黒い友だち (5)

文字数 8,061文字

「一の線」が蘇る。
「一の線(トレ・ユネール)」とは、自分との同一化。あの切り口、あのクレパスのように危険な裂け目からこちらをのぞく男の顔、引き込まれるような、目。
 ラカンの言葉が浮かぶ、「私は君を愛している。しかし、私が君の中で愛しているのは君以上のものなので、私は君を切り裂く」。
 切り裂く!
 猫の喉を切り裂き、血肉にまみれ、中から出てきた男!
 真っ暗な部屋に、マサキは目を開けた。鍋会から二十四時間以上が経ち、炬燵で爆睡する男もなく部屋は静まり返っていた。
 今日も隣の大学生は部屋にいないらしい。目を閉じると、瞼の裏に浮かんでくる。猫、ナイフ、黒い闇、黒い淵、黒い血溜り、黒い……、男。
 犯人は黒い……、男!
 抑圧。解離性人格障害、いわゆる多重人格。ナイフ、包丁、血液、鍋、魚を、海老を、かじる、地面に横たわる、トシ。
 部屋の外、ポン! カリカリカリカリ。
 ぞくぞくと背中を撫でる。ざわつく体、見上げる、闇の底から、光が差し込む、ああ、今日は十六夜、輿に乗って月に帰らんか……。意識はいつの間に、眠りの中に落ちていた。

 週が明けた水曜日。成美を隣で勉強させながら、マサキは「依存症」の本を読んでいた。
 シンナーの危険性を小学生に教えるために、警察の人が学校にいって、シンナーの原液の中に発泡スチロールを入れて振る。
 シンナーの中で発砲スチロールが溶けるのを「ほら、これが君たちの脳だよ」と言って見せるそうだ。
「キモイ。本読みながらニヤニヤするとかって、マジキモイ」
「ああ、すまん」
 成美は数学の問題に戻る。シャーペンの芯が紙の上を滑る音を聞きながら、
 ――子どもの脳みそが発泡スチロールとは。
 この本に書いてあるが、さすがに小学生もシラケルだろう。薬物依存は家族の中でできた病気だとも書いてあった。
 ――薬なんて、やらんだろうな。
 美穂のことを思った。ラインでのやりとりはたまにあるが、また会って話がしたいと思っていた。
 美穂の彼氏は仕事が忙しいという。それこそ彼氏に「美穂のことを頼む」と言いたかった。
「いたっ!」
「なに飛んでんのよ」
「いや、ペンの先はやめろ」
 頬に穴が開いたかと思った。
「大丈夫だって。血なんか出てないから。また変な想像してたんでしょ。ヘンタイ」
 すぐにヘンタイだのキモイだのと。人をなんだと思って……。スマホが震えた、風史から電話だった。
「はい、神です」
 神さん、今アパートか。
「そうだけど、今から? うーん」
 出てこられないかということだが。
 左を見ると、ぶすっとした顔で成美は教材を片付け始める。心の中で「申し訳ない」と手を合わせつつ。
「大丈夫、いけそうだ、場所は」
 五匹目が、春名中学の近くで出たという。時刻は夜の八時を二十分ほど過ぎている。
 
 春名中学校から西にいく、信号を渡って道は坂道になる。
 パチンコ屋の先を左に折れると文化会館、折れずに道なりにいくと住宅街に入っていく。
 道交法違反と知りつつ、スマホで風史と連絡を取りながら、現場に着いたのは九時近く。そこは、上がってきた坂道をまた右に入った、幅の狭い道路だった。
 車を降りると、外は風が強い。寒くはないが、髪の毛が風に引っ張られるようだ。
 風に隠れるようにして黒尽くめの男の横に立つと、マサキは手を合わせて頭を下げた。
「首と腹。腹は縦に切られている。なぜ、こんなことをするようなクソ野郎につかまってしまうんだろうな」
 風史はずっと俯いて、猫に視線を落としたままだ。
 声はいつにも増して重い。風史の吐き出した重苦しい思いが足に絡みつく。餌でも使っておびき寄せるのだろうか。
「この子、ここで死んでたのか?」
「ああ。むしろ、切られた後動いた形跡があったのは神さんも見たあの子だけだ。切られて、その場で死んでいる。犯人は動かなくなるのを確認しているような気がする」
「喉を切るのは、それが致命的であること、そして鳴けなくするため」
 あるいは、喉か喉に関するもの(例えば声)にコンプレックス、ないしアイデンティティを持っているのか。考えすぎか……。
「ふうさん、こないだ、フロイトの話をしていた」
「抑圧か。俺も専門的に勉強したわけじゃない、ちょっと本で読んだくらいだけど」
「『モーゼと一神教』。犯人にとっての神殺し」
 旧約聖書などに現れる古代イスラエルの民族指導者であり預言者モーゼ。
 有名な「十戒」により、助け出したユダヤの民たちを律し、恐らくはその厳しさから、耐えかねた民たちによりモーゼは殺された。
 ユダヤの民たちは、「父殺し」の罪悪感を鎮めるために、その後も厳しい戒律や禁欲により自らを責め続けた。風史が言う。
「猫を殺すことで父を殺している。逆に、猫を殺すことで、父を殺さずにすんでいるのか」
「猫を殺すことがストレスのはけ口なのではなく、猫を殺した罪悪感によって、父親に対して従順でいられる。親が猫をとても可愛がっている家庭、そこの息子、というところか」
 一瞬考えたようだが、風史はすぐに言った。
「筋は通っているようにも思えるが、しかし神さん、その考えは少し偏りすぎてるように思う。傷つけられた猫や動物が見つかったというニュースはたまにあるが、そういうことを行いやすい人間の親が動物を溺愛しているというのは聞いた記憶がない」
 マサキもない。そもそもそこまで報道しないのか。「親が猫をかわいがっている家庭なんて、断定のしようもないぞ」風史が続けた。「確かに」とマサキは即座に頷く。
 マサキにしても、じっくり考えていたわけじゃない。もやもやしていたものが、ここで突然形を持った。
 風史が相手だから言ってみた。否定されたことで、かえってすっきりした。
 親が猫を大事にしている家の子が猫を殺す恐れがあるから注意しろ、などというのは、乱暴にもほどがある。
 そんな考えは夜風がすっかり拭い去ったかのように、二人は再び現場に〝着地〟する。
 通りに人の気配は少ないが、建物は多い。この季節、盛りのついた猫もいるだろうから、少々の鳴き声などを気にする人はいないだろう。
 ――やはり、気にはしないか。
 マサキのバイト先のパートさんたちの中に、家はこっち側ではないが春中に子どものいるお母さんがいる。
 学校から注意のようなものはあったが、保護者の間では「恐い、気持ち悪い」という程度で、「密かな」問題にもなっていない。
「トシが掲示板を調べてくれた。裏をのぞいてみたが、よくわからんそうだ」
 そういった書き込みがあるにはあるが、
「一言で言えば、ありすぎてわからんらしい。一般の掲示板も当たってくれたが、やはりよくわからんということだ」
 夜空に月はない。風が強いためか、星空はきれいだった。
 星の光は真の闇を作らない。風史の黒衣が闇に浮かび上がるのは周りの灯りのためだが、塀の影に入るように横たわる無残な骸は、命の灯火が消えてからも、星の光を受けてまるで「寝ている」ようだ。
 どす黒い羊水に浮かび、今まさに生まれる、さあ、目を開け、動き出せ、母の胎を切り裂いて。
「警察が動いている」
 マサキの言葉に、風史は驚いた様に。
「警察が?」
「『裏』にはなにもなかったが、『表』にあった。春中のホームページに注意が出ていた。トシが見つけたんだが、わたしも確認した。警察に通報してある、ということだ。警察がどの程度動いているかは、わからんけど」
「てことは、犯人はやはり中学生、か」
 中学のホームページに載せるということは、犯人に対する注意喚起ともとれる。「生徒の中にいる犯人」に対する。
「学校は、犯人をある程度つかんでいるのか」
「どちらともとれる、と思う」
 大した意図もなく載せたのかもしれない、そういう人間が近くにいるから注意するように、と。
「それと、『リード・ハイマート』のことが出ているそうだ。これは『裏』に」
 いい形容のされかたをしていないことが多い、ということをマサキは口にしない。
 風史は動かない、顔もほとんど動かしていない。
「黒」に包まれた男は、一緒に鍋を食べた「真下風史」ではなく、まさに「黒い男」。
「この子はどうする?」
 ここでは土に還れない。
「ここでは土に還れない。車にビニールの袋があるから、それに入れて動かそう。もう少し付き合ってくれないか」
「了解した」
 車に向かう風史の後ろ姿。そう言えば、風史の車は、必ず亡骸の「先」にある。
 風史と風史の車の後ろ姿が、マサキにとって最も「黒い男」らしさを感じる。マサキはしゃがんで、猫に自分を近づけた。
 ゆっくりと手を伸ばし、体に触れる。昼間だったら、きっとこんなことはしないだろう。
 闇は「浄闇」。肉体を隠し、精神を露わにする。
 おぞましい妄想を、マサキは抑えた。「抑える」ことは難しいことではなかったが、抑えるべきものが己の中にもあることを、図らずも確認した。
 戻ってきた黒い男は、ビニール手袋をはめた手で猫を(羊水から)取り上げると、それを袋に(胎内に)入れた。
 その様子を、マサキはすぐ横に立ったまま黙って見ていた。
 風史が立ち上がる、息を一つ吐いた。二人並んでいるのは、マサキと、黒い仮面を外した真下風史だった。
「サイトのことが子どもたちの間で話題にのぼるというのは、どうなんだろうな」
 風史のそれは、まるで独り言のようだ。それはまた、マサキの独り言でもあった。
「俺と神さんが見たあの子のサイトへの書き込みはなかった。それまでの三匹は同じアカウントの人間だった。ひょっとしたらそいつが犯人じゃないかと思ってもいた。年齢は十五歳、自己申告だから、ほんとかどうかはわからない。もしそいつが犯人なら、四匹目も書き込みがあるはずだ。でもなかった」
 そこで一つ息を吸った。灯りに浮かぶ男の横顔が、少し笑っているように見えた。
「今回は書き込みがあった。が、名前は違っていた。書き込んだ人間のアカウントはわかる。三つは同じ、今回は、違うアカウントからだった。これがなにを意味するのかと言えば、なにも意味しない」
 攪乱のためかもしれない。別の人間かもしれない。「意味しない」というより、突き詰めることに意味がない。
 ビニール袋がカサカサと鳴り続ける。そうか、蹴ったのか、早く産まれて、きたいのだな。マサキは風史の左側に立っている。右側の男から、爽やかな香りが流れてくる。時計の見える方、それはわずか南であり、風下だ。
「動くと言ったが、助けたいと言ったが、結局俺にはなにもできない。蝋の翼で太陽を目指すイカロスだ、くたびれたロバにまたがっていきがるドンキホーテだ」
 鎧を着けた男が巨大な風車に向かっていく。風史はやはりナルシストだ。
「皆から笑われないように、俺は、こんなかっこうをしている」
 マサキは剣道部だ、着けるなら鎧ではなく、防具だ。二人の背後を車が通った。二人の車が、さぞ邪魔だったことだろう。
――くたびれた? インプレッサはハイレベルのドッグファイターでしょ。
「道路を背にしていつまでも男が二人並んでいたら、それこそ通報されかねない。移動しよう」
 二人はそれぞれ車に戻った。
「さて、移動するぞ」
 ドライバーズシートに体を沈めながら、マサキは言った。「後に着いてきてくれ」という風史の言葉に従い、マサキの軽はインプレッサを追いかけ始めた。

 道を何度か曲がった。道幅は変わらない。
 もしかしたら、特に目的地があるわけではないのかもしれない。適当な草むらを求めて徘徊しているようだった。
 ――まるで、彼のストーカーにでもなったような。
 颯爽と離れてゆく、ある種の憧れを持って今まで何度か見送った、青いインプレッサの後をずっと着いていくのは、なんだか妙な気持ちだった。

 五分ほど走って、車は山林の際のような場所にとまった。人気はないが、辺りには民家もあり灯りも漏れている。
 バタンバタン。マサキも車を降りて、またしても風史の背中に近づいた。
「神さん、この辺でいいか」
 振り向いた風史の表情が固まった。驚き、あるいは恐怖に近かったかもしれない。
「その子は」
 風史が振り向いた先、マサキの隣には女性の影が。スゥエット姿のこの女性は。
「妹さん、もしかしてむす」
「いやいや、違う。こないだちょっと言った、わたしが勉強教えてるっていう中学生」
「ああ、春中の友だちから聞いたっていうのはこの子か」
 風史の表情が少し和らいだ。成美は黙ったまま、風史の胸の辺りをでも見ているのか。見えてはいないのか。
「ふうさんから電話がきたとき、ちょうど勉強を教えていたのだ」
 
 風史から電話がきたとき、ぶすっとしながら教材を片付けた成美に心の中で謝った。
 ――やけに聞き分けがいいな……。
 言葉にも表情にも態度にも出さないよう気をつけて、マサキも身支度を整えた。
 と言っても、部屋で着ているまま。携帯と車の鍵と財布を持つだけ。
 成美が先導するように、マサキの部屋からゆっくり出た。
 ――先導? まさか。
 階段を降りたところで「すまんな。お休み」と成美に声をかけて車に乗った。
 車の後ろに回る成美の姿がバックミラーに映る、エンジンをかけてシフトレバーをDに入れる、瞬間、助手席から入ってきた。
「どうした?」
 年に一度、あるいは数年に一度あるかないかのとぼけた「ドウシタ?」がここで出た。
「わたしもいく」
 得てして、「どうした?」というのは場の空気を決める「触媒」のようなものか。
「なにをしにいくかわかっているのか? これから、猫の死体を見にいくんだぞ。しかも、お前の知らない男の人とあっちで合流する」
「猫」
「そう、猫、死体だぞ」
「猫が」
「猫が」
「呼んでる」
「……」
 マサキの全身を寒気が走り抜けた。「呼んでる」というのは、成美の能力ではない、ような気がした。
 しかし、生理的な反応はいかんともしがたい。そして、そう言われては、最早車から降ろす術は、マサキにはなかった。
「じゃあ、長野さんに言ってくるとするか」
 玄関に出てきた奥さんは既に寝巻きに着替えていた。
 成美と二人で「少しドライブにいってこようと思うんですが」と言うと、長野さん奥さんは満面の笑みで「気をつけて」と返事をくれた。
 落胆はすまい。信用されている証なのだ。いつも以上に安全を心がけて、マサキは風史の待つ春名中学の西方を目指す。

 なぜ付いてきたのか、道々考えてもみたが、やはりわからなかった。猫の話をしたことはしたが、そのときは特別なこだわりは見なかった。
 連れてきたことは後悔していない。
 風史が袋から出し、草の間に隠すように寝かすように猫を置いた。切られたお腹から、なにか細長いものが出たりもしている。
 それを中学生の女の子に見せることに、マサキは躊躇いも悔恨もない。
 成美はじっと見つめていた。少女の様子を目で確認していたわけではない。
 その場所に漂う空気、「命」あるいは「死」というものがかもし出す空気に包まれて、成美もじぃっと見つめているはずだ。
 なぜ成美がついてきたのか、くるときはわからなかったが、今はわかるような気がした。それは、「悲しみ」でしかない。
 立ち上がった風史が、手を合わせて頭を下げた。
 すぐ傍まできていた二人も、同じように手を合わせて頭を下げた。
 怒りの感情が湧いてこないのは、不思議なことだろうか。薄情な人間なのだろうか。マサキの心を、憐れみだけが満たした。
 わけもなく人間に殺され、顔も臭いも知らない人間に弔われる。人間の身勝手さを、この子は恨むだろうか。
 ――いつでもくればいい。俺が相手をしてやれるわけじゃないけど。
 直接触れたりできないけど、きっと「ひとり」じゃないだろう。男は猫に好かれるらしい。風史がすっと息を吐き出し、形を解いた。
「成美ちゃん、神さん、今日はありがとう。引っ張りまわして悪かった」
 風史の言葉が、マサキに不快であるはずはない。
 ただ、どこか違和感でもあった。初めて目撃したときの神秘的な「黒」は最早ない。
 すぐ横にある「黒」は、身近で暖かくさえある(暖かさは、体毛豊かな猫のふわふわ感とのリンク)。風史に比べて、マサキのほうがずっと己を隠している、ような気がする。
 ――相変わらず、自分は卑怯な人間なんだな。
 罪悪感に近い。
 違和感の理由は、ほんとは自分の中にある。同じようなものだと思っていた仲間が、実は自分よりも正直だった。
 即ち、優しく強い、ということだ。
「正直、自分のやっていることの意味がわからなくなった。これがいったいなんなのか、なんになるのか、誰のために、誰かのためになるのか。なにかのためになるのか。はっきり言って、今の自分には自己満足すらない」
 マサキは、必死に脳の言語野を絞った。「そんなことは誰にもわからない」とかいう文字が浮かんだが、検閲を通過して口の中まで出てくることはなかった。「無言」が正解なのか?
 と、成美が二人を離れた。しゃがんで、黒い草の中に手を入れる。カサカサという微かな音がして、立ち上がる。
 手にしてきたのは、数本の黄色い花だった。無言で風史の前に入り、そこでまたしゃがんだ。
 ――花を……。
 思わず、マサキの胸を熱いものが込み上げた。
 よく見ると、闇に塗り潰されてはいるが、草の間には花がたくさん咲いていた。脳が無駄に活性化してしまう前に、マサキも花を摘んだ。
 成美の前に眠る猫の上にマサキが花を差し出す、成美の向こうからも花が置かれた。
 六つの瞳と六つの掌が閉じていた。三つの体と三つの心が、閉じていた。
 そこは山林の際、三つの背中は、まるで山に向かって頭を下げているかのようだった。
 五月の夜風に木々が激しくざわめいた。山が、嗚咽するかのようだった。
 
「一刻も早く、犯人が止まることを願う」
 春名の夜は、そんな風史の言葉で幕を閉じた。
 子どもの頃、蛙を潰したり毛虫を叩き殺した経験のある人間がいるだろう。マサキは毛虫を棒で叩いていた時期がある。
 蛙や毛虫から、いきすぎて猫や犬を傷つけてしまった人もいるかもしれない。
 今、春名で起きていることは、そういうこととは根本的に違う。
 多くの人は成長するにつれてそういう行動は止まる。「命」を尊ぶ感情や、また親や「世間体」を意識することによって止まる。
 春名のシリアル・キラーは、果たして止まるのか。年齢ははっきりしないが(恐らく男性であろうが)、まだ十代だとして、この行為は止まるのか。
 どうやったら止まるのか。
 マサキの頭には、このことを考えるとき、二十年以上前のある事件のことが浮かぶ。
 当時の記憶ではなく、ネットや本で見たり読んだりして知ったことだが。
 もし仮に、「犯人」が〝猫を殺している〟のではないとしたら。〝人を殺してしまう〟という幻想を鎮めるために猫を殺しているのだとしたら……。「親が」とか「猫を」とかいう文脈ではなく、「人を殺す」ことの代替として、猫の命を裂いているだとしたら……。
「一の線」の中に自分を見ているのだとしたら。その裂け目の中にしか、自分を見出せないのだとしたら。
 今すぐ止めてあげなければ、最悪の事件になりかねない。
「彼も被害者だ」などと言うつもりは毛ほどもない。彼は加害者で、犯罪者だ。
 一刻も早く、そのことを彼に突きつけ、罪を償わせる。あるいは、治療を施す。
 罪の意識はある。やってはいけないことをやるからこその悦びなのだ。
 止める、助ける、と言って動き出した。鍋までつついたのに。実際、「自分たち」にできることなどほとんど何もなかった。
 仕事の帰りはいつも回り道をして帰った。風史もそんな感じだったろう。
 張り込みなどしている余裕(物理的な、いや、むしろ精神的な)はマサキにはなかった。いったい、どっちが「言い訳」だ……。
 徒に日々が過ぎていく。重力が大きいほど「時間」の進みは遅くなるという。
 これほど気持ちが重たいのに、時の刻みは変わらないようだ……。
 五月ももうすぐ終わるというのに。

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