二〇一号室の先輩 (4)

文字数 4,556文字

 日曜日も夜の十二時に近いころ。
「じゃあね、先輩、また連絡すっから」
「失礼します」
「ああ」
 ドアを閉める。階段を降りる足音、二人の話し声、アスファルトを歩く音が徐々に小さくなり、消える。「ふー」と一息吐き出した。
 この静けさ、ひどく懐かしい。
 窓を開けて夜の空気を吸った。春名山のすぐ麓にあるこの町でも、ようやく夜気が温くなってきた。
 新月だ。夜空に月はない。星もまばらだった。
 金曜の夜から昨日土曜、そして今夜。久しぶりに「日常」に戻ったようだ。
 仕事が終わって、アパートに帰ってきたのが夕方の六時半。二人はいない。
 佐藤のモトカノの友だちをつてに目的の場所情報を入手、これから敵情視察にいってくると、昼過ぎにトシからラインがきた。
 朝、出るときに鍵を渡してきた。二人がいない、ということは鍵がない、ということは、部屋に入れない、ということは……。
 階段を二階に上がらず、一階、ちょうど二〇一号室の真下の部屋のベルを鳴らした。
 この部屋には長野さんという五十歳を過ぎた夫婦が暮らしている。このアパートの管理人さんでもあり、普段から親しくさせてもらっていた。
「こんばんは。すいません、友だちに部屋の鍵を貸してしまって。そいつらがまだ帰ってこなくて、ちょっと早いけど、いいですか」
 上がることを快く許してくれた。長野さん奥さんは、眼鏡と笑顔がよく似合う。

「食べてすぐ寝ると牛になるぞ」
「ウシオヤジ!」
 食後の一眠りを、長野おやじさんと成美にからかわれ。
 部屋主が一階の長野さん部屋から上がってきて「おじゃまします」と言いながら灯りと話し声の漏れる自分の部屋に入ったのが九時ころ。
 雅人のモトカノは今磯崎にいるという。酒井市の東に隣接する。
 彼女の「幽閉場所」まで、雅人のアパートからだいたい三十分ほどだそうだ。
「彼女はいたのか」
「人間は確認してないけど、車はあったって。な」
「はい」
 佐藤が力強く頷いた。彼氏の車もあるだろうから、駐車場は二台分あるのかもしれない。
「暫く待ってたけど、結局確認できなかった。な」
「でも、車は間違いないんで、場所はあってると思います」
 二人の話に頷きながら、一つの「疑問」が浮かぶ。
 そもそもなぜ、そんな回りくどい真似をしたのか。
 アパートの場所を、彼女に電話で聞くことはできなかったのか。直前で「前例」があるにも関わらず。
 彼女と直接「つなぎ」をつけなかったのは、なぜ?
「佐藤くん、直で彼女と連絡とることはできないのか?」
 つなぎがつかなければ、結局この作戦会議自体無意味だ。
 彼女の生活パターンから彼女が高い確率で一人の時間、あるいは場所を特定できれば別だが……。
 しかし、なぜ今、この疑問なのか?
 佐藤が顔を少し伏せて、唇を固くしたように見えた。それを見た瞬間、打たれた。なぜ。
「断られたら、もういけないような気がして……」
 佐藤は、少し笑っているようだ。
 ――バカめ。わたしだって気づいていたんだろうが。
 最初から、聞かずともわかっていたはずだ。
 短絡的にことを済ませようとした、自分を恥じた。
 一人の男に、自分を笑わせるようなことをしくさってから!
「直接家の場所なんか聞いたら、教えてくれないかもしれない。こいつの性格は、俺よりも、ひょっとしたら雅人本人よりよく知ってる女性だぜ。先輩もそういうことわかんないと。早く彼女見つけたほうがいい。なによりの勉強になるよ」
 返せる言葉はない。
「奪い返しにくるとは思わなくても、場所なんか教えちゃって、雅人がちょいちょい家の近くに出没するようになるかもって考えたら、恐いじゃん」
「んなことしねぇって。そんなこと……」
 そう言いながら、こっそりアパートを張り込む自分を想像したろうか。
 少なくとも、アパートの前にいることは想像したに違いない。
 一人かもしれないし、あるいは、三人かもしれない。
 もしかしたら、プラス一匹かもしれない。
「ほとんど誘拐だな」
「いまさら『辞める』なんて言わせないっすよ。鍋だって食ったんだし」
「抜ける気などはない。いずれにしろ、最後の一発、電話をする必要はある。大丈夫か?」
 カレー鍋に牛丼二杯、随分高い食事になったものだ。
 冷蔵庫が鳴っている。ベランダの外でポコンと空のペットボトルが鳴った。
 この部屋では、シリアスなドラマは撮れない。隣に住む学生の部屋が静かなのがせめてもの救いか。
「そこまでいって電話したら、きっと外に出てきてくれると思います、部屋に彼氏がいたとしても」
「うむ」
 真面目な佐藤を見て、ふっと笑いが込み上げてきた。昨日の夜の佐藤を思い出した。
 どっちが本当でもない。
 昨日は「意外」な気がしたが、今は、昨日も今日も連続していた。
「インディペンデンスデイは」
 突然、トシが口走った。
 インディペンデンスデイ?
「インディペンデンスデイは、明後日火曜日!」
 童顔を強張らせて言い放った。「こっちの都合で変更になることもあるから」先輩よろしく、という「但し」がくっついた。いったいなんの独立やら。
 ちょっとした取り決めを話し合い、それからだらだらとしょうもない雑談に誰もが飽いたとき、長い週末が終わった。
 なぜ火曜日なのか。その必然性は、先輩が知ることはなかった。
 俄かに間の抜けたような二〇一号室の窓から夜空を見上げる。
 なんだかんだ、楽しんでいる自分がいた。こういう刺戟は、なかなか味わえるものじゃない。
 トシの「彼女を作れ」という言葉が浮かんだ。ちょっと前にも誰かに同じようなこと言われたような……。
 スマホが鳴る。ラインが一件。
〈バカ! 変態! 死ね!〉
 文字の後には奇妙な顔文字が付いていた。
 絶対死なん!!
 と返してやった。
 コタツに戻り、PCで野球を流しながら、本を開いた。
 結果は知っている。勝利を収めているが、大事なのは内容だ。
 PCでホークスの試合を観る。これこそ無類の楽しみなのだ。

 佐藤雅人のモトカノ、名前はアヤちゃんと言う。
 年齢は佐藤と同じ二十七歳。もともと山形の生まれで、付き合っていた彼氏と一緒に出てきた。初めて出てきたのがなぜ渋河かというと、それは単なる偶然らしい。
 今は磯崎市内の会社で事務をしていて、夕方には帰ってくる。
 彼氏は、よくわからない。会社員で、残業などもあり、帰宅時刻は必ずしも一定ではない、と思われる。あくまでも推測だ。
 トシの言う「インディペンデンスデイ」は当初の話通り火曜日になった。
 二人の仕事が終わり、マックで食事を済ませ、クラリスのいる「カリオストロの城」に着いたときは夜九時近かった。
 城の周りをぐるっと回って、駐車場が見える場所に待機する。
 佐藤(ルパン)が運転、助手席にトシ(次元)が座り、後部座席に五右衛門先輩。
「よし、雅人、電話だ」
 と言われて、すぐに電話がかけられる人間でない。この躊躇いこそが人の本質だ。
「もう少し様子を見よう」
「バカ。兵は拙速を貴ぶ、という言葉があるのを知らんのか」
 ――なんと、こいつの口からそんな言葉が出てくるとは。
 驚きだ。
 兵は拙速を貴ぶ。
 中国「孫子」の言葉である。
 兵は拙速を聞くも、いまだ巧久しきをみず。
 戦いを長引かせて成功した例を見たことがない、ということだが、「完璧に近い準備」がなされていることを前提とする。
 それなりに準備はしてきているが、いかせん、敵を知らなさ過ぎる。
「このまま言い合っていても埒があかん。電話を貸せ、俺がかける」
「今日も彼女の車しかない。出かけてるかもしれないんだから」
「彼氏がまだ帰ってきてないだけかもしれない。一緒だったら一緒だったで、向こうがどうにかするだろう。とにかく、かけろ」
「ちょっと待てって」
 後部座席の五右衛門は黙ったまま。
 トシの言うことにも理はある。長引けば「士気」が萎える。
 ビールの一本も飲ませれば、と思って外を見た。眼鏡の縁がきらりと光った。
「誰かいる。彼女の車の隣だ」
 さっと緊張が走る。前の二人も揃って外を見た。
 空いていたスペースに車が止まり、誰か降りてきた。二人。
「どうだ?」
 トシの問いに、佐藤が「たぶん、彼女」と答えた。
 苦しいのか、恐いのか、不安なのか。
 後ろから佐藤の表情は見えない。が、「彼女」の表情は見えた。
 男と二人並んでアパートに入っていく彼女の顔は、確かに、笑っていた。
 雲に覆われた空から、つい二時間ほど前まで弱い雨が落ちていた。
 雨に洗われた空気と濡れた足元に灯りが映りこんで、アクアの窓からのぞく世界は、なんだかとてもキラキラと輝いて見えた。
 
 二人の男女がアパートに消えてからの時間はそれなりに経っている気がした。それでも五分は経っていまい。
 佐藤が小さく息をはいた。多分「帰ろう」と言いたかったのだろう、口が動いた。
「もういいだろう、電話しろ。そろそろ部屋に戻って一息ついたころだ。時間が経てばシャワーなり浴びてしまうかもしれない。今こそ好機!」
「今の見ただろう。彼女の楽しそうな顔、きっと」
「お前もまだ女性という生き物がわかってないな」
 佐藤の貧弱な言葉を、トシが噛み砕いた。
「魔性だ。甘く見てはいかん。女は魔性。あるいは量子論と言っていい」
「りょうしろん?」
「原子の状態は、測定したときに決まる。猫のパラドクスだ」
「ねこ?」
「そう、猫だ。女性もそう。ぶつかってみなければ本音はわからない。ぶつかることで彼女の本気を引き出す。ね、先輩!」
なるほど。「拙速」も「量子論」も、二〇一号室にある本からの引用か。
 シュレーディンガーの猫のパラドクス。
「佐藤くん、猫を逃がして、そのあと彼女から電話がきた。単なる偶然と思っているかもしれない。あるいはそれ以上のなにかを感じているかもしれないが、そう、これは必然。偶然という必然なんだ」
 後部座席で、ふんぞり返って話すわけにもいかず、ぐいと運転席と助手席の間に顔を突っ込んでいる姿は、「どんだけ話したい人だよ」という体で、あまりかっこのいいものではないが。
「彼女からの電話がきて、その後またヒイロを逃がした。そう逃がした。佐藤君の不注意ではない。君はヒイロを逃がしたのだ」
 本当は二回目にヒイロが抜け出したときに言ってやるつもりだった。
 このままでは何を言いたいのかわかるまい。佐藤もトシも、そして言った本人も。
「彼女からの電話の後、ヒイロを〝逃がす〟ことで君は彼女との別れを再現した。逃げたヒイロを彼女と一緒に探すことを無意識が望んだんだ。これは単なる偶然ではない、偶然ではない!」
 二回繰り返した。佐藤はじっとスマホをみていた。駐車場の向こうの県道をエンジン音が駆け抜ける。割と交通量は多い。
「ヒイロは彼女であり、また君と彼女の関係そのものでもある。逃げたヒイロを必死で探している時点で、『答え』は明白」
「三ヶ月」と「ヒイロ」という彼女の側の関係もあるのだが、ちょっと言いそびれたようだ。
 車内の空気が佐藤の手元に引き寄せられる。
「ラインしてみます」
 返事はすぐに帰ってきた。
「男が今シャワー浴びてるそうです」
「よし、今しかねぇ」
 とトシがけしかけるより先に、佐藤は電話を耳に当てていた。電話が、つながる。
「もしもし、こんばんは、ごめんねいきなり、実は」

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