コユキと眼鏡 (4)

文字数 5,951文字

 幸雄が部屋に入ると、マサキは机の前に入り口を向いて立っていた。軽く息上がる幸雄を、まるで見下ろすよう。
 知りたい気持ちと、そして悔しさと。入り混じるその顔に、マサキが言った。
「あえて言わせてもらう。パスワードはわたしの知る言葉だった。このPCの中身は、ある意味ではわたしにあてたものだと言える」
「おい」
「なんだ」
 とは、なんと間抜けな返事か。
「そこに、あったんだな……。俺だって知る権利はあるだろ」
 マサキの視線が幸雄と重なることはなく、まるで「俺とお前は対等じゃねんだよ」とでも言わんばかり、視線は幸雄の喉の辺りから動いてPCを見下ろしていた。
 決して幸雄を見下しているわけではないことを告げる、直後にマサキの苦しそうな表情だった。
「なにがあった」
 ゆっくりと幸雄は近づいた。トシがその背後で部屋の中に入ってこれないことに、幸雄はまったく気づいていない。
 マサキがスッと場所を空けた。幸雄は椅子に座らず、中腰になってマウスに触れる。
 スクリーンセイバーが解除されると、さっきと同じパス入力画面。その画面を見たまま、幸雄は固まっている。
「パスワードは、わたしと彼女が大学時代に一緒にバイトしていた場所の名前だった」
「……」
「アイ、シー、エイチ、」
 マサキの言う通りにキーボードを十数度打ち込む。途切れたところでEnter! エラー。
「おい」
 マサキは一瞬躊躇した。様々言葉が浮かんでは入れ換え並び換え、磨いて傷つけ。結局最後のアルファベット。
「エヌ」
 Enter!
 出てきた、青を基調とした壁紙に並ぶフォルダ。
「サックマイディックてフォルダ」とマサキが言う前に、幸雄はそのフォルダをクリックしていた。
 中にはさらにフォルダが二つとエクセルファイルが一つ。
 二つのフォルダのうちの一つは「POHTO」とあり、中には画像が入っていた。一つを、幸雄はダブルクリック。
 唖然として、椅子の上に落ちた。崩れ落ちた。
「なんだこりゃ……」
「……」
「なんなんだこりゃあ! 神さん、これ」
 マサキは答えない。机に尻をもたれて立ったまま、まっすぐ壁の江口洋介カレンダーを見ていた。
「は」と幸雄の口が閉まらない。
 この写真が「何」であるか、気づいたようだ。
 視界の端で、トシががくっと首を落とした。珍しく、今日の後輩はまともに見える。
「バカ、な……」
 パソコンのキーボードに額を乗せんばかり、頭を抱えてうずくまる。
 フォルダに入っていた写真、さっきまで壁紙に使っていた写真は、美穂。裸の彼女がそこにいた。
 ありていに言えばそれは。
「ちょっ、奈緒ちゃん、まっ!」
 トシのその声に、それぞれ項垂れ俯いていた二人は咄嗟に顔を上げる。
 二人の意外な近くで、奈緒はじっとPC画面を見つめていた。
 
 ドアを閉める。美穂の部屋に幸雄とマサキ二人だけになると、空気はズンと重さを増した。
 その重さが、男たちを動かす力にもなる。先に口が動いたのは幸雄だった。
「まさか、ここまでするとはな……」
「最初にパスワードを解いたときは、この写真が壁紙になってた」
 幸雄の思考が決して根拠のない「飛躍」ではないことを、マサキが裏付けようとする。
「あいつら……」
 幸雄が絞り出した。
 煮えくり返るような激しい怒りはマサキの中にもある。それは激しいが、大きくはない。
 怒りの隣で「彼女らしい」という思いがマサキにあった。こんな写真をネタにされて、彼女はただ泣き寝入りしていたわけじゃない。
 ――臥薪嘗胆。
 薪の上に寝て、苦い肝を嘗めながら反撃を狙っていたのだろう。幸雄が言った「あいつら」を叩きのめすために。
 ありていに言って、その写真は「ハメ撮り」写真だった。
 写真は一枚だけではなさそうだ。何枚かクリックしてみるが、いずれも同種の写真だった。
 今ここで全部を見る気にはなれない。サムネイルは、数十枚にわたって並んでいた。
 幸雄が大きく吐き出し、背もたれを鳴らす。マサキも息を吐き出しながら背筋を伸ばして腕を組む。
 幸雄がちらっと腕時計を見た。PC画面の右下でデジタル時計は二十二時十三分。「あいつ……」という幸雄の言葉が、溜息とともに零れ落ちた。
「どっち」のことを言ったのか、マサキにはわからない。幸雄にもはっきりわからなかった。

 二十二時半に美穂の家を出た。車の近くまで、奈緒だけが見送りにきた。
 三人が車に乗りかけたところで「あの」と口を開いた。
「さっきの、さっきの写真て……」
 奈緒がじっとマサキのほうを見ていたのは、その男の胸に姉のパソコンがあったからだろう。
 妹が何を聞きたいのか、言いたいのか。
 ――どこまで、わかっているのか。
 姉の顔がついていたことはわかっただろう。
 姉が苦しんでいた原因の一端を、恐らくこの妹は悟っただろう。マサキも視線を落とした。鼻から息を一度吐いて。
「お姉ちゃんは望んでないかもしれない。だけど、これは預かっていく」
 そう、よくよく調べたらアイコラかもしれない。悪戯かもしれない。……そうじゃないかもしれない。
 奈緒の俯いた頭が、小さく縦に動いた。弱々しい姿、姉と重なった。
 ――やっぱり、姉妹だな。
 無駄にはしない、きっと真相を突き止めてみせる、美穂の無念を晴らしてみせる……。
 様々な言葉が浮かび、なるべくかっこいいと思われる言葉を選ぼうとした。
 結局、何も出なかった。
「じゃあ」とだけ言って、BRZに乗り込んだ。
 これでよかった、もう後戻りはできない、そう自分に言って、寂しげな妹の姿を、妹から浴びせられた悲しみを納得させようとした。
 苦しそうにじっと正面を見つめるマサキを、シニカルに眺めるもう一人の自分にも気づいていた。

 パソコンはマサキが預かると言い張った。「パスワードは俺に対して向けられていた」から。
 幸雄も主張したが、マサキの態度を覆すことはできなかった。
 ――これでよかったのかもしれない。
 一人になって、改めてそう思った。マサキのアパートに向かいながら、何度も何度も思考はループした。
 彼女の持ち物なら、優先度は「俺」のほうが高いんじゃないか。いくらパスワードは「神正樹のモノ」だったとしても。
 そして画像を思い出す。
「小松崎くん、まだ早まったらダメだよ。作り物の可能性もある」
「そうそう、写真を切り貼りするだけじゃなくて、顔の表情だってフリーソフトで変えられますから」
 おやすみなさい、という言葉は交換しただろうか。二人の言葉に、幸雄はずっと生返事を繰り返した。
 二人の声は、外国語よりも遠かった。
 あいつらが、いくらなんでもそこまでやるか、という考えはあった。
 あれが、もしリアルだったら、もう犯罪だ。口封じなんて、そこまでやるか、あの小物どもが。
 あれがリアルかどうか調べることを、「俺」がやらなくていいのか?
 彼女が相談を持ちかけていたとはいえ、あいつに任せていいのか? 
 しかし、自分だったらちゃんと調べられるか? 
 あんな写真を分析することが「俺」にできるか? 
 あんなものを土日月(月曜は海の日)の間見続けて、火曜日まともに仕事ができるか? 
 クソ上司どものところに怒鳴りこまずにいられるか?  
シラなんか切られたら手が出てしまうかも。
 神正樹を信じるしかない。美穂が選んだ男だ。パスだって、あいつとの思い出だったし。
 ――これがベターなんだろうな。しかし……。
 ベッドに、彼女の匂いを感じていた。パソコンよりも生々しい彼女は、まだ幸雄の元にいる。
 止まりそうで止まらない独楽のように、頭の中がぐらりぐらりいびつな円を描きながら回り続ける。
 無理に止めることもせず、回るに任せているうちに、幸雄は、匂いの詰まった(と感じる)二人の枕に顔を埋めて眠っていた。

 家を飛び出して、春名の山道を上がっていく。途中、奈緒から電話があった。
 姉からの着信に、出たら無言だった、と。
「おねぇちゃん、どうしかしたんですか?」という問いには答えず、「春名湖に向かっている」ことを告げた。
 駐車場につく。
 やはり!
 彼女のPOLOはあったが、車の中に彼女はいない。電話をかける、助手席で光る。微かなメロディも漏れ聞こえる。
 咄嗟に湖の方に走っていた。貸しボート小屋の脇の桟橋にボートが並んでいる。電話の向こうでも、
 ――この音だ、こんな風に。
 波はボートを叩いてた。桟橋の一番先に立って、湖を見つめる。
 何かが見えたとき、一瞬の躊躇いを、幸雄はすぐに飛び越した。
 水面に飛んだ。水に下半身を抑えつけられながら、幸雄はただただ「それ」を目指した。
「美穂!」
「それ」は、やはり彼女だった。彼女しかあり得なかった。
 ――よし、砂袋はついていない。
 意味(因果)を考えることもせず、「砂袋」は一瞬で必死の思いに引きちぎられた。
 ――助かる、これで助かる、俺が、助けたんだ。
 湖岸になんとか引き上げた。彼女は息をしていない。
 咄嗟の人工呼吸。やり方が正しいかどうかという判断すらない。胸を押し、マウストゥーマウスで息を吹き込む。
 電話だ、救急車を。幸雄のスマホは濡れたズボンのポケット。
 車だ。走る体が濡れて重たいことが幸雄を熱くした。
 BRZのトランクを開け、ゴルフバッグから久々にアイアンを取り出した。それでPOLOの助手席の窓ガラスを叩き割る。
 内側からロックを解除してドアを開けた。スマホをつかみ、一一九に電話をかけた。
「はい、春名湖の駐車場です。彼女が、湖に飛び込んだみたいで、じ、じ……、全然動かないんです、早く、早くお願いします!」
  彼女のもとに戻ってまた人工呼吸。
「助かる、助かる、助かる」
 強く胸を押しすぎると胸骨だかが折れてしまうとどっかで聞いた。
 大丈夫、大丈夫。吐き出せ! 動け!
 サイレンが近づいてきたのも、ヘッドライトもパトランプが幸雄を横殴りに照らすのも、隊員に声をかけられたのだって、気づいていた。
 運動を止めようとは思わなかった。彼女の体から離れようと思わなかった。……。

 マサキに話しながら、改めて気づくことがあった。
 美穂の実家を三人で訪れた翌土曜日の夜。幸雄はマサキのアパートにいた。二人きりだった。
 昼間、マサキからラインがきた。アパートに誘われたわけではなかった。「いきます」と幸雄から送っていた。
 この日は土用の丑の日だった。二人のどちらも、昼も夕もうなぎを食べていない。
 幸雄がマサキのアパートに着いたのは夜の九時半過ぎ。
「あのフォルダの中に、彼女のブログがあった。悪いけど、先に読ませてもらった」
 卓を挟んで向かい側、テレビを背にして座る幸雄にこちら側にくるように誘う。天板を踏み越えてきたこないだのことがふっと頭を過ぎった。
「まっすぐこないのか?」
 言える気分ではない。そういう関係性でもない。頭の端で思いつつ、体を少し右側に寄せた。
 ブログはエクセルのシートに書き込まれていた。
 ブログというよりは「表」。何月何日に何があったか、何をされたか。「証拠」とでもいおうか。
 あえてマサキは何も話さないのか。
 幸雄にじっくり読ませようという気遣いは、半ば無駄になっている。
 目に飛び込んだ文字は、余りに衝撃的。美穂の妄想ではないかと一瞬疑ったほど。
 イニシャルのようなアルファベットと痛々しい言葉のコンビネーション。
 それは、難解な関数の設問のように幸雄を拒んだ。あるいは、関数の理解にてこずっていた「あの頃」まで、幸雄の理性を後退させた。
 明るい視界を、白いエクセルシートを覆い隠すように闇が降りてきた。
「微かに、波の音が聞こえました。それでピンときたって言うか」
「え?」
 幸雄は、先週の「最後の土曜日」について、訥々と語り始めた。
 唐突だったかもしれない。しかし、「それ」は幸雄の中の「しこり」だった。
 誰かに話したかった。誰かと共有したかった。
 一人で抱えていては、重たさに心が痺れてしまいそう。
 その「誰か」は「神正樹」以外にはいない。
 美穂のいる場所は岸からそれほど遠くなかった。
 桟橋を跳びおりて、ばしゃばしゃと歩いて近づいた。
 段々深くなり、途中から泳ぐようなかたちになった。彼女の名前を呼ぶ自分の叫びが、はっきりと残っていた。
 必死だった。必死の思いの中に、彼女をつかまえた、そんな喜びがあったかもしれない。
 そう、そうかもしれない。
「これで助かると思いました。岸まで引っ張り上げて、そこで人口呼吸をして、人口呼吸と心マを」
 これで彼女は息を吹き返す、微かに目を開け、幸雄の顔を見て笑う、ドラマや映画のように。
 なんなら、ほんとに彼女の笑顔の記憶さえありそうだ。
「救急車を呼ぼうと思ったけど、俺のスマホはスボンに入れっぱなしで使えなかった。急いで車に戻って」
 自分の車のトランクからアイアンを取り出して、彼女の車の助手席の窓ガラスを割った。
 通報してから十分と経っていないだろう。救急隊員に背後から体を抱えられ、美穂から引き離された。
 薬物を飲んでいるかもしれない、隊員のそんな会話が聞こえた。
「おねぇちゃん!」
 幸雄の前に奈緒が駆け込んできた。隊員と何か話し、そのまま救急車に乗った。
「奈緒ちゃん」
 と、幸雄。奈緒は、とうとう幸雄に一言もかけることはなかった。
 救急車が去った後、警察に事情を聞かれた。彼女の車を見せた。
 ガラスの飛び散るシートを警察官が調べると、小さなビンを見つけた。
 警察官が「これか」と聞いてきたが、幸雄は黙って首を振るしかできない。
 ラベルを照らして「ビタミン剤か」と言いながら上着のポケットにしまっていた。
 それをここで思い出したようだ。後悔と失望の影に隠れて見えなかったか。
 その後、調書というのか、名前や住所を聞かれた。服が濡れているために、パトカーの外で。
 事件性は少なそうだ、今日は一先ず帰っていい、そんなことを最後に言われた気がする。
「どうする?」
「え?」
「自分で帰れるかい?」
 聞いてきた警官は、割と若いように感じた。
「自分で」と答えつつ、優しい言葉にふっと張り詰めていたものが解けたようだった。
 パトカーが去っていくのを見送ったりはしなかった。美穂の車に乗り込む。水分が服とシートを過剰に密着させた。
 不快だった。不快感から逃れるように彼女のスマホを握って目を瞑った。
 スマホは、まだ新たに鳴らない……。

 彼女の死因は溺死。ビンに入っていたのは単なるビタミン剤ではなく、睡眠薬や精神安定剤だった。
 市販されているが、そこら辺のドラッグストアで大量に買えるものではなく、ネット販売で手に入れたものだろう、ということだった。
 その薬を大量に服薬し、半ば気を失った状態で、彼女は、美穂は湖に飛び込んだ……。

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