黒い友だち (1)

文字数 6,470文字

 井伊市三輪町は春名山の南麓にある。南北に長く、北側は山を既に登っている。
「もはや『山笑う』という時季ではないな」
 神正樹が、アパート近くのふれあい公園から、春名山を見上げて独りごちた。
 この辺りから北に上がると急に傾斜がきつくなる。周りの景色も合わせて「山に入った」という感覚が一気に強まるだろう。
 四月も中旬になる。暖かく晴れた一日だが、山や木々の緑を見ていると、どうも鼻がむずむずする。
 花粉症の薬を飲んでいなければ、とても山を見て「笑」ってなどいれない。
「山笑う」とは、中国宋代の画家郭煕が絵画の極意を語った画論『臥遊録』中「春山は、淡冶にして笑うがごとく」から生まれた言葉で、時期としては桜が開花する直前辺りという。
 桜もとうに散ったこのタイミングは、さながら「山、笑いすぎて笑い疲れた」といったところか。
 すっかり緑になった桜の木々の間で、昼を前に、マサキは公園のベンチで大欠伸をかまして横になった。
 眼鏡を額に移し、読んでいた本をアイマスクにして目を閉じる。鳥たちの囀(さえず)りがかまびすしい。鶯も随分上手になった。
 因みに、「囀り」というのは季語でいうと春なのだそうな。
 鳥たちの囀りなどは一年中聞こえるが、やはり、繁殖期でもある春には活発になるために、春の季語として妥当なのだろう。
 鳥たちの囀りに耳をくすぐられ、マサキは束の間の眠りに落ちた。木漏れ日が、マサキの体を大胆に染めていた。

 公園からの帰り、道の真ん中に何かが置いてある。
 ――猫……。
 轢死体か。
 黒い外見、アスファルトの上で動かない。
 車がマサキを追い越し、その黒いモノをゆっくりと、踏んだ。
 クシャ。
 それはお菓子の袋だった。袋を手に持って、再び家路を歩き始めた。

 ゴミをこうして道路に捨てることを「自由」と思ってる輩がいるかもしれないが、それは違う。
 道徳法則に人間が従うことができるということが、英知界にも属する存在者としての人間が、自然的原因以外の別の原因を持ちうる、すなわち自由であるということを示す(『ウィキペディア』より)。
 捨てたいから捨てる、やりたいからやる、なんていうのは自由じゃない。
 善悪の判断を自分でつけ、主体的に道徳的行動を選択する自由。
 これが常識のある人間の「自由」ということ、かな。
 目の前に、電線に止まった烏が糞を落とした。
 烏のそれを自由と言うなら、ゴミを道路に捨てていく人間は烏と同程度の英知を持っていると言える。
 いや、烏にとっては「糞を落としたところ」が(人間の言う)便所だが、道路はどう解釈してもゴミ捨て場にはならない。
 ゴミを適切に処分できない人間など、烏に遠く及ばない。烏は賢いのだ。
 ゴミを路上に捨てるなどは、路上に脱糞しているのと同じとみなしてよい、ということだろう。
 うんこたれぞーだ。いや、そもそもうんこたれぞーは……。
 ふと足を止めて振り返る。
 今回は、むしろゴミの袋でよかった。猫や動物の死骸じゃなくてよかった。
 マサキの脳裡に浮かんだ像がある。
 二ヶ月くらい前だったか、仕事から帰ってくるときに見た男の姿。
 黒のパンツに黒いシャツ、黒いコート、頭の頂から足の先まで黒尽くめ。
 長身痩躯、顔の造作まではわからなかったが、一目見て雰囲気が違った。
 雰囲気という曖昧なものではない。
 車で通り過ぎ、バックミラーで見た、男の手に抱かれていたのは。
「猫、の死体、か」
 車の中で呟いた。男は道端の草むらに、そっと抱いていたものを置いた。
 じっと見下ろし、手を合わせた。男の姿は、ミラーから消えた。
 そんな人間を見たのは初めてだった。
 あの人が轢き殺したのだろうか。でなければ、あんな真似はしないだろう。
 痛ましい光景ではあるが、同時に、貴重なものを見た、という思いがあったのは事実。
 こんなことをふと思い出したのは、袋が黒かったせいかもしれない。
 烏も黒か。
 烏から八咫烏を連想する。
 八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークにもなっているが、もともとは神の使いとされ、信仰的な意味を持つ。
 猫の死体を抱えていた男に、なにか神秘的霊的なイメージをつけて記憶しているのかもしれない。
 こんな思考のあったことは、お昼を食べ終わったときにはすっかり忘れていた。

 成美との勉強は二十一時を目安に終了する。およそ一時間から一時間半。
 終わってすぐに帰ることもあれば、少し漫画や本を読んでいくこともある。
 二十一時十五分ころ、アパートの階段をリズムよく上がってくる音。
 マサキが顔を上げてドアを見ていると、すりガラスの向こうに顔が見えた。
「先輩、いるんすか。オナニー中だったら、一旦中止してくださいな」
 成美はじっと漫画に目を落としたまま。ませた中学生だ。ガチャガチャと入り口が開いた。入ってきたのはトシ。
「大丈夫っすか。イカ臭くない、あ、成美ちゃんもいたんだ。こんばんは」
「こんばんは」
 顔を動かさずに返事を返した。帰るかと思ったが、動く気配はない。
 トシがコタツに入る。定位置は愛想のない少女に占拠されているために、マサキの正面に座った。
 こいつの顔を見るのもおよそ一週間ぶりくらいか。
 久しぶり、という感じもするが、それは自分らしい暮らしができている証でもある。
「マサキ、こないだの女の人、だれ?」
「え?」
「女!」
 トシが大きく目をむいた。
 ――やられた。
 やはり不自然だったのだ。多感な中学生女子の内面など自分にわかるはずがないとたかを括っていた。
 およそ己とは無関係だと思っていた。玄関の鍵をしなかったのも、まさかこのためか。
「先週の金曜日だっけ、きれいな人きてたよね。だれ?」
 成美が、やっと漫画を閉じてコタツの上に置いた。整った顔立ちをしているために、感情を殺した表情には、年齢を飛び越えた凄味がある。
「ど、ど、どういうこと? きれいな女の人がここにきたって、どういうこと? 保健所の立ち入り検査? それとも、税務署の取立て?」
 ――なにを言ってるんだ、おまえは。
 取り乱したような大人たちと対照的、中学生は冷めに冷めている。
「だれ?」
 今日は火曜日、土日月と三日間は(思えば不自然なほど)おとなしかったのだが、成美は、きっとトシがくるのを待っていたに違いない。
 自分一人でどんなに厳しく責めても、マサキはうやむやにしてはっきり言わないとわかっているために、この鬱陶しい、「女」という言葉にアレルギーのように反応する男がくるのを待っていたのだ。
 実際、成美だけなら時間的なリミットがあるが、トシには、ない。
 下手したら一晩中ここにいて、ここから仕事にいってここに帰ってくる、ということになりかねない。
「ふー」
 トシに聞かれた時点で、殆ど負けは決まっているのだ。

「彼女は、大学のときのバイトの後輩だ。相談がある、ということでここにきた」
「相談て、先輩、そんなことしてましたっけ? 証拠は揃ってんだ、ゲロしちまったほうがすっきりするぞ。はいちまいな。はけ!」
 こいつの言う「証拠」がいったい何を指すのかは定かではないが、なるほど、周りを飽きさせない面白い男だ。
 きっとこの軽さが、女性を近づけ過ぎないのだろう。黙って見ていたいくらいだが。
「彼女はわたしよりも一つ下だ。バイト先で知り合って、同郷ということもありよく遊んだ」
「俺の一つ上か。ちょうどいいな。遊んだっていうと、彼女との関係は遊びだった、ということ?」
 いったいどんなバイアスがかかっているのか、一遍トシの頭の中を開いてみたい。
 やっぱりやめておこう。
「最悪。汚い。ヘンタイ」
「汚いって……。簡単に話すとだな」
 言葉を選びながら、マサキは話す。

 他県で過ごした学生時代、某ファーストフード店でバイトをしていた。
 シフトはほとんどが遅番、夜八時か九時に入って十二時まで。時間的に、一緒に働いていたのは大学生か十八歳以上のフリーター、しかも男ばかりだった。
 男だけと決まっていたわけではなかったが、時間も遅いし、女性はなかなかシフトに入ってはこなかった。
 あるいは、入ってきてもすぐに辞めてしまった。
「清美」という新人の名前を見て「どうせ可愛い子なんかこねぇって」と期待を押し殺してその日を迎えてみたら、柔道経験のあるゴツイ男だった、ということもあった。
 そんな中に彼女は入ってきた。マサキ大学三年の春。
 もともと夕方から十一時の閉店までということで入ってきたが、いつの間にか十二時まで働くようになった(十時以降は時給が上がる)。
 そして、我々の「むさい集団」になぜか染まった。
 外見は申し分ない。学祭のミスコンにエントリーするほど。
 かといって、外見とは裏腹に、内面は多分に男っぽい気質を持ち合わせていたようだ。
 下ネタだらけ、むしろ下ネタしかない、と言っていい飲み会で同じように馬鹿笑いし、それまで男だけが「落ち着く」と言っていたマサキの部屋に他の男友だちと普通に遊びにきて、やはり同じように飲んで笑って泊まっていくという、豪胆な女性だった。
「最高に楽しい時間だった」
 誰もが彼女と付き合うことを夢見ていただろう。
 しかし、チャレンジするヤツさえいなかった。
 彼女とのその奇跡のような関係を、誰もが壊したくなかった。
 マサキは大学を卒業して地元に帰ってきた。
 バイト仲間との連絡が徐々に疎遠になっていく中で、同じく地元に戻ってきた彼女とだけは連絡が切れずに続いていた。
 と言って、年に数回ラインを交わすだけ、直接会ったりということはもう何年もなかった。

「ざっくり、彼女と俺の思い出話だ。ん?」
 聞いていた二人の表情が暗い、いや、硬い、いや、冷たい。
「まーさーきー。そんなほのぼの思い出話が聞きたいわけじゃねんすよ。今現在、あんたとその美女はどういう関係なのかって聞いてんだよ! コラァ!」
「その女の名前は? どこに住んでんの?」
 彼女と会ったのは五年ぶりくらいか。
 久しぶりに会った彼女、すっかり「女性」になっていた。しかし。
「名前や住所は教えられん」
「は?」「え?」
「守秘義務だ」
「なに言ってんの? 意味わかんないんだけど」
「ただの相談ではなく、カウンセリングだ。わたしと彼女の関係ということで言えば、彼女はわたしのお客さんということになる。彼女の個人情報をペラペラしゃべるわけにはいかん」
 二人の顔つきが少し変わった。険がとれた。幾らかでも察したのか、それとも引いたか。
「客、きゃく?」
 トシの思考=客→お金→体→先輩→鬼畜→風俗→ヘルス→ソープ→売春!
「先輩……」
「なにを考えている!」
「さいってぇ。ヘンタイオヤジ」
「読み取るんじゃんい。いい加減にしろ。いいか、調度よくもないし、いかがわしい相談でもない。仕事上の悩みだ」
「その彼女、彼氏とかはいないの? なんで、こんな人に相談を」
 さっきから「こんな」とか「そんな」とか、こいつの失礼な発言はまるで呼吸するようだ。
「ちゃんと彼氏はいる。が、彼氏にも、身近な人にもできない相談というのもある」
「帰ろ。しょうもない話聞かされて眠くなってきちゃった」
 言葉通り、だるい感じで荷物を片付けると、成美はさっさと立ち上がってドアを開けた。
「おやすみ」
「おやすみ」
「じゃあね、成美ちゃん。おやすみ」

 二人きりになったが、トシは正面から移動しなかった。
 こいつの童顔を見ていると、なにかいろいろ話したくなってしまう。
「もう彼女の話はせんぞ。そもそも、なにか用事があってきたのか?」
「いや、とくに。寂しい思いをしてるだろうと思って」
「寂しい思いなどしてはいない。よし、帰っていいぞ」
「つめた! この人、やっぱり鬼畜だわ」
 高校のときからそうだった。誰からも好かれる。
 要領がいいというだけではない。
 あの頃と大して顔つきは変わっていない。何か、人を引き付ける。
「あったあった。先輩が女の話なんかするから忘れてた。ちょっと話したいことがあったんだ。先輩、まだ猫の死体、片したりしてんの?」
 まさしくしょうもない話を予想していた。虚を突かれた。とともに、何かがよぎった。
「たまにな、車に乗ってて、夜とか、交通量が少ないときは」
 亡骸(なきがら)とは言え、さらしものになっていることを偲びなく思うことがあり、そういうとき、ビニール袋を手にはめて死体を道路脇に移動することがあった。
「ルール」ということでもない。
 はっきり言って気分次第。手を合わせただけで通り過ぎることもある。
 猫を轢き殺すというのは、いったいどういうことか、理解できない。
 マサキも何度か引っ掛けたことはあるが、すぐに車を止めて戻っても、猫が死体で転がっているなどということは一度もない。
 無傷かどうかはわからないが、そのまま歩いてどこかにいってしまうようだった。
 一体、どんなスピードで走っているのか。およそ「英知」を持ったドライバーとは思えない。
「実は、こないだの日曜だっけかな。遊びにいった帰りに見たんだよね」
「日曜日?」
「いや、先輩じゃなくて。なんか、背が高い男の人が、猫だと思うんだけど、なんか道の横の草むらに置いて、こう、手を合わせて頭を下げてるの」
 トシが先輩に向かって、手を合わせて頭を下げた。ほんの少し、優越感。
「服装は、覚えてるか?」
「真っ黒。なんなら、草むらに置いた猫も黒かったかも」
 猫が黒かったかどうかは別として、恐らくあの男だ。どういうことか。
「場所は、どこだ」
「井伊と安藤の境くらい。妙黄のほう遊びにいって、先輩が働いてるところ回って帰ってくる途中。先輩も見たことあるの?」
「たぶんな。二、三ヶ月くらい前だったか。わたしはもうちょっと三輪よりだったが」
「へー。なんなんだろう、役所の人には見えなかったけど」
 烏。黒い烏が浮かんだ。
 映画で烏が死体を突っつくようなシーンもあるが、その男が猫の死体を突っついたりしているわけではないだろう。
 かつて、自分が見たバックミラーの像が蘇る。
 自分で轢いてしまった猫に手を合わせ弔っている、情けのある人間かと思っていたが、違うのかもしれない。
 トシの見た男も手を合わせていたようだが、その立ち姿後ろ姿は、どこか不気味な影を帯びる。
 そこには、何か「意図」があるようだ。何かは想像もつかないが……。
「先輩」
「ん」
「泊まってっていい?」
「帰れ」
「飲みたい気分なんす。ちょと付き合ってよ」
「振られたな」
「夕飯一緒に食べるって約束してたのに……」
「ドタキャンか、おまえは」
 そういうことは、次の日休みのときにやってくれ。
「わたしも明日は仕事だぞ」
 九時からだけどな。
「決まり。ちょっと待ってて。車から酒とってくるから」
 後輩がさっさと部屋を出て階段を降りていった。嬉しそうに。
 ハナからその気できていたのか。
 まんまと彼奴(きゃつ)の思惑通り流されたが、それでもどこか憎めない。得な男だ。
 黒尽くめの男のことが気になった。
 それ以上に気になっているのは、「彼女」のことだ。成美のぶっこみとその衝撃が「彼女」の記憶を生々しく肉付けする。
「死ぬかもしれません」
 それは、言葉通りの意味ではない。抱えている、あるいは背負わされたものに心が押し潰されそうだということである。
 ――ただし、それが言葉通りではないと言えるのは、今だけかもしれない。
 まだ詳しい話は聞いていない。かつての間柄から、大袈裟に面白く言ってみた、というのもあるだろう。
 ――気紛れや冗談であるはずがない。
 直接このアパートを訪れるなど、気紛れであるはずがない。
 彼女の顔は、あの頃と似ているようで別物だった。
 変わったのは中身か。マサキの前だから、辛うじて似ていたのだ。
 マサキは彼女を「客」だと言ったが、それは少し大袈裟だ。
 相談にきた相手を客と位置づけることができるような知識も経験も持ち合わせていない。
 ――できることなら、助けてあげたい。
 カンカンカン、と階段を上がってくる。マサキも少し、酔いたくなっていた。
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