斑雪(はだれ) (1)

文字数 6,076文字

 ――美穂が少し変だなんて、彼女が異動した直後にわかっていた。

 重たい雪だった。
 三月半ばというのに。道路を白くするほどではなく、びちゃびちゃとタイヤの鳴るのが忌々しい。
 ――車が、汚れる。
「市内は雨だったのに。やっぱり春名だな」
「いちおう市内なんですけど」
 美穂は、ずっと窓の外を見ていた。
 日曜日の午前十時、車は思ったよりも多い。天気の影響もあるかもしれない。
「ほんとに増えてるのかね」
「なにが?」
 彼女の声が直接幸雄の耳に入ってきた。美穂がこちらを向いたのを、横目でちらっと確認した。
「春名(はるな)神社さ」
「ああ。どうなんだろうね」
 美穂の声がまた遠くなった。少し、がっかり。彼女にとっては地元だし、逆に余り関心がないのかもしれない。待ってくれた対向車に軽く手を挙げて、信号を右折した。
 信号を曲がらずに進めば車は春名山へ登っていく。
 山の裾野に建つ春名神社が、近年、パワースポットとして、特に女性に人気があるという。休みの日などは車で渋滞の列ができるそうだ。
 この雪空に並ぶ車の列を想像しながら、車は狭い道をゆっくり走った。
 右折して少しいくと、左手の一角に田んぼが広がる。浦和生まれの小松崎幸雄にとって、普段ならこの辺りの長閑な景色は、自分の子ども時代にはない「懐かしさ」をくれるのだが、この日は、全体が雪雲に押し潰されてチアノーゼになっているようで、こちらまで気が滅入る。
 地表を白くしない雪というのも、何かあてつけのようで嫌だった。
「コユキ、知ってる?」
 彼女は幸雄を「コユキ」と呼ぶ。大好きな漫画の主人公で、中学生の主人公「ユキオ」は、学校に同じ「ユキオ」という名前の先輩がいるため、みんなから「コユキ」と呼ばれるようになった。
 幸雄をその名で呼ぶのは彼女だけであるため、呼ばれると今でも少し恥ずかしい。
「ん?」
「斑雪(はだれ)」
「はだれ? なに?」
「まだら雪。ほら、田んぼが土の部分と雪の白い部分と斑になってるでしょ」
 幸雄はBRZのスピードをさらに落として、左手の田んぼを見た。美穂の黒髪の向こう、確かに田んぼが白黒斑になっていた。
「ほんとだ。それを『はだれ』って言うの?」
「そう」
「そんなのよく知ってるね。そういうの詳しいんだっけ」
「知り合いに教えてもらったの」
 美穂が、幸雄を振り返ってにっこり笑った。それまで鬱陶しく見えていた景色が、一気に華やいだようだった。
 アスファルトに粘りつくタイヤの音を今度は楽しむように、幸雄はスピードを上げずにゆっくりと走った。
 ――彼女の両親に改めて挨拶するのは、もう少し暖かくなってからか。
 漠然と、そんなことが頭に浮かんでいた。

「仕事、大変?」
 ときどき、彼女の視点が宙ぶらりんになっていることがある。以前は、こういうことはなかった気がする。彼女の返事は、やはり気がない。
「うん。やっぱりバリバリ実験とかしてるほうが合ってる」
 実験と言っても、試験管の中で薬品を混ぜて煙が出てくるようなものではない。
 二人はプリント機器メーカーに勤めていた。
 一般家庭よりは企業向け、国内にもシェアはあるが、どちらかと言えば海外でよりポピュラーなメーカーだった。
 実験とは、部品を組み替えたり、電気バイアスを変更したりという、機械的電気的な実験である。
 二人とも入社してからずっと開発の現場にいた。
 扱う機種が違ったために同じ場所で仕事をしていたわけではなかったが、お互いに情報をやりとりし合い、同僚としてはもちろん、ときにはライバルとして頑張ってきた。
 入社してもうすぐまる七年という三月、彼女は品質管理部(QC)に異動になった。
「HH(高温高湿度室)やLL(低温低湿度室)が懐かしいかい」
 HHやLLなど、極端な環境の中で作業を行うのも開発の仕事だ。
「わたし、環境嫌いじゃなかったし」
「へぇ。そうなん」
「だって、あそこピッチつながらないでしょ」
 社内通話用のPHSは、HHやLLなどのクリーンルーム内には電波が届かない。
 休憩中だろうがトイレにいようが、ある意味常に電波に監視されている中で、通常作業範囲内に電波の届かない場所があるというのは貴重である。
 言い訳にもなる。
「確かに。確かに、仕事に集中しやすい。密室だし」
「ね。それに、暑かったり寒かったりっていうの自体、嫌いじゃないから」
 へぇ、と幸雄は言葉にしなかった。彼女の、何かを偲ぶような表情を不思議に見た。
「QCは、退屈」
 彼女の表情が俄かに曇る。
 ――俺が考えてるほど、簡単なことじゃないのかもしれない。
 彼女がまだ今の仕事に慣れていないということはあるだろう。
 QCでは書面を見ながら人と意見を交わすことがメインであり、開発とは内容がまるで違う。
「上司はどう?」
「さいあく」
 苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔になった。
「もう存在自体がハラスメント」と上司に対する不満が噴出した。
 幸雄は少しほっとした。やっと彼女らしさが見えた。
 ――今度のぞいてみるかな。
 彼女の少し不貞腐れた表情も、またいつものように可愛らしく愛しいものになる。

 美穂の異動とほぼ時を同じくして、幸雄は次期ハイエンドモデルのドラムカートリッジ開発を担当することになった。
 美穂のことを気にかけつつ、忙しさにかまけて彼女の職場に顔を出せないまま一ヶ月ほど経っていた。
「だから、こないだ佐々木がLLで連続したときのデータとちょっと違うだろ」
「うーん。印字サンプルちょっと見せて」
「ああ、はい」
 幸雄は持っていたサンプルを佐々木圭介に渡して見せる。
「確かに、かすれも汚れも悪いね。何枚でこれ?」
「まだ二千枚もうってないんだよ。ちょっとわからんだろ?」
「ふむ」
 と言って、佐々木はPC画面にエクセルを開く。現れたデータとサンプルを比べる。
「コマ、おまえだいじょぶか」
「え?」
「根詰めすぎなんじゃないか。顔がさ」
「ああ」
 相槌なのか溜息なのか、自分でもわからなかった。
 さっきから幸雄の顔をちらちら見ていたのはそういうことか。
 ひどい顔をしているのだろう。疲れていることは、幸雄自身わかっていた。
 佐々木が腕時計を見た。「うん」と言ってサンプルを机の上に置いて立ち上がった。「ちょっと休憩いこうぜ」と幸雄の肩を叩いた手は、意外にも力強かった。
 佐々木は、幸雄と美穂の同期であり、異動する前、美穂と佐々木は同じ部署だった。

 八階の窓辺に立つと、空の近さに思わず息が漏れた。青く霞む春名山の麓に、知らず知らず彼女の実家を探していた。見えるはずがないのに。
 建物は八階建てで、一、二階が実験エリア、三階から七階までが事務所や会議室などデスクで最上階が休憩所と室内運動場になっている。
 わざわざ八階までいくのか、という思いを抱えつつ黙ってついてきたが、やはり佐々木は間違っていなかった。
 ときには上から下を見下ろすことだって必要なのだ。
 外気に触れない、こちらは絶対的にガードされていて風を感じることなどない、という条件、状況で、意識は、ほんの一瞬だけ形而上へと近づく。ほんの一瞬、現実を忘れた。
 感光ドラムの材質やトナーのことなど、休憩と言いつつ会話の内容はほとんど仕事を離れなかった。
 冴えない幸雄の顔を見かねたように、佐々木が言った。
「おまえさ、家とかプライベートでもこんな感じじゃないだろうな」
「え?」
 幸雄の頭はすぐには切り替わらない。できの悪いサンプルを思って俯いていた幸雄が、驚いたように目の前の男を見た。その顔を見て、佐々木が苦笑した。
「島方も、いまいち冴えない顔してたよ」
 彼女の名前を聞いて、罪悪感のようなものが幸雄の口を重くする。
 再び気色を失った幸雄を、さらに佐々木が溜息混じりに嘲笑(わら)った。
 帰宅後のマンションを思い返してみる。
「俺が帰るのがいつも十一時近くで、帰って飯食って風呂入って、寝る、て感じか」
 他人の部屋を見るような現実感のなさ。この男、なんなら風呂も入らずにリビングのソファーで落ちていることもある。
 彼女が冴えない顔をするのは、仕事のことだけじゃないのかもしれない。同時に、
 ――結婚しても、こんなものなのか……。
 その考えはすぐに消した。罪悪感が俄かに膨らんだ。
 佐々木が「ふう」と立ち上がった。幸雄も立ち上がり、空缶を捨てた。
 エレベーターが一階から上がってくるのを待ちながら。
「俺は四階に寄ってサンプル見てみる」
 開発部の事務所が四階。
「ああ」
 幸雄がぱっとしない相槌を打つたびに佐々木が笑う。エレベーターに乗ると、佐々木が五階のボタンを押した。
「え?」と驚いた幸雄に、またも笑みを浮かべながら言った。
「QCにでも寄っていけよ。冴えないカップルで、お互いどんなにひどいツラしてるかよく見合ったほうがいいぞ」
 バカなことを、と内心思いつつ、何も言い返すことはできなかった。
「おまえら、やっぱり似てるのかもな」
 なされるがままに幸雄は五階でおりた。エレベーターの中で佐々木がどんな顔をしているかは容易に想像がつく。
 その優しさに「ありがとう」と返すこともできなかった自分が恥ずかしい。
 ――誰も乗ってこなくてよかった。
 そのことが恥ずかしさを増した。
 五階のエレベーターホールからも外は見えるが、当然ではあるが、八階ほどの眺めはない。
 低いということは、それだけ現実に近いということか。今の幸雄にはちょうどいいようだった。
 ガラスに幸雄の顔がはっきりわかるほど映っていないこともよかった。気持ちを落ち着かせるように、綿雲がゆっくり流れるのを少しの間見上げた。

 ――やっぱり、バカなことだ。
 引き返そうかとも思った。彼女に笑われる。笑った顔を想像して、ドアを入った。
 むっと暖気が体を包んだ。ゆっくり歩きながら広いフロアーを見渡した。歩きながら、
 ――彼女の顔を見にきただけなんて。
 何か他に適当な理由を探した。たまたま近くにいた同期に「QCの二課て、どこ?」と聞く。「ああ、右の奥だよ」と顔で教えてくれた。
 ――いない、のか。
「島方さんなら、さっき星尾部長と出ていったかな」
 品質管理部の一角と思われる場所には、幾つか並んだデスクに男が一人座っているだけだった。
「あれ、あいつなんて名前だっけ?」
 その男については後輩だということがわかるだけ。「山木だよ」と教えてくれた。
「(品質管理部)二課の上司は岡野だろ、その上が星尾で、後輩の山木はわけわかんねぇし。島方さんも大変そうだよ」
「ありがとう」
 幸雄は教えてもらった場所へと向かった。

「ちょっとごめん」
 近くで見た山木は、黒縁眼鏡をかけているにも関わらず、眠たそうな目をした男だった。関心のない目を、幸雄に向けた。
「はい」
「島方さんて、いないかな」
 山木の返事は、予想に違わない元気のなさだ。
「今いません」という答えも、まるで見ればわかるだろう、とでも言いたげ。
「どこいったかわかる?」
 後輩で、しかもこういうつまらない男だと思うと、幸雄も返って遠慮がなくなる。誤魔化しの「理由」もいらない。
「はい、いえ、あのOJDにいきました」
「OJD?」
 その答えは意外だった。
 同期の話では、部長の星尾が連れていったという。課長ではなく。
 OJD教育を行うのは部署の先輩か直の上司だ。部長が立ち会うというのは、全くないことはないだろうが。
「ありがとう」
 さすがにこれ以上用はない。
「あの、お名前は?」
「え?」
「いえ、あの、島方さん戻ってきたら、伝えましょうか?」
「ああ。ああ、そうだね、名前は」
「あ」
「ん?」
 山木の視線が幸雄の背後に回った。下手くそな「あっち向いてほい」のように幸雄も釣られる。
「おう。お帰り」
 後輩がピクリとも笑わないのに、幸雄が笑顔を洩らすわけにはいかない。努めてそっけなく言葉をかけた。
 振り向いたそこに、美穂が一人で立っていた。

 ――佐々木の言う通りだった……。
 QCで見た彼女の表情こそ、今まで見たことがなかった。

「珍しいじゃん。どうしたの?」
「ああ、ちょっと、倉橋に用事があってさ。そのついで」
 倉橋とは、この場所を教えてくれた同期のこと。 
 もう少しまともな言い訳を用意しておくべきだったと、瞬間に後悔した。ちなみに、倉橋は肩こりがひどいらしく、よく湿布の匂いをさせている。
「休憩は?」
「今、佐々木としてきたとこ。もう戻らなきゃ」
 時計を見た。佐々木と別れて五分、休憩に出てから既に二十分以上経っている。これから休憩にいくという彼女と、フロアーの外まで付き添った。
 下りのエレベーターを幸雄はやり過ごした。彼女は上へ、さっきまで幸雄がいた休憩所にいくという。
「コユキ、お昼ご飯、一緒に食べれる?」
「うん。食べよう」
「うん。じゃあ、屋上で食べよ。電話するね」
「うん」
 上に向かうエレベーターが二人の前で止まり、彼女が乗り込む。
「コユキ、ありがと」
 扉が閉まるまで、彼女の笑顔に手を振った。他にも人が乗っていた。己の笑顔にも気づいていたが、他人の視線は全く気にならなかった。
 幸雄は非常階段で下まで下りた。

 幸雄が振り向いた瞬間、彼女は、笑顔じゃなかった。視線を一旦下に外し、肩も少し狭くなったようだ。萎縮したように、まるで、見られたくなかったかのように……。
 佐々木の言う通り、いやそれ以上に冴えない表情だった。
 あんな彼女は、まさしくこれまで見たことがなかった。
 星尾と岡野という上司の、噂だけはよく知っていた。淫らな想像が胸をかきむしった。
 もっと頻繁に会いにいかなければ。彼女を守らなければ、そう思うと、少し力が湧いてくるようだった。

 星尾と岡野が有名になったのは今から五、六年前。やつらの部下がセクハラが原因で会社を辞めるということがあった。
 見舞金を払って事を治めたとかいう話で、もちろん会社から正式なアナウンスがあったわけではないが、社内では公然の秘密だった。
 倉橋が「守れなかった」と悔しがっていたのを思い出した。
 佐々木と二人で、倉橋を散々慰めた。
 山木のことについて美穂に尋ねると、彼女の表情がぱっと明るくなったのは幸雄にとって意外だった。
「山ちゃんね、とっつきにくそうに見えるかもだけど、けっこう面白いんだよ」
 飲み会や合コンなどにはほとんどいかないという。
「アキバ好きで、アイドルじゃなくて、なんだっけな、すごい好きな声優さんがいて」
 と、美穂は嬉しそう。
 ――なんで俺がアイツに嫉妬しなきゃいけないんだよ。
 山木を語るときの彼女の笑顔と、そんな彼女を見て平常心を失っている自分がダブルで不愉快だった。
「わりとだいじょうぶそうだね」
 と、幸雄は美穂に笑顔を返した。少しの皮肉を込めて。直ぐに懺悔した。
「それは、わかんない」
 笑顔が、途端に萎れていた。
「ごめん」
 という言葉が、咄嗟に口をついていた。
 元気の戻らない彼女を、幸雄はぐっと抱きしめた。彼女は幸雄に身を委ねる。
 抱きしめる腕に力を込めた。腕の中の美穂は、少し痩せたような気がした。
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