斑雪(はだれ) (3)

文字数 6,196文字

 ――もう少し待ってくれ、だって……。
 それは、本来「俺」が言うセリフじゃないのか。
「俺」の今の状況は彼女だってわかっているだろ。「辞めたい」ようなことを言って、まるでプロポーズを誘っておきながら、「もう少し待ってくれ」とは。
 ぎくしゃくするなという方が無理だ。彼女を助けようと思ったから告白した。もちろん、愛があったから、いや、今でも愛している。
 愛しているのか?
 ――彼女は、俺のことを……。
 ある程度までは時間が解決してくれる。大地震でできた活断層だって、時とともに草花に覆われて風景の一部と同化していく。
 幸雄が、彼女の「言葉」を言葉通りに受け止めるまで、それほど時間はかからなかった。
 あの部署で、あの二人の下で働くことの苦労というのは相当なものなのだろう。
 幸雄は待つ覚悟を決めた。
 それは即ち仕事に今まで以上に打ち込むということであり、彼女を今までよりも「一歩退いた場所から」見る、思うということだった。
「彼女にプロポーズしたよ」
「で、なんだって」
「保留。もう少し待ってくれってさ」
 佐々木に告げたのは、余震も静まり、少しずつ復興に向かい始めた頃だった。「そうか」と、佐々木はやはり多くを求めない。親友の存在を、幸雄は改めて思った。

 美穂は、佐々木とはいまいち「合わない」らしい。いまいち「面白くない」のだという。
 山木と比べれば、なるほど、癖はないかもしれない。男と女で見方が違うのか。幸雄にとって、不満であるとともに新鮮でもあった。
 いや、正直、不愉快だった。
 彼女に佐々木のよさをわかってもらうよう努力したこともあったが、それは不成功だった。
「いい人なのはわかる。でも、なんか面白くないのよね。仕事もできるし、いい人なんだけど。いまいちわたしとは合わないみたい。理屈じゃないのかもね」
 彼女ははっきりと、彼氏に向かって彼氏の親友のことをそう言った。
 彼女と付き合い始めたのは、今から四年前の九月だった。
 幸雄のいる開発一課が、佐々木の開発二課と共同でプロジェクトを進めることになり、その直前、彼女が二課に異動してきた。
 彼女のことは、入社のときから噂になっていた。事務方ではなく、実験部隊に配属になるということで、男どもは余計に盛り上がった。
 飲み会や遊びなんかにも、誘えばほとんど出てくれた。かわいいのに誰とでも分け隔てなく付き合う彼女に好感を持たない男はいない。
 彼女を真剣に狙っていた男は同期ばかりではなかった。「食事に誘った!」「いい感じだった!」「だめだった」。そんな男たちを幸雄は何人も知っていた。
 幸雄はと言えば、それほど気にはしていなかった。端から相手にされると思っていなかった。
 仕事以外には、居酒屋でバカな話をして笑い合い、愚痴を言い合う仲間がいればそれでよかった。
 佐々木は、そういう意味で幸雄にとって理想的な友人だった。
 院卒で、同期ではあるが歳上で、時に先輩のように、時には兄のように幸雄の話を聞いてくれた。
 一課と二課ではあるが同じ開発部でいろいろ接する機会も多かったし、話しやすかった。彼の言葉は聞きやすかった。
 美穂と付き合い始めたことを最初に話したのは佐々木だった。
「マジかよ。俺も狙ってたのに」
 真面目に悔しそうな顔をしてくれた。すぐにいつもの柔らかい笑顔に戻って。
「おめでとう」
「ありがと」
 彼女と付き合い始めた幸福感が、佐々木の言葉で膨れ上がった。ほんとうに実感を得たのはその瞬間だったかもしれない。
 彼女の口から「合わない」と聞いたときは、正直ショックだった。
 だからと言って「どっちかを取る」などと割り切れるものじゃない。
 佐々木と三人で食事にいった後、幸雄のマンションで「もうちょっと楽しそうにできないかな」と言ったことがあった。「ごめんなさい」と彼女は謝った。
 彼女がわからないはずがない。
 なるほど、理屈じゃないのかもしれない。そういうことは誰にだってあるだろう。
 ――俺だって、そういう人間がいるんじゃないのか。
 すぐには思い浮かばなかったが、これ以上、佐々木のことで彼女にストレスを与えることはやめようと思った。
 どちらかと言えば、理解を求めたのは佐々木の方にだったかもしれない。
 親友と馬が合わない彼女と付き合うこと、彼女に「面白くない」と言われる親友と付き合うことは、幸雄自身多少のストレスを感じることはある。
 時々。でも。
 幸雄が変な気を回さなくたって、彼女と親友は同期だし同じ部署の同僚だ。二人が笑顔で話す場面を見たこともある。
 彼女と親友の間にはグレート・リフト・バレーほど大きな溝があるわけではないだろう。小さな溝でだ、が、決して埋まることはない。
 彼女が五階へ異動して、心配だったし悲しかったが、それで佐々木とまた遠慮なく話ができるようになったことを、心のどこかで喜んだとしたら、彼女は怒るだろうか。

 美穂と、少しずつ離れているような気がしていた。
 五月三十一日は幸雄の誕生日。一緒に食事をして、カラオケいって、帰ってきてケーキを食べた。
 彼女からのプレゼントは新装版『バリバリ伝説』全巻セット。
「バイク好きなんだっけ?」
「バリ伝、最高」
 夜、セックスをする。極端な言い方をすれば、ダッチワイフを抱くようだった。気持ちがぶつかり合うということがない。
 ――原因は、俺の方にあるんだろう。
 離れているのは彼女の方だ。その原因は、「俺」にあるに違いない。
 六月に入るとすぐ、彼女はマンションにこなくなった。
 全然こないわけではなく、こない日のほうが珍しいのだが、そこに何も感じないというのは無理だ。
「おばあちゃんが、ちょっと具合悪くて」
 幸雄の目を真っ直ぐ見返して言った。
 キッチンで、男は女の肩を強く握っている。彼女の祖母は、春名ではなく東隣の安藤(あんどう)市にいる、という。
「もし、なんかあるならはっきり言って欲しい」
「なんかって……」
「俺のことが、もう、そう、好きじゃなくなったとかだったら」
 彼女が唇を固くして少し俯いた。「そんことない」と小さく言ったようだった。
 幸雄は、ただただ彼女の言葉を、視線を待った。
 彼女の唇は濡れていた。彼女の右手が、ウーロン茶の入ったカップをシンクの外に置いた。コンと小さな音が鳴る。
 テレビから聞こえる笑い声。白々しい作り物の「楽しさ」だ。彼女が顔を上げた。少し下からじっと見つめる彼女の瞳が、その顔が、幸雄は好きだった。可愛いはずの彼女の表情が……。
 困ったような彼女の顔に見つめられて、幸雄はどれほど彼女を抱きしめたかっただろう。
 語りたくないならいっそ、唇を塞いであげたい。
 その衝動は、しかし、幸雄を動かさなかった。幸雄は、待った。
「ごめん……」
 真っ直ぐに男の目を見つめて、女が言った。男はそこで、女を抱きしめた。
 ごめん。どういう意味なのか、正直わからない。
 何に対しての「ごめん」なのか、幸雄にはしっかり理解できていない。それでも、
 ――待てばいい。
 美穂は、可愛い。性格も悪くない。異性はもちろん同姓からも好かれ慕われている。
 そんな彼女に選ばれた男だ。彼女の言葉を信じて待つ。体の前面で感じる熱いほどの温もりに、幸雄は改めて誓った。
「つらいことがあるなら、なんでも言ってくれよ。もう少し待ってくれ、ていう美穂の言葉、俺、信じてるから、俺は、美穂をずっと待ってるから」
「……うん」
 彼女の黒髪が、胸の中で小さく動いた。
 胸の熱をさらに上げるように、男が腕に力を込めた。女の掌がシャツの背中をぎゅっと絞る。白々しい笑い声が、静まりかえった部屋に空しく響いていた。

「島方がおっさんと歩いてるの見た」
 幸雄にこっそり告げてきたのは倉橋だった。
 正面から見たわけじゃないけど、たぶん島方だったと思う。喧騒の下を通すように、倉橋が低い声で言った。
 イラッとした。なぜそんなことを、しかもさも深刻げに告げられなければならないのか。
 中ジョッキを一口あおって鼻から息を吐き出した。すぐにリアクションをとらなかったのは、アルコールが入っていたから。
 そしてそれが本当に深刻だったから。
「おまえら、最近うまくいってないんだろ」
 それを「認める」ことを「認めない」、鼻息の返事。そんなことを友だちにだって言われる筋合いはない……。
 カレンダーは七月になっていた。
 予定通り六月エンドで新カートリッジの大まかなスペックと問題点を確認することができた。
 ほっとしている暇はない。漸くスタート地点に立ったということ。
 充足感は驚くほど少ない、いや、ほとんどないと言っていい。倉橋に言われた通り。
「いない」ことの不安や悲しみを紛らわすため、仕事に没頭したと言ってもいい。
 マンションに帰っても彼女はいない。彼女はここ最近、仕事でもプライベートでもほとんど幸雄の近くにいなかった。
 会社で会っても会釈だけ。避けられているのか、避けているのか。正面から問うことは、恐かった。
 ――俺のせいだ、俺のせいだ、俺の……。
 どこがいけなかったというのだ!
 プロポーズしたことが罪なのか、失敗なのか。
 彼女のアンタッチャブルにタッチしたというのか!
 彼女から、納得のいく説明は一つとしてない。
 なるほど、新しい男ができたのか。
 おっさんだって?
 二十八にもなってエンコウかよ。
 ……違う、彼女はそんな女じゃない。おばあさんの具合がひどく悪いんだ。
 一緒に歩いてた男っていうのも、きっとその関係さ、黒い服を着ていたはずだ、一緒にいた男っていうのは親戚だろ……。
 ドンと左の肩を叩かれた。「こんなときくらい、もっと楽しそうにしろよ」と明るい声をかけてきたのは佐々木。七月最初の金曜日、仕事が一区切りついたこともあり、幸雄は久しぶりに合コンにきていた。
 断ることはできなかったが、やはり気分は乗らない。
「おまえ、最近五階いってるか?」
「いや」
 左隣に佐々木が体を寄せると、右にいた倉橋が少し離れた。佐々木は少し酔っているようだ。
 親友の明るさを多少でも鬱陶しく感じている自分を、幸雄は諫める。
「確かに、ハメを外せっていうのも無理かもしれんけどさ、今日くらいは酔っちゃえよ」
「ああ」
 相手の女性たちは小学校の教師だという。「今日日(きょうび)の教師は相当溜まってるから」と倉橋がにやにやしながら言った通りのはっちゃけぶり、に、あからさまに引いている自分がいた。
 洋風居酒屋から、この後カラオケ、そしてその後……。
「ごめん、やっぱり帰るわ」
 ジョッキを置いて立ち上がる。佐々木に付き添われて外へ出た。
 出るなり、溜息。中の賑わいは肉体をこじ開けて心に触れる。外の喧騒は、自分からは遠い。
「悪かったな、無理に誘っちまって」
「なに言ってんだ、やめてくれ。こっちこそ盛り下げちまって悪かった」
 暫しの沈黙を挟んで、友が肩に手をかける。温かい掌だった。
「ちゃんと話ししろよ。しっかり向き合え。つらいかもだけど、ちゃんとお前の思いをぶつけろ、島方の思いも受け止めてやれ」
 一瞬、友の視線を求めたが、しかし、顔を見ることはできなかった。「ありがとう」と力なく言うのが精一杯だった。
「だいじょぶか、タクシー呼ぶか」という佐々木の声に振り返ることもできず、左手を軽く上げて構わず歩き出した。

 幸雄は歩いて帰るつもりだった。
 さっきまでビールをどれだけ飲んでも酔えないような気がしていたが、歩き始め、あの場を離れた途端、アルコールが効いてきたようだ。
 ゆらゆらと体が軽い。力が抜ける。理性のたがも、緩んでいる……。
 幸雄は電話をかけていた。日付が変わるまでにはまだ三十分ほどある。
 呼び出しが鳴る、呼び出しが鳴る、呼び出しが、呼び出しが、呼び出し……。
 いつまで経っても彼女を呼び出さない携帯などいらん!
 捨ててしまえ!
 ……、できない自分が無性に情けなかった。感情に任せて、そんなことすらできないとは……。
 自分の人生を呪う。
 いったい、なんのための人生か、なんのための仕事なのか、なんのための。
 もう死んでもいい。
 島方美穂に捨てられるということが、まさかこれほど絶望的なことだとは思いもよらなかった。
今こそ、認めざるを得ない。様々な状況証拠が幸雄の周りを埋め尽くす。
 しかし、そんなものはなんとでもなった。それを眺めて落胆した〝ふり〟をしていればそれでよかった。その後で、自分にだけ「信じろ」と言ってやればそれで済んだ。
 アルコールなど飲むべきではなかった。合コンなど、いくべきではなかった。
 現実の中で、恐ろしい幻想が目を覚ます。幻獣が体を喰らい、心に恐ろしい刃歯(やいば)を突き立てた。
 いっそ噛み砕いてくれればいいのに。
「捨てられた」苦しみと痛み、心にがっつり歯形を残して、幻獣は姿を消した。洞穴の中に身を潜め、輝く三つ目、再び出てくる時機を待っている……。
 部屋に入る。灯りをつけるのが恐かった。
 目が慣れてくると、むしろ「闇」は浮かび上がる。入り口にもトイレにもバスルームにも、キッチンにもソファーにもベッドの上にも「闇」は、染み付いていた。
 部屋の真ん中に立ち尽くした。足の裏の、ほんの小さな場所だけが白かった。闇へ、ダイブ。
「くっそぉぉぉぉ!」
 ベッドに突っ伏してさんざんに拳を打ち下ろした。なぜ捨てられたのか、彼女の言葉が聞きたい。
「待つ、信じている」と自分の中の彼女をずっと見つめていた。もう前から〝そこ〟に彼女がいないことに、とうとう気づいてしまった。
 プロポーズの直後からだ。
 バカにしてる。「もう少し待って」などと言いながら、いったい「俺」に何を待たせたというんだ? 
 バカにしやがって。もう無理だ。こんな夜はもう真っ平だ。
 彼女が何を言ってきたってもう無理、あり得ない。荷物を全部実家に送りつけてやる。これ以上、彼女のことで苦しむなんてバカげてる。
 暗がりで光るインジウム、佐々木からのライン――。
〈倉橋から聞いた。あんまり責めるなよ、彼女も、おまえ自身も。考えすぎるな、一日一人でぼうっとしてみろよ。また飲みいくぞ。〉
 ――サンキュー。
 返信しようとすると、また受信。今度は倉橋から ――。
〈すまん、無神経だった。ちょっと遠いけど、必殺真田の駅前にいいとこできたって噂。今度遠征しようぜ。島方のこと忘れるくらい気持ちいいことしにいくぞ。元気出せよ。〉
 真田駅の駅前通りには、くたびれた男性を癒してくれるお店が並んでいる。
「いかねぇよ」
 二人に感謝のラインを返した。
 はっきり言って、ダメージは大きい。いかなる薬も抗生物質も効かないだろう。
 一瞬前までそう思っていた。ベッドから起き上がるにはかなり時間がかかるだろうと思っていた。
 月曜日に出勤する自分を思い描くことができなかった。
 そんなことはないらしい。早くも幸雄は笑っている。倉橋の言葉に乗せられて、さすがに風俗にまでいく気はないが、
 ――次は、もう少し楽しむか。
 せっかく仲間が……。
 楽になったら突然考えるのが面倒になった。シャワーも歯磨きも着替えもない。
 ――こんなんで寝たら、美穂に怒られる、な。
 疲労とアルコールと友だちからの思い。最強の睡眠導入剤が体内に入る。
 一切の痛みを忘れて、幸雄はぐっすりと眠りに落ちていった。
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