斑雪(はだれ) (4)
文字数 3,735文字
びっくりするほど落ち着いた、充実した一週間を過ごした。
彼女から一切連絡がないことが、皮肉にもいい状況を生み出していた。
――会えばきっとこうはいかない。
かといってもう会わない、というわけにもいかない。
すぐじゃなくてもいい。いずれ彼女の口からちゃんと話を聞かなければならない。
「ごめん」と申し訳なさそうに頭を下げる彼女を、笑顔で見つめられるくらいの心の準備はしておこう。
いや、実際には取り乱すかもしれない、泣いちゃうかもしれない。あえて準備はせず、そのときの己の感情に任せよう。それまで、仕事頑張ろう。
彼女と疎遠になって仕事も疎かになったなんて思われないように。今できること、やるべきことに一生懸命に取り組もう。
彼女に笑われないように。彼女を不安にさせないように。
金曜日の昼前、実験室に山木がやってきた。
「おう、珍しいな」
笑顔が返って白々しかったかもしれない。山木の目を通して、美穂にアピールしているかのように。
山木は相変わらず情の少ない顔をしていた。また憎まれ口の一つも出てくるかと思った。色素の薄い唇が動く。
「島方さん、今日休んでます」
この男、何を言い出すのか。美穂が休んでいる……。
知らない。聞いてない。これでいいんだっけ?
いやいや、彼女にそこまで〝許した〟覚えはない。
「風邪か?」
咄嗟にそう聞いていた。あるいは、祖母が亡くなったか。「体調不良らしいです」と眼鏡の奥も変えずに答えた。胸が騒いだ。
――彼女、だいじょぶか。
心配することで、結果的に何事もなく済んできた。胸騒ぎが大きいほど、逆に心配ない、はずだ。
さらに、これがいい方向に転がる可能性もある。
彼女がもし面倒なことになっているとしたら、それが再び、幸雄と彼女を近づけることになるかもしれない。そんなことまで考えた。
ラインも電話も複数回、「彼氏」としてできることはやった。後は待つしかない。彼女の声も言葉も一切返ってこなかった。むしろ、
――予想はしていたけど。
仕事終わり、幸雄は仲間数人と居酒屋へいく。いつしか心配も薄れていた。
誰もいないマンションに、この日も酔って帰る。
灯りをつけずに立ちすくむことも、叫んでベッドを殴りつけることもなく、男はシャワーを浴びてすっきり眠りについた。
――夢を見た、ような。
夢に、美穂が出てきたようだった。
楽しく会話していたようだが、相手の顔姿はよく思い出せない。
むしろ、顔つきは美穂ではなかったような気もするが、夢の中で、幸雄ははっきり美穂とデートをしていた。
枕元の携帯を見る。着信も返信もない。夢を思い出そうとする前に、幸雄はベッドから立った。
カーテンを開けて外を見る。梅雨空らしいどんより曇り空だった。
重たい灰色の空を見て、ふっと何かが胸の内を横切った。それが何か、幸雄はまたしても考え込むことなく、ベランダに背を向けてテレビをつけた。
十時四十一分。体も頭も重い。寝すぎたせいかもしれない。
部屋が、広い。独りを受け入れた土曜日は、どこか懐かしかった。
今日一日何をして過ごそうか、考えながらソファーに横になった。春名山の山道を湖に向けて上がっていく自分を想像していた。
未来は決定論的に決まっているのか。
岡本和真が東京ドームにかけるアーチの飛距離や、惑星探査機ボイジャーが惑星から惑星へ移動するためにスイングバイするタイミングなどはパラメータが決まれば予測は可能だ。
プロポーズをしたときからこうなることは決まっていたのか。いったいいつからこうなることは「予測」されていたのか。
それとも、これはまだ「結果」ではないのか。彼女と家庭を築くという未来が、まだあるのか……。
――美穂が少し変だなんて、異動した直後にわかっていた。わかっていたのに……。
見るともなくテレビをみていた。夜の九時を回っていた。今日一日、何をしていた……。
ご飯を食べながら、テレビをみながら、車に乗りながら、買い物をしながら、ずっと彼女のことを考えていた。スマホを手に取る。着信。
「美穂」
彼女だった。一つ息を吐き出して、電話を耳に当てた。一瞬の沈黙の向こうに、何かが聞こえた。
言葉を発したのは幸雄から。「もしもし」と笑顔を作って。
「こんばんは。元気だった?」
「元気じゃない」
「だいじょうぶ?」
「だいじょぶじゃない」
「美穂」
「だいじょぶじゃないよ、コユキ」
コユキ。聞いた瞬間、ぞくぞくっと鳥肌が立った。
久しぶりだった。心がくすぐられるような。
「今から会おう。会って話そう」
彼女の言葉を待ちながら、幸雄は立ち上がって着替え始める。
「……ごめんね」
なんの「ごめん」なんだ?
いったい、何に対しての「ごめん」なのか。
「今どこ?」
とにかく会いたい。電話を耳から離さずに、スウェットのズボンだけジーンズにはきかえた。
財布を尻ポケットに突っ込んで、車のキーを持って部屋を出ていた。静寂の底を打つ微かな音。
「ごめん、もう……」
「待って、美穂、切らないで、美穂!」
ツー、ツー、ツー。切れたとき、幸雄は既にBRZに乗り込んでいた。
そんなこと、あるわけがない。聞き取れないほどの声で彼女は言った。
「もう、疲れた」と。
そんなこと、あるわけがない。彼女が〝そんなこと〟するわけがない。
「疲れた」って、どういうことだ。
「俺」のせいか、全部、「俺」のせいなのか。
朝、何気なく想像していた道を走っていた。スマホから漏れていたのは、僅かに波の音だった。
忘れもしない、いや、忘れていたが、思い出した。
プロポーズしたとき、アヒルボートの船体を叩いていた、あの波の音。彼女は春名湖にいる。
彼女がどうしてそこにいるのか。幸雄は考えないようにしていた。最悪の文字を必死で振り払った。
ヘッドライトがまさしく幸雄の「灯り」だ。先が見えるのはほんの数メートルだけ。圧し掛かる暗闇に、幸雄は必死で立ち向かった。
駐車場には数台の車。人の気配はなし。湖に近い側にPOLO。ナンバーなど覚えていないが、彼女のものであることは間違いないだろう。右隣にとめる。
降りて中をのぞくが、人はなし。スマホで呼び出し、助手席で光る。幸雄は湖のほうに走った。
黒一色。眼前に濃度の違う黒が広がる。己が心の深淵をのぞくがごとし。
足元で波が鳴る。明るい五月の光が目の前の黒と混ざり合う。男の中には、ただただ「闇」があるばかり……。
いつの時代とも言えない昔、春名の村を降り止まない雨が襲った。
「竜神が怒っている」
誰からとなく言い出した。
「生贄が必要だ」
生娘を湖に沈める。どの親が娘にそんな役目を言いつけられるというのか。どの娘が引き受けるというのか。
「わたしがいきます」
一人の娘が進み出た。唇をかみ締めて俯く、あるいは天を仰ぐ大人たち。彼らに向けられた娘の笑顔を、誰一人見ることはできなかった。
娘は変わらぬ笑みを浮かべて村に別れを告げた。降りしきる雨の中、湖まで付き添った二人の世話役に見守られ、一人小船に乗って湖の中ほどまで漕ぎ出すと、娘は湖の中へと、嫁入った。砂袋を括りつけられた娘の体が浮かび上がってくることはなかった。
二日後、漸く雨の上がった空を見上げて、それを喜んだものは一人としていなかった――。
この話を美穂から聞いたのは、去年だったか、一昨年だったか……。
「すいません、乗るのは身内の方だけでお願いします」
救急隊員の言葉に、幸雄は車から一歩離れた。
「病院についたら連絡して。俺の携帯じゃなくて、お姉ちゃんの携帯に」
幸雄の言葉に、救急車の中の女性が小さく頷いた。車内灯が涙の筋をくっきりと描き出していた。
「奈緒ちゃん」
俯きかけた女性の視線を慌てて引き戻す。
「ポケットの中に、ごめん、お姉ちゃんのポケットの、たぶん左のポケットに」
自分のポケットから、目の前に横たわって身じろぎ一つしない姉のズボンの左ポケットに手を差し入れた。「車の鍵があると思うんだ」
言われた通り幸雄に鍵を差し出した女性の顔は、口のないピエロのようだった。
動き出したサイレンから離れるように、幸雄は駐車場へと戻った。ぐっしょり濡れた服が、今さらのように重たかった。
警察に調書を取られた。パトカーもいなくなった湖に、静寂が戻る。
POLOの運転席に入って、幸雄は深く深く祈った。とにかく祈った。救急隊員から「体を拭くように」言われたタオルを頭から被って。
自分に対する怒りは後だ。お願いします、美穂を、彼女を、助けてください……。
彼女のスマホを強く握りしめた。この思い、彼女に届け。
山の寝息が聞こえるようだった。
ガラスの散乱する助手席、水没して使えなくなった(自分の)携帯。車外の僅かな光を拾って、鈍く光を放つ。美穂のPOLOは病院の駐車場にあった。駐車場は、墓地のような冷めた静けさに包まれていた。
四十分後、運転席に幸雄の姿。ふやけたままの瞳で美穂のスマホを見つめた。
――あんた、美穂のなんなんだ……。
幸雄と美穂が話をする直前、彼女が電話をかけ、彼女に電話をかけた人間がいた。
自分の知らない「神正樹」という名前の人間に、幸雄は発信していた。
彼女から一切連絡がないことが、皮肉にもいい状況を生み出していた。
――会えばきっとこうはいかない。
かといってもう会わない、というわけにもいかない。
すぐじゃなくてもいい。いずれ彼女の口からちゃんと話を聞かなければならない。
「ごめん」と申し訳なさそうに頭を下げる彼女を、笑顔で見つめられるくらいの心の準備はしておこう。
いや、実際には取り乱すかもしれない、泣いちゃうかもしれない。あえて準備はせず、そのときの己の感情に任せよう。それまで、仕事頑張ろう。
彼女と疎遠になって仕事も疎かになったなんて思われないように。今できること、やるべきことに一生懸命に取り組もう。
彼女に笑われないように。彼女を不安にさせないように。
金曜日の昼前、実験室に山木がやってきた。
「おう、珍しいな」
笑顔が返って白々しかったかもしれない。山木の目を通して、美穂にアピールしているかのように。
山木は相変わらず情の少ない顔をしていた。また憎まれ口の一つも出てくるかと思った。色素の薄い唇が動く。
「島方さん、今日休んでます」
この男、何を言い出すのか。美穂が休んでいる……。
知らない。聞いてない。これでいいんだっけ?
いやいや、彼女にそこまで〝許した〟覚えはない。
「風邪か?」
咄嗟にそう聞いていた。あるいは、祖母が亡くなったか。「体調不良らしいです」と眼鏡の奥も変えずに答えた。胸が騒いだ。
――彼女、だいじょぶか。
心配することで、結果的に何事もなく済んできた。胸騒ぎが大きいほど、逆に心配ない、はずだ。
さらに、これがいい方向に転がる可能性もある。
彼女がもし面倒なことになっているとしたら、それが再び、幸雄と彼女を近づけることになるかもしれない。そんなことまで考えた。
ラインも電話も複数回、「彼氏」としてできることはやった。後は待つしかない。彼女の声も言葉も一切返ってこなかった。むしろ、
――予想はしていたけど。
仕事終わり、幸雄は仲間数人と居酒屋へいく。いつしか心配も薄れていた。
誰もいないマンションに、この日も酔って帰る。
灯りをつけずに立ちすくむことも、叫んでベッドを殴りつけることもなく、男はシャワーを浴びてすっきり眠りについた。
――夢を見た、ような。
夢に、美穂が出てきたようだった。
楽しく会話していたようだが、相手の顔姿はよく思い出せない。
むしろ、顔つきは美穂ではなかったような気もするが、夢の中で、幸雄ははっきり美穂とデートをしていた。
枕元の携帯を見る。着信も返信もない。夢を思い出そうとする前に、幸雄はベッドから立った。
カーテンを開けて外を見る。梅雨空らしいどんより曇り空だった。
重たい灰色の空を見て、ふっと何かが胸の内を横切った。それが何か、幸雄はまたしても考え込むことなく、ベランダに背を向けてテレビをつけた。
十時四十一分。体も頭も重い。寝すぎたせいかもしれない。
部屋が、広い。独りを受け入れた土曜日は、どこか懐かしかった。
今日一日何をして過ごそうか、考えながらソファーに横になった。春名山の山道を湖に向けて上がっていく自分を想像していた。
未来は決定論的に決まっているのか。
岡本和真が東京ドームにかけるアーチの飛距離や、惑星探査機ボイジャーが惑星から惑星へ移動するためにスイングバイするタイミングなどはパラメータが決まれば予測は可能だ。
プロポーズをしたときからこうなることは決まっていたのか。いったいいつからこうなることは「予測」されていたのか。
それとも、これはまだ「結果」ではないのか。彼女と家庭を築くという未来が、まだあるのか……。
――美穂が少し変だなんて、異動した直後にわかっていた。わかっていたのに……。
見るともなくテレビをみていた。夜の九時を回っていた。今日一日、何をしていた……。
ご飯を食べながら、テレビをみながら、車に乗りながら、買い物をしながら、ずっと彼女のことを考えていた。スマホを手に取る。着信。
「美穂」
彼女だった。一つ息を吐き出して、電話を耳に当てた。一瞬の沈黙の向こうに、何かが聞こえた。
言葉を発したのは幸雄から。「もしもし」と笑顔を作って。
「こんばんは。元気だった?」
「元気じゃない」
「だいじょうぶ?」
「だいじょぶじゃない」
「美穂」
「だいじょぶじゃないよ、コユキ」
コユキ。聞いた瞬間、ぞくぞくっと鳥肌が立った。
久しぶりだった。心がくすぐられるような。
「今から会おう。会って話そう」
彼女の言葉を待ちながら、幸雄は立ち上がって着替え始める。
「……ごめんね」
なんの「ごめん」なんだ?
いったい、何に対しての「ごめん」なのか。
「今どこ?」
とにかく会いたい。電話を耳から離さずに、スウェットのズボンだけジーンズにはきかえた。
財布を尻ポケットに突っ込んで、車のキーを持って部屋を出ていた。静寂の底を打つ微かな音。
「ごめん、もう……」
「待って、美穂、切らないで、美穂!」
ツー、ツー、ツー。切れたとき、幸雄は既にBRZに乗り込んでいた。
そんなこと、あるわけがない。聞き取れないほどの声で彼女は言った。
「もう、疲れた」と。
そんなこと、あるわけがない。彼女が〝そんなこと〟するわけがない。
「疲れた」って、どういうことだ。
「俺」のせいか、全部、「俺」のせいなのか。
朝、何気なく想像していた道を走っていた。スマホから漏れていたのは、僅かに波の音だった。
忘れもしない、いや、忘れていたが、思い出した。
プロポーズしたとき、アヒルボートの船体を叩いていた、あの波の音。彼女は春名湖にいる。
彼女がどうしてそこにいるのか。幸雄は考えないようにしていた。最悪の文字を必死で振り払った。
ヘッドライトがまさしく幸雄の「灯り」だ。先が見えるのはほんの数メートルだけ。圧し掛かる暗闇に、幸雄は必死で立ち向かった。
駐車場には数台の車。人の気配はなし。湖に近い側にPOLO。ナンバーなど覚えていないが、彼女のものであることは間違いないだろう。右隣にとめる。
降りて中をのぞくが、人はなし。スマホで呼び出し、助手席で光る。幸雄は湖のほうに走った。
黒一色。眼前に濃度の違う黒が広がる。己が心の深淵をのぞくがごとし。
足元で波が鳴る。明るい五月の光が目の前の黒と混ざり合う。男の中には、ただただ「闇」があるばかり……。
いつの時代とも言えない昔、春名の村を降り止まない雨が襲った。
「竜神が怒っている」
誰からとなく言い出した。
「生贄が必要だ」
生娘を湖に沈める。どの親が娘にそんな役目を言いつけられるというのか。どの娘が引き受けるというのか。
「わたしがいきます」
一人の娘が進み出た。唇をかみ締めて俯く、あるいは天を仰ぐ大人たち。彼らに向けられた娘の笑顔を、誰一人見ることはできなかった。
娘は変わらぬ笑みを浮かべて村に別れを告げた。降りしきる雨の中、湖まで付き添った二人の世話役に見守られ、一人小船に乗って湖の中ほどまで漕ぎ出すと、娘は湖の中へと、嫁入った。砂袋を括りつけられた娘の体が浮かび上がってくることはなかった。
二日後、漸く雨の上がった空を見上げて、それを喜んだものは一人としていなかった――。
この話を美穂から聞いたのは、去年だったか、一昨年だったか……。
「すいません、乗るのは身内の方だけでお願いします」
救急隊員の言葉に、幸雄は車から一歩離れた。
「病院についたら連絡して。俺の携帯じゃなくて、お姉ちゃんの携帯に」
幸雄の言葉に、救急車の中の女性が小さく頷いた。車内灯が涙の筋をくっきりと描き出していた。
「奈緒ちゃん」
俯きかけた女性の視線を慌てて引き戻す。
「ポケットの中に、ごめん、お姉ちゃんのポケットの、たぶん左のポケットに」
自分のポケットから、目の前に横たわって身じろぎ一つしない姉のズボンの左ポケットに手を差し入れた。「車の鍵があると思うんだ」
言われた通り幸雄に鍵を差し出した女性の顔は、口のないピエロのようだった。
動き出したサイレンから離れるように、幸雄は駐車場へと戻った。ぐっしょり濡れた服が、今さらのように重たかった。
警察に調書を取られた。パトカーもいなくなった湖に、静寂が戻る。
POLOの運転席に入って、幸雄は深く深く祈った。とにかく祈った。救急隊員から「体を拭くように」言われたタオルを頭から被って。
自分に対する怒りは後だ。お願いします、美穂を、彼女を、助けてください……。
彼女のスマホを強く握りしめた。この思い、彼女に届け。
山の寝息が聞こえるようだった。
ガラスの散乱する助手席、水没して使えなくなった(自分の)携帯。車外の僅かな光を拾って、鈍く光を放つ。美穂のPOLOは病院の駐車場にあった。駐車場は、墓地のような冷めた静けさに包まれていた。
四十分後、運転席に幸雄の姿。ふやけたままの瞳で美穂のスマホを見つめた。
――あんた、美穂のなんなんだ……。
幸雄と美穂が話をする直前、彼女が電話をかけ、彼女に電話をかけた人間がいた。
自分の知らない「神正樹」という名前の人間に、幸雄は発信していた。