするが、幸雄はそれには消極的なようだった。
「タブー」という言葉を幸雄は使った。
 それは取りも直さず幸雄自身がタブーだと思っているということだろう。
 また、「噂程度」。噂を聞いて回る自分の姿を忌避したのかもしれない。
 実際、男が話を聞きにいったとてすんなり話が聞けるかどうか。
 ワイルドにとって五年という歳月が、果たして長いのか短いのか……。
 ブログに出ている〈クソ野郎〉どもに的を絞ったほうが早いかもしれないし、気持的にもストレートではあるだろう。
 破廉恥な写真で彼女を自殺にまで追い込んだ人間が、このブログによると四人いる。
 二人はほぼ見当がついていた。
「佐々木」に関しては、まだ未確定である。
 問題は〈タイヤ〉と呼ばれる人間だ。タイヤ、と言えば。
「ブリジストンだろうが」
 ブリジストン、即ち、ブリッジ・ストーン……。
 明日、幸雄にラインしてみよう。
 美穂はタイヤを〈殺せなかった〉。会って殺し損ねたのか、それとも会えなかったのか、タイヤが持ち前のチキンハートで危険を察知、会うのを避けたか。

〈EもBwも殺せなかった。タイヤだけはと思ったけど、殺せなかった。ごめんなさい。もう終わりにします。後は、よろしくお願いします。〉

 自分も後を追ってしまいそうな恐怖はあった。マンションで、じっと美穂のメッセージと見つめ合っていた。
 恐い、なんて言ってる場合じゃない。ブログと写真のデータをコピーしてもらってきた。
 神正樹に宛てられたメッセージという言い方もできるだろう。
 しかし、このブログに関しては、きっと「俺」が見ることを想定して書かれている。
 でなければ、単なるイニシャルじゃなく暗号にする必要がないから。〝見られる〟ことを考えないとすれば、わざわざ〝隠す〟必要もないのだから。
 車に乗り込む前にそんな話をしていた。なんでわざわざ名前を暗号なんかにしたのか。
 万が一このブログが幸雄の目に触れたとき、彼氏が仕事しづらくならないように、できるだけ人名を悟られないようにしたかったのではないか。
 ――遊び心であだ名をつけたということも、確かに考えられるが……。
 そう言うマサキの言葉には説得力があった。
 美穂のキャラクターが、社会人になってマイルドになったという意見は同意する。
 ――佐々木……。
 ストレートには聞けない。ブログや写真のことなど話せるはずがない。かまをかける、なんて……。
 この期に及んでまで、こういう言い方、考え方はしたくはないが、
 ――美穂に試されている、のか……。
 あるいは罪滅ぼし。
 どの言葉も不適切だ。まるで幸雄の罪のために、その犠牲に彼女がなった、幸雄を助けるために、彼女が自ら命を絶った、とでも言いたいのか……。
 胃が痛くなりそうだった。頭がおかしくなりそうだった。
 とてもじゃないが、画像を見ることなんかできない。瞼の奥で小さなビンが光った。あの薬を「俺」にも飲ませろ!
 テーブルの上にパソコンを開いてあるが、ソファに背中をどっぷり預けて動くことができなかった。
 目を瞑る。疲労が下半身から上がってくるような感覚はありつつ、眠気が脳みそに囁くことはなかった。
 そのまま朝を迎えた。所々意識はないが、寝た気はしない。
 ――美穂、ほんとごめん、俺がバカだった、もう、どうしていいかわからないよ。
 ――どうすればいい、美穂、俺、どうすればいいんだろう、美穂、美穂……。
 とても仕事などできる状態ではない。「休もう」として電話をとる、今日は「海の日」だった……。
 ソファに崩れると、そのまま意識がなくなった。
 目が覚める。ソファから上半身を起こした。
 しっかり寝た気はあったが、体が汗ばんですっきりとはいかない。時計の短針は十一時から二メモリほど過ぎた頃。
 ――美穂、なんか、おまえの気持ちがちょっとわかった気がする。
 一風変わった黒縁眼鏡、なんだか妙に話がしたかった。

 蝉の声がいつの間にかこれほどうるさい季節になっていたことに、幸雄は驚いた。少し感動した。美穂の喜ぶ顔が浮かんだ。
 彼女と一緒にきたいと思った。それがもはやできないということが、また一つ、幸雄に悲しい現実を突きつけた。
 すぐに心を切り替えた。彼女を前向きに思おうと、幸雄は空を見上げる。
 太陽はだいぶ西に傾いている。しかし、暑さは衰え知らず。もう午後五時にもなるというのに。
 詐欺にでもあったような気分。
 階段をやっと上がり、二〇一号室の部屋の前で、ほっと一息つく。部屋の中にも地獄があることを、このとき幸雄は考えることができずにいる。

 マサキの部屋に入る者は、たいてい入り口でいったんフリーズする。そして、
「ふぅ」
 と、息を吐く、呆れるように、覚悟を決めるように。
 
「仕事終わりにすいません。帰ってきたとこですか?」
「ところでもない、四時過ぎには帰ってきていた」
 パソコンに向かって、マサキは右、幸雄は左に座っていた。扇風機は、ほぼ正面で回っている。
 挨拶がてらの雑談がひとしきり終わると、幸雄が、改めて言う。
「なんでブログなんか残したんだろう。なんでだと思います?」
 マサキは少し考えて、「見て欲しいから、いや」と自信なさそうに小さく言った。
「記号を使った理由というか、彼女の気持ちというかを、ちょっとまた考えたんだ」
「はぁ」
「単純に、まず、実名でブログを書くのがつらかったんじゃないか」
 少し、幸雄の頭の中が引き締まった。「つらかった」という言葉が、わさびのように頭にしみた。
「登場人物を暗号化することによって、怒りや憎しみ、とか、彼氏や助けてくれる人に対する思いをデフォルメ、抽象化して絶望感を和らげようとしたんじゃないか」
 ブログの中で、彼女は幸雄に何度も謝っていた。会いたい、一緒に寝たいなどとも綴っていた。
 幸雄が彼女に対して抱いていた感情とは、真逆。
 今の幸雄には、彼女を追いかけることさえ許可を必要とした。自分には、「薬」を飲んで湖に飛び込む資格もない……。
 幸雄がマサキの視線を求めるように右を向いた。
 マサキは、あえてパソコンから目を離さないようだった。
「彼女は、きっと最後まで生きるために闘っていた。タイヤが、今どういう状況かはわからないが」
 幸雄の中に「?」が浮かぶ。マサキが「それはまあアレとして」ちょっと言葉を濁す。
「コマツくんがきてふと思ったんだけど、もしかしたら、彼女はこうして、彼氏とブログを見ることを考えてかもね。うまく事が収まったときに」
 その一瞬、幸雄の周りから暑さが飛んだ。
 美穂と並んで、このブログを眺める。彼女はきっと、泣いている。そして幸雄に「ごめん」と謝るだろう。
 その上で「こんなわたしじゃダメだよね」と幸雄の顔を見ないで言うに違いない……。
 いや、そうじゃない。彼女はこれを見せて別れるのだ。
 彼女と連絡がままならない間に合コンいったりするような男だ、「これ」を見せられて、心になんの蟠りもなく「受け入れる」ことなどできない男だ。
 もし、彼女が生きていたなら。
 幸雄の心の中に、きっと憤りにも似た感情が生まれたはずだ。
「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ」などと言ってたはずだ。
 そんな言葉は、彼女にとってなんの救いにもなりはしない。彼女は別れる。涙もないかもしれない。悲しく笑うかもしれない。
 一人きりになり、幸雄はきっと彼女を追うだろう。
 もちろん、彼女は会社なんか辞めている。追いかけた先で見るのは、彼女の屈託のない笑顔と、黒縁眼鏡……。
 ――俺は……。
 大きく項垂れる。心臓と胃と横隔膜が痙攣するように、内側から悲しみが溢れ出す。
「神さん、ごめん」
「……」
「俺が、俺が不甲斐ないばっかりに、彼女を、殺してしまった……」
 ――俺がもっと彼女のことを信じてあげてたなら、きっと彼女は死なずにすんだ……。
 隣のマサキが大きく息を吸い込んだ。すぐに何か言うかと思った。
 マサキはそのまま、一息吐き出した。そして静かに話した。
「彼女は自分から死を選んだ。コマツくんが最初に言っただろ、彼女は、辞めることもできたって。でも辞めなかった。闘うことを選んだのは彼女だ。責任を感じるとすれば、死なしてしまったことじゃなく、助けられなかったこと」
 二人にとっての責任。結果は同じでも、「殺した」責任は重過ぎる。それに、
 ――そんなのはあの子も望まない。
 そもそも、「わたしたち」が責任を感じること自体、あの子は望まないだろう。
 ふっとマサキは玄関ドアのガラスを見た。今の二人を見て、
 ――誰よりも後悔してるのは、きっと本人だろう。
「ちょっと、外歩かないか」
 幸雄を促して立ち上がった。
 決してつかむことのできない天国からの光が斜めに差し込む地獄を出て、心も体もリフレッシュしよう。

 夕方六時。城山の影の中を、二人は歩く。
 アパートから歩き始めて十分は経たない。幸雄は軽くハァハァなっている。城山に入るときは、どこから入っても登りになるのだ。
 いくらかは涼しいと言えるのかもしれない。木々の間を体を縮めて潜り抜けるようにして歩く。涼しいよりも、ここは、
 ――なんて賑やかなんだろう。
 蝉の声が降り注ぐ、まさしく蝉しぐれの中にいる。
 しぐれなんてもんじゃない。ざあざあ降りの夕立のようだ。
 歩きながら彼氏と話などしようかと思ったが、無理のようだ。
 ここは、彼らのテリトリー、人間は肩身が狭い。
 この賑やかさを、彼氏はどう聞いているだろう。
 癒しと聞くか、励ましと聞くか、嘲りと聞くか。聞かないか。
 自然というのは「鏡」だ。心の持ちようが、そのまま自分に跳ね返る。
 ――やっぱり、彼女は彼氏に謎解きを望んではいないんじゃないか。
 パスワードをマサキ向きにしたのは、やはり彼氏に見られたくなかったから。
 もしかしたら、パスワードを「直前」に変えたかもしれない。
 美穂がマサキの前で彼氏の話をほとんどしなかったのも、幸雄が「神正樹」のことを微塵も知らなかったのも、きっと、彼女が二人を〝結びつけたくなかった〟から。意識的に、あるいは無意識的に……。
 マサキは少し速度を落とした。荒い呼吸の合間に幸雄が何か言おうとしたが、マサキには意味ある言葉に聞こえなかった。
 彼女が暗号にしたのは、自分のつらさを少しでも和らげるため、そして、マサキに〝何もさせない〟ように……。
「やはり……」
 彼氏と一緒に見る気なんて、彼女にはなかったんじゃないか。
 さっきの発言が軽はずみだったことを後悔しつつ、今ここで幸雄に改めて「やっぱり違う」と言い直すことはできなかった。
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