姉妹 (4)

文字数 6,982文字

 鳥肌が立った。深く沈みかけた幸雄の心と体を、その言葉が再び押し上げた。
「コユキ! 苦しいときこそ顔を上げろ! 覚悟を見せてみろ!」
 頭から冷水を被ったような寒さから一転、内側がカァッと燃え上がる。
 露な腕も足も朱に染まり、顔が熱くなる。思わず、電話を切ってしまった。
 へくしんっ!
 くしゃみが出た。実際、少し冷えすぎなのかもしれない。
 ――美穂だ……。
 電話の声は、いつものおっさんじゃなかった。コユキ! 高い、強い声だった……。
 覚悟とはなんだ?
 顔を上げて天井を見上げた。
 覚悟とは?
 会社の人間がバァッと頭の中を巡る。大きくなる、星尾、岡野、佐々木、倉橋。
 覚悟って?
 四人に向けられた腕は、幸雄自身の腕だろう。
 手にしているのは、包丁、倉橋の包帯、赤く染まる……。
 そういうことか?
 画像やメールを最初に見つけたのが「俺」だったら、「俺」一人で見ていたら、そうだったかもしれない。
 包丁持って一人ずつ刺しにいってたかもしれない。彼女の「仇」を獲るために。
 そうじゃないだろう。
 じゃあ、なんだ、覚悟って?
 ――わからない。わからないけど……。
 エアコンを一度止めた。キーンと耳鳴り、心臓の鼓動が大きい、顔が破裂するくらい。
 マサキの「作戦」はいいものとは思わなかった。言ってみれば、妹の奈緒に押し切られた。
 ――奈緒ちゃんには神さんの目的がわかっていた、てことなのか。
 同じものが見えていた、その上で、どうしても「それ」をしたかったのだ。姉のために。
 自分の身にも危険が及ぶかもしれないのに……。
「奈緒ちゃんは自分が危ない目にあったとしても、お姉ちゃんのためにヤツラと絶対会いたかった、そして、そして……」
 ――あのおっさんは。
「妹にリスクを負わせても、やりとげたかったのか、美穂のために」
 胃が、肝臓が震えるようだった。
「それが覚悟、か」
 マサキと奈緒、二人の背中を見ていた。彼女彼の後ろにいる自分をはっきりと感じていた。
 情けない……。と、幸雄は自分のことを思いかけた。
 ――俺だって!
 弱気な自分を振り払う。
 じゃあ自分の「覚悟」は何かと言えば、それはわからない。
 わからないが、何か、自分にできることがるような気がした。すぐ近くに、あるような気がした。
 缶ビールの暗い飲み口をじっと見つめた。ふー、と息を吐く。
「止めると暑いな」
 エアコンを除湿で動かした。
 はっきりとつかみきれていないが、既に自分の中に「覚悟」があるというあやふやな「確信」があった。ふと浮かんだ倉橋の後姿。
「だからあいつはいっつも肩に湿布してんのか」
 湿布臭さと肩のタトゥがいきなり結びついた。缶をあおり、軟骨ともずくを胃に流し込んで立ち上がった。
 シャワーを浴びてすっきりすると、スマホからラインを送ってベッドに横になった。
 枕元のスマホがすぐに返事をした。〈おやすみなさい〉。幸雄の短いラインに、二人からの返信がほとんど同時だった。
 電気を消す、闇が世界を覆う。何かを考える間もなく、幸雄は夜に飲み込まれた。
 目が覚めると、木曜日。
「いってきます」
 曖昧だった「それ」ははっきりと夏の日差しに輝いた。今日も暑くなりそうだ。

 夏のLL環境はきつい。外と中の温度差は十五℃から二十℃。出入りを繰り返すと、体にヒビが入るようだ。
 午前中、仕事の隙を見つけて、幸雄は久しぶりに五階に上がった。
 クールビズ中の室内は、暑いのかちょうどいいのかよくわからない。会うべき人間は入り口の近くにいた。
 それこそ、改めて「覚悟」を腹に込めるより先に声をかけた。
「くら」
「おう、どした」
「今ちょっと大丈夫か?」
「大丈夫だよ。お前が五階にくるなんて珍しいな」
 倉橋がチラッと目を逸らした。QCの方を見たのだろう。ほとんど気にせず。
「ちょっと調べて欲しいことがあるんだけど」
 もしかしたら知ってるかな、言いながら少し顔を近づけた。湿布の匂いが鼻をつく。頭のガーゼが目に入った。
「頭、大丈夫か?」
「あ、うん、もうほとんどな、で、なに?」
 幸雄は少し声を落として。
「わ……、あの、何年か前にさ、星尾の下にいた女の子がセクハラで辞めたろ」
 思わず「ワイルド」と言いそうになった。倉橋が「ああ」と表情を変えず。
「その人の名前とか、わかるか?」
 倉橋の人よさそうな顔が引き締まり、腕を組んで少し考え込む。
「今さらそんなもん調べてどうするんだ?」
 囁くように言った。
「美穂はやつらに殺されたようなもんだ。クソどもに一泡吹かせてやりたいと思ってさ」
 倉橋はまた少し考えて、「わかった、調べてみる」真剣な顔で、幸雄の顔を見ずに言った。
「頼む」
 短く言い置いて、その場を離れた。
 ――いったい、なにを考え込んでいたのやら。
 真剣そうな顔、いったい何を意味するのか。
 ほんとに困っているのか。単なるポーズなのか。内心では幸雄のことを笑っているのか……。しかし、
 ――俺もなかなかの悪人だな。
 これこそが幸雄の「覚悟」だった。
 実際に「ワイルド」と接触しようと強く思っているわけではない。美穂のことが幸雄の中で「まだ終わっていない」ことを相手にわからせる。
 ――一石を投じる、ってやつか。なにか動きがあれば。
 明確な動揺などは見えなかったが、果たして、それから数時間後の午後三時頃、倉橋からPHSに電話があった。
「わかったぞ」幸雄はたまたま環境室から出て休憩していた。
「彼女の名前は戸塚香織、今から五年くらい前だ」
 ――ぜんぜん知らん。
 五年前なら幸雄もいたが、名前を聞いてもまるでピンとこない。
 戸塚香織→ワイルドの流れもさっぱり。「サンキュー、ありがとう」と電話を切った。
 ――少し慌てたかな。
 切る前に倉橋が「住所や電話番号まではわからんぞ」と言っていた。そこまでしてくれとは頼んでいないのに。
 まるで幸雄に怯えているかのようで、若干愉快ではあった。
 さらに翌日。午前中環境室に佐々木がやってきた。
「どうだ、調子は?」
 サンプルを見せる。ハイエンド機の進捗状況などを話し合った。
「一日LLか。大丈夫か? あんまり無理すんなよ」
「おう、ありがとう」
「そう言えばさ、島方に妹いたよな」
「ああ」
「名前、なんだっけ」
 コートの内側、幸雄の皮膚を電気が走った。ほんのわずか「プラス」のバイアスがかかったようだ。
 名前を聞いて環境室から出ていく同僚の背中は、寒そうに小さく丸まっていた。

 金曜日、夜八時四十分。不愉快な熱気が支配する二〇一号室に、時を待つレジスタンスのような緊張感が混じる。
「マサキは退屈じゃないの?」
 ふっと、成美が雪女のような表情をマサキに向けた。
「毎日毎日、こんな薄汚い部屋で本読んでばっかりで。わたしだったら発狂する」
 部活のなくなった中学生の夏休みが五日ほど経った。成美は昼間友だちとよく出かけているようだ。
 図書館にいくのか(一昨日だったか〈図書館にはくるな〉とラインがあった)、友だちの家にでもいくのか。
 遊んでいるにしろなんにしろ、原則的に「勉強しなくちゃいけない」という強迫観念が、強く成美を追い込んでいるのかもしれない。
「まあ、別に」とマサキは小さく言って。
「カントは、ごく普通の人間は、欲求とそれを満足させることだけで生きているのに対し、教養ある人間は常に新しい喜びを追求するあまり退屈においやられると考えた。キルケゴールは、退屈の感情は洗練された人間を構成する要素と考えていた」
 と本で読んだ。
「は? なに言ってんの?」
 ――やはり〝伝わる〟というのは結果〝伝わる〟のではなく、既に〝伝わっている〟。
「要は、退屈を感じるのは教養ある人の証、ということだ」
「……」
「ま、わたしは本読むのが仕事みたいなものだからな」
「……」
 黙ってノートに顔を戻した。やはり、〝伝わる〟というのは……。マサキも本に視線を落とした。
 九時過ぎ、「あー、暑い暑い」と言いながら、成美は一階へと降りていった。
「そりゃわたしだって、一室まるまる書庫に当てられるような広い部屋に住みたいと思うことだってある」
 部屋を見渡して独りごちた。セレブな暮らしを想像してみる。
 広くて部屋数も多い洗練された空間。ソファーによりかかって五十インチのテレビを見て、「売れっ子」然とした暮らし。好き放題に散らかすことはでない……。
 ――めんどくさそうだな。
 今より少し広い部屋に住む。それがマサキの最初の「成功」だ。
 奈緒からラインがあったのは日付が金曜から土曜に変わる直前だった。
〈乗ってきました〉親指を立てたグッドの絵文字入り。
「早かったな」
 幾らなんでもこんなにすぐとは思っていなかった。
 ――罠……、なわけがない。
 こちらの動きが逆手に取られている可能性は皆無と考えていいだろう。
 奈緒とヤツラの詳しいやりとりはわからないが、ある意味、向こうは向こうで奈緒を陥れようとしているだろう。
 ――今から彼女の家にいって、泊まってそっから仕事に……。
「ない、あるわけがない。ないだろ、それは」
 頭を振った。職場は奈緒の家からの方が遥かに近い。
 一瞬、本気で考えてしまった。ラインで返す文面まで考えかけた。
 不思議なものだと思った。下心があれば、彼女の家にいく恰好の理由ができたと喜び、かつ真剣にラインをどうするか悩んだに違いない。
 下心がなく、奈緒を一人の「仲間」として考え、手伝いたいという純粋な思いからきた「いきたい」は、あっさりと却下されるのに。
 ――だから女子にもてない。
 ベースに「下心」がないと女性とコミュニケートできないとはアホな男だ、つくづく自分をバカらしく思った。マサキはラインを返した。
〈お疲れさま。会う段取りがついた?〉
 二、三分後、再び奈緒からライン。ちょっとした雑談も交えながら、ラインのやり取りはしょうみ三十分ほど続いた。

 幸雄が「彼女」よりも「仕事」をとったとは微塵も考えなかった、わけではない。
 幸雄が向こうについているなら「乗り」のよさも簡単に説明できる。
 が、マサキはそんな考えを一笑に付した。
 愚かだ。「下らない考え」を脳の中のミキサーにかけてミキサーごと叩き壊した。
 幸雄の前で微かでも表に出しては男が廃る。「恥」だ。
 奈緒とのラインを〈おやすみ〉と締めた後、タイヤと大魔神が彼女の「誘い」に乗ってきたことを幸雄とトシにラインした。
 後は場所や日時を決めるだけだ、と。
〈鍋!〉と即返してきたのはトシ。
 幸雄の返事はすぐにはなかった。そう簡単ではないかもしれない。
〈集まるんすか? 場所は、神さんの部屋で?〉
 業務確認のようなラインだった。実際会ってみるまで誰がくるかはわからない、とでも送ろうかと思ったが、やめた。気休めにもならない。
〈鍋をやりたくてうずうずしているのが一名いるから、そのつもりで〉
〈神さんの部屋で鍋? この時季に? 死人が出るよ〉
 この返信は早かった。
「フッ」
 マサキは笑った。まったく、どいつもこいつも。
 幸雄を中途半端な立ち位置に置くのはいい加減やめにしよう。「複雑」とか「簡単ではない」とかはもうやめ。
「やめだ」
 口に出して言うことで心も固めた。

 土曜日、仕事中からスマホが何度も震えていた。
 蒸し暑くて死にそうな部屋に帰ってラインを見返す。
 これが、巷間言われているグループラインか!
 どうやら集合場所について、盛んにコメントが交わされている。
 まずトシと幸雄の間で場所の候補を挙げあっている。そこに途中から奈緒が参加し、風史、さらにはタケルまでが加わっていた。
 中で、マサキの部屋は、
〈却下!〉
〈あり得ない!〉
〈鍋の具気分を味わうつもりはない!〉
〈お笑い芸人じゃあるまいし!〉。
 ――わたしの部屋は『お笑いウルトラクイズ』レベルか!
〈わたしの家で決定!〉
 どうやら奈緒の家に決まったらしい。
 昨夜、いくことを自分の中で否定した家に、また妙な形でいくことになった。人生の不思議を思った。
〈自分の車でいくがいいか? 明日また仕事なんで〉
 コメントに絵文字にスタンプが狂喜乱舞する、中で、マサキのコメントは文字のみこの一つ。なんとなし、わびしさが胸を吹き抜けた。

 島方家集合は十九時。マサキのKカーには、マサキを入れて四人が乗った。
「エアコンつけろ!」
「なにをバカな、坂が登れん!」
 先輩後輩が口角泡を飛ばし合う。
 ただでさえ「重たい」のだ。エアコンに回すパワーなどない。
 助手席の風史とその後ろに座るタケルは最初から窓を全開にして髪を吹かれていた。
 それはマサキも、その後ろに座るトシも同様である。
 自分の車でいくと全員に流してしまったことを、マサキは大きく後悔した。

 奈緒の家に着くと、幸雄は既に着いており、庭にはすっかり準備が整っていた。テーブルと椅子、バーベキューセット。
「毎年夏にはこうして庭でバーベキューをしていてね、今年はないと思っていたんだが」
 奈緒の父親が言った。声は笑っていた。心の内までのぞくことを、マサキは避けた。
 さらに、テーブルにガスコンロ、そして奇妙な形をした鍋様の器。
「知りませんか、タジン鍋」
 どうやらトシの発注らしい。真っ先に『はくしょん大魔王』の壷を思い浮かべる。
 鍋からの味噌風味と炭の香ばしい香りが辺りに充満する。
 なんでバーベキューの隣で鍋なんだ……。
「だって、鍋やらないとでしょ」
 ……。
 缶ビールも振舞われた。住宅地でもあり派手に騒いだりはできないが、和やかな雰囲気に誰もが笑顔を絶やさなかった。
〈一緒にいくか?〉
 といちおうは誘ってみた。
〈ヘンタイ、バカ〉と返ってきた。
 この和やかさがだろうか、少女のことを頭から離すのに苦労させる。あるいは、美穂が、だろうか……。
 二十一時を過ぎたころ、奈緒の両親が「我々はお先に」と言って家の中に入った。そこで、宴はひと段落ついたようだった。
 さらに十分ほど後、テーブルを六人が囲んだ。
 コンロをどかしてテーブルをさっとウェットティッシュで拭き、そこにトシがタブレットPCを置いた。
 マサキがティーシャツで眼鏡のレンズを拭く。眼鏡をかけ、まず口を開いた。ラインでも少し聞いたが。
「えっと、向こうはどんな感じだろう?」
 奈緒がちょっと考え込む。少し酔ったかな。
「焦ってるのかな……、なんか昨日急に会おうみたいな話しになって」
「向こうから?」
「はい。一昨日は半信半疑みたいな感じだったのに。いきなりわたしの名前出してきて、会おうって言ってきました」
 ――いきなり名前を出してきて……。
 マサキの脳裡を一瞬嫌なものがよぎった。「それ、たぶん俺だ」幸雄が小さく右手を挙げた。
「昨日、名前聞かれたんで教えた」
 何気なく言ったつもりだったが、その言葉の持つもう一つの意味に幸雄は軽く打たれた。力を吸い込むように息を吸って、吐いた。
 昨日のことを話そう。
「五年くらい前に、セクハラが原因で会社辞めた子がいたんだ。その子のことについて教えてくれと、くら……、に直で聞いてみた」
「くら、てのは、タイヤの第一候補か。へぇ、ユッキー、なかなかやるね」
 風史が感心したように言った。少し酔っているかもしれない。
「美穂の自殺について調べてるってことを匂わせてみた」
「なるほど、それで焦ったか、さすがユッキー!」
 幸雄を「ユッキー」と呼ぶことに抵抗がないのは、恐らく風史だけ。マサキが続く。
「向こうは先手を取りたがってる。あわよくば、奈緒さんを使って彼氏の行動も抑えようって腹かもしれないな」
 幸雄の顔を見た。
 ――これで、ほぼ決まりってことか。
 言葉にはしない。こんなことを思っているのは自分だけかもしれないと、そのやるせなさを即座に振り払った。一瞬、この場が虫の声に飲まれた。その鳴き声を、わざとらしく跳ね除けるように。
「さて、じゃあ、やりますか」
 マサキが四人の顔を一人ずつ見て、頷くのを確認した。
「タケル」
「はい」
「まず、ありがとうな、手伝ってくれて」
「やめてくださいよ、センセー、みずくせぇっす」
 ――みずくさい、か。
 守屋夫妻の影響だろうか。
 タケルの笑顔は、真っ黒に日焼けしているくせに夜でも浮かび上がるようだった。年齢的にも経歴的にも、この中で異色ではある。
 それだけに、マサキは今こうしてタケルの笑顔と向き合っていることが嬉しかった。
 背後に、青年を支える人たちの面影が透けて見える。人生の師匠と同僚、仲間、そして伴侶とひときわかけがえのない宝物と。
 そんな男にこれまでの人生でベストスリーに入るであろう「ありがとう」を言えたことで、マサキは自分でも秘かに興奮してしまった。アルコールの力は無論ある。
 誤魔化すように一つ咳払い。タケルには人数を集めてもらいたかった。「十人くらいはだいじょぶと思います」ということ。
「タケちゃん、連絡取り合うのはいいけど、逆戻りなんてことになるなよ。奥さんに仕事以外で心配かけちゃアカンぞ」
 風史の言葉に、はい、とタケルがしっかり答えた。
 マサキは大きく頷いた。そんなことは「わたし」もさせないし、オサムが、なにより守谷夫妻が黙っちゃいまい。
「よし、じゃあ最後の仕上げといくか。奈緒ちゃん、トシ」
〈明日会えますか?〉というメールを、ヤツラに送信。返事を待った。
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