黒い友だち (4)

文字数 6,551文字

 日曜の夜、九時過ぎ。夏の中体連に向けて、成美は部活に張り切っている。
 春の大会がイマイチ不本意だったらしく、さらに、成美にとっては最後の夏だ。
 今日も部活で、成美も眠そうだった。宴もたけなわ。
「よし、そろそろおひらきにするか」
「うん」
 おとなしく荷物を片付け始めた。先ほどから随分眠そうにしていた。ノートにミミズが這っていた。疲れているのだろう。
 対照的に、マサキは少し気持ちが高かった。
 夕方のことが抜けない。猫が殺されているのだ。
「興奮」という言葉を当ててはいけない。男の顔、というより言葉、声が時折蘇る。
「最近さ、春中の近くで猫が切られて死んでるんだって」
 一瞬、リアクションすべきか迷った。
 余りのタイミングに、まるで夢でも見ているような……。成美に返事をすべきか考えてしまった。
「それ、話題になっているのか」
「春中の女子剣の子からメールがきた。あんまり言いふらすなって言われてるみたい。もし怪しい人見たら、親か先生にすぐ言えって」
「ふーん。ふーん」
 大人の間抜けな相槌を、少女はどう思ったか。成美は漫画を読んだりすることなく「おやすみ」と言い置いて階段を降りていった。
「ふぅ、まるでサトラレだな」
 自分の考えていることが近くの人間に漏れているんじゃないかと不安になった。携帯を開く。アドレス帳。男の名前は真下風史。

「なんでっていうか、こういうときはとりあえず鍋でしょう」
 マサキをばかにしたような半笑いで、トシが言う。火曜日の夜八時、外は静かに霧雨が舞う。茶色いアパートの二〇一号室、コタツを三人の男が囲む。
「いいじゃないか、鍋。神さんは鍋嫌いなのか」
 真下風史はマサキの左。例によって、一番狭っ苦しい場所に客人が座るというのはいかがなものか。
 ――少し、模様替えをしたほうがいいかもしれん。
「いや、嫌いじゃないよ、しかし」
 もちろん嫌いではない、鍋も、こうした集まりも。
 だが、そのためにすぐ下の部屋にいって長野さんに夕飯の辞退を申し入れ、成美の勉強ができないことを告げにいかねばならない。
 人のいい長野さん奥さん(眼鏡シンパシーを感じる)が嫌な顔をする、などということはないが、若干の気まずさと、マサキが二階に上がったのを見計らって送られてくる〈死ね、ヘンタイ〉というラインに多少心が痛む。
 ――申し訳ない。
 もう一度心の中で謝罪するとともに、気持ちの切り替えも済ませた。
 鍋はエビや魚や野菜の具材であふれ、湯気が立ち昇る。
 トシとマサキの前には缶ビール、真下風史の前には、「車で帰るから、ビールはいい」ということで紙コップにウーロン茶。
「せっかく、ふうし兄さんがきてくれるっていうのに、先輩どうせなんもセッティングせんでしょう。まずは、三人で一つの鍋をつついて親睦を深めましょうぜ」
 言いながら、手ではいそがしく灰汁を取る。口と手を動かし「兄さん、もうちょと待ってください」と気配りも忘れない。
 鍋のために生まれてきたような男だ。
 ――ふうし兄さんて、お前はいったい……。
 グツグツといい音がし、鍋から頭を出した海老も踊る。
「もういいかな」と鍋の申し子が言い、まず真下風史の取り皿に料理を入れた。
「先輩は自分でやってね」
 鍋と、この空間を仕切る、鍋支配者(マイスター)。
「うまい! トシくん、味付け絶妙だな。彼女も喜ぶだろう」
「兄さん、それは言わないで」
「彼女いないのか。料理の上手な男はもてる。そのうちできるさ。神さんは」
「兄さん! それも聞かないでください! 鍋がしょっぱくなるから」
「もう何年いないんだろ」
 遠い目をする。眼鏡が曇った。
「なんなんだ、いい歳して、二人とも彼女がいないとはな」
「兄さんは?」
「野暮だな。俺から話をふったんだ」
 多少変わり者ではあるが、ルックスは申し分ない。身長も高いし、乗ってる車はインプだし。
「いない! 神さん、今鼻で笑っただろ」
 鼻で笑ったのは、彼女が「いな」かったからではない。
「なんでこの部屋には、そういう寂しい男が集まるんだろ。こないだきた俺の友だちなんか、俺たち以上に悲しい男だったし」
 確かに、佐藤雅人の件は余りにも切なかった。
 まあ、まだ終わっていないとも言えるが。そして、この部屋にくるとキャラが変わる。
「じゃあ部屋主のせいじゃないか」
「やっぱり、呪われてんすかね。俺がいつまで経っても彼女できないのは、思ったとおり先輩のせいだったんだ」
「部屋にきてくれと、頼んだ覚えはないけどな」
「つめた! 兄さん、聞きましたか!」
「ああ。俺が見込んだ通り、やはり鬼だったな」
「わかりますよね、そこは。先輩のその手の話なら、高校の」
 トシと風史は気が合うようだ。キャラ的には真逆のようではある。
 というか、トシが風史に合わせてうまく転がっている。トシの才能の一つだ。
 一刻も早く、マサキは二人の会話を止めたかった。止めて本題に入りたかった。
 が、マサキにトシと風史からその楽しそうな雰囲気を、残念ながら奪うことはできなかった。

 時刻は早くも夜の十時。雑炊もすっかり片付き、漸く本題に入っていた。
「俺の把握している限り、現状はこんな感じだ」
 風史が、家から持参したラップトップを開いて状況を説明した。
 PC画面には井伊市とその周辺の地図が出ており、地図上に白いマーカーが散らばっていた。
 中で、赤いマーカーが、春名中学から左に三つ見える。中学から右、東にある赤が、一昨日の日曜日にマサキと風史が邂逅した場所だ。
「わたしが勉強を教えている中学生が春中(春名中学)の友人から聞いた話では、その近辺でも密かに問題になっているらしい」
「密かに? あまり騒ぎにしたくないのか」
 風史が少し考える顔つきになる。その空気を感じ、マサキは少し慌ててつなげた。
「いやすまん、『密かに』というのはわたしが聞いての印象だ。その中学生によると、春中の友だちが教師から『あまり言いふらすな』と言われている、ということだった。なにか見たら親か教師に言うようにと。密かに、というのは、それを聞いてのわたしの思い込み」
 風史がちらっとマサキを見た。中学の周辺で起きていることについて「教師」が「中学生」に「言いふらすな」と聞けば先入観を呼ぶ。
 ありそうな話ではあるだけに。風史が鍋を見て笑った。
「先入観は目を曇らせる。俺の目も曇りかけていた」
 風史は言ったが、マサキ自身も成美の話を聞いてからずっと犯人の姿を漠然と描いていた。
 マサキは発言し、そしてその発言を自ら否定することで、やはり自分の思考をリセットしたことになる。
 トシは、黙って二人のやり取りを聞いている。大人しいのは、酒のせいもあるだろう。
 いずれにしても情報が少ない。
 情報とは即ち、「傷ついた猫」の情報であり、その情報の多く増えることを望むことはできない。
「でも、中坊が犯人でないとも言い切れないんでしょ」
 マサキが鍋を見て笑った。風史は驚いたようにトシを見つめる。あまり関心がないのかと思えば、こいつは。
「中学生が犯人であると前提して動くことは避けたいんだ。確かに、おっさんの犯行であるとは考えずらいが、高校生、あるいはもう少し年齢の高い人間まで想定して動く必要がある」
 目を丸くして聞いている。トシはバカだが、頭はいい。風史にはまだイマイチつかめていないだろう。
「だから、より動きやすいかなと思って」
「後々『酔っていた』などとは言わせんぞ。なにをする?」
「調べようかなと、あ、でもな」
「調べる?」
「おい、後戻りはさせんと言ったばっかりだ、なにを調べる?」
「でもな、あれドギツイんだよな」
 風史の表情が険しい。トシには見えていないかもしれない。悪くはないが、バカだ。
 良さもバカさも、マサキは人よりは知っている。なるほど。
「掲示板か」
「掲示板? 春中の? しかしそんなものを見ても」
「裏だろうな」
「裏? 裏掲示板なんて、トシくん、見れるのか?」
「まかしてください、公務員ですから」
 トシのどや顔を受けて、風史が通訳を求めるかのようにマサキの顔を見た。
「こいつは、そういうの得意技なんだ。裏とか、のぞくとか、盗み見るとか」
「あ、でも、リアルピーピングはないっすよ。のぞくのはコンピュータの中だけ」
 風史が、鍋の下のカセットコンロをじっと見つめた。鍋の底とコンロの僅かな隙間は、思考が挟まるのにちょうどいいかもしれない。
 男前が考え込む姿は、まるでドラマの中にでも入り込んだかのよう。
「猫、猫の死体についての書き込みを調べればなにかが見えてくる、か。俺はそんなもののぞいたことないが……、トシくんは」
 風史の言葉はそこで切れた。言葉を失うということが、「知る」第一歩だ。
「たぶん『こいつが犯人だ』みたいな書き込みがけっこうあると思うんすよね。ほとんど悪戯とか冗談だろうけど、核心をついたものもあるかもしれない。普通に目撃情報とか」
 ふと、マサキは気がついた。幾らかアルコールが入っているほうがまともなことを言う、ということ。
 そして同時に。
 風史が何か言うために顔を上げた、それより先にマサキは鍋に向かって言っていた。
「そうか掲示板、あるかもしれない。たまにテレビであるだろ、自分の人生を終わりにする前にめちゃくちゃやりたかったとか言うクソ人間の、その直前に掲示板に書き込まれたとかいう胸糞悪いコメント」
 マサキは、ネット上の板やツイッター、フェイスブック等々、興味がない。
 が、漠然と、それを調べるということが大変なことだということは、左右に座ってマサキの顔を妙な表情で注視する二人を見なくてもわかる。
 二人の視線を受けたその顔がにやけたのは、にらっめこが苦手だということの他にも理由がある。
 二人の視線が、今度は童顔に集まる。その童顔は、酔っ払って、逆に少し引き締まっているようでもある。
「お休みなさーい」
 と言って、トシは横になった。
「確かに、なにか書き込んでいるかもしれないが、それを調べるというのは半端なことじゃない。警察やテレビで発表されるのは、捕まった後で、犯人のPCや携帯からアクセスをたどった結果じゃないのか。でもしなければとても探し当てるのは無理だ」
「こっちから頼むわけじゃない。自ら『調べる』と言いだしたんだ」
 もちろん、マサキには探し当てられるとは思っていない。
 かといって冗談でも普段の仕返しのつもりで言ったのでもない。そういう気持ちがゼロである、とは言わない。
――自分には無理だ、しかし、こいつなら、なんか持ってくるんじゃないか。
 気持ちの昂ぶりはあった。未来の成果ではなく、この会話、この状況、この瞬間、マサキの心を持ち上げて揺さぶる。
 風史とトシと、組んだら何か起こせる、そんな「現在(いま)」の中に、マサキは浸かっているのを感じていた。
 その「昂ぶり」が、マサキ自身の抱えた「自信」をベースにしていることに、自身は思い至っていない。
 そして、このとき、自身の体内にアルコールが入っているということさえ、マサキは意識していなかった。
トシは黙ったまま横になっている。酒のおかげですっかり毒気をなくした、わけではなかった。
 トシは、そのまま本当に眠ってしまったようだ。

 夜十一時を過ぎ、風史が帰るということで、マサキも送ることにした。トシはいよいよ爆睡している。風史を前にして階段を降りる。
 外は霧雨が降り続いていた。滑りやすい鉄の段を慎重に踏む。
 二人分の足音が絡み合うのを聞きながら、マサキは〝見られている〟ような感覚を背後に感じていたが、気のせいというか、ごく意識の薄い思い込みかもしれない。
 アパートの前には駐車場は一台分、その前の道も、車がぎりぎりすれ違える程度の広さしかない。
 マサキの家を訪れる客人は、アパートから五分ほどの空き地に車を停める必要がある。
 傘を持った二人の間隔は、マサキにとって言葉をかけるには少し遠かった。ビニール傘を叩くというより撫でるような雨音に、つい耳を持っていかれる。
「悪かったな、こんな遅くまで」
 風史の声は、低く沈むようで雨にも距離にも負けず鼓膜に届く。羨ましいほどの力を持っている。
 マサキは風史の言葉には直接答えず。
「あいつ、邪魔だったかな」
 率直な表現だった。むしろ率直すぎるほど。微かに酔いの残る体に、霧雨のもたらす涼しさが心地いい。
 トシのおかげで当初考えていなかった視点が出てきたのは確か。
 しかし、何かを落としている気はしていた。風史は少し間を空ける。それが単なる否定でないことは、マサキにはわかる。
「そんなことはない。鍋はうまかった」
 僅かな沈黙の後、風史は続けた。
「正直、最初は戸惑った。こようかどうかも考えた。今は、悪くなかったと思っている」
 マサキは少し笑っている。暗闇で見えないと思えばこそ、言った風史も笑っていると思えばこそ。
「掲示板というのは面白い発想だ。『裏』を『のぞく』という発想は俺にはなかった。神さんの『一般の掲示板も調べろ』という無茶な注文にはまいったがな」
 マサキはすぐに口を開かない。
「反面、なにか考え足りないという印象もある。神さんが『密かに』と言ったことを否定しただろ。ああいうことを、うまく説明できないが、もっとそういう面から詰めてもよかったか、というのが今の俺の感想だ」
「なんで、こんなに一生懸命に?」
 風史の話を噛んで含んでの応答ではない。風史も同様に感じていたことが嬉しかった。
 そのせいなのか、マサキの言葉は喉を通らずにいきなり口から出てきたようだった。無意識は口の中に(も)あるものか。刹那の静寂が、マサキを後悔に落とす。
 言葉は、駆け込み乗車のようでもあった。インプレッサが見える場所まで二人はきていた。二体の地蔵が迎える。暗闇であればこそ、マサキは小さく頭を下げる。
 車の横につく。足音が失せると、近くの葉や草花の雨鳴りが二人を囲んだ。
 風史が「じゃあまた」と軽く言って車に乗り込み、去りゆく車のブレーキランプの点滅を見送る、ことをマサキは思い描いた。
 キーレスがロックを解除する。風史はすぐにドアを開けない。
 以前、風史は猫が特別好きというわけではないと言った。あくまでも自分の自己満足のためだと。
「神さんの部屋にはいろいろな本があった。フリーターだと言ったが、もしかしたら、なにか目指すものがあるんじゃないか?」
「まあ」
 マサキに答える準備はできていた。風史が続けて聞いた。
「フロイトの『抑圧』というのを知っているか?」
「抑圧」とは、精神分析用語で、特に幼少期に体験した「思い出したくもない」ような嫌なことを無意識化して忘れてしまい、その記憶を隠す代わりに何か関わりのあるような「こだわり」、酷いときは「恐怖症」などとして表象する、という。
「子どものとき、猫に関わるなにかがあったのかもしれないな」
 風史は、他人事のように言う。抑圧されたものに触れられたとき、その人はイラッとしたりするそうだが、風史のどこが抑圧されているというのか……。
「明日は?」
「仕事。九時からだけど」
 ここで時間を答えてしまう自分が嫌いだ。また連絡するからと言って、風史は車に乗り込んだ。
 エンジンがかかるとパワーウインドウが下りる。
「じゃあ、また」
 そう言った風史の顔を、マサキは今までで最も強く見つめていた。
 ヘッドライトの光の中を細かい雨粒が舞う。ゆっくりと動き出す。タイヤが土の地面をかんで進むと、風史が右手を上げて目の前を流れていった。
 インプレッサは、やはり南に向かって走り、やはりブレーキランプを何度か点滅させて去っていった。
 ふうっと息を吐き出した。我が部屋で鍋を突ついてくつろいだはずが、外で会う以上に力が入っていたようだ。
 傘を頭上から外した。体を、頭を冷やして休める。うっすらと顔が湿った。傘を戻し、少し移動した。
「ひょっとして、これは転移というやつか」
 風史に対するこの親近感は、もしかしたら転移というものなのか。
 微動だにしない二人に向かって声をかけた。物言わぬからこそなんでも語ることができるだろう。
 ペコッと頭をもう一度下げて、マサキはヤツが眠るアパートへと戻っていった。
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