コユキと眼鏡 (3)
文字数 7,808文字
美穂が二人を引き合わせた。もっと言えば彼女の死が。
彼女が生きていれば、こうして卓を挟んで座ることもなかった。
アパートの一室で、部屋を埋める生ぬるい粘液の中に潜水服を着て飛び込むようなこともなかった。
扇風機が回る。先に口を開いたのは彼氏だった。
「調べるって、いったいどういうことですか」
「彼女がなんで自殺なんかしたのか」
「それが、彼女の家にいけばわかると思ってるんですか?」
「この部屋にいてもわからない」
「そういうことじゃなくて……。彼女のプライベートをのぞくってことですか」
「調べる」
フゥと、幸雄が短く息を吐いた。
マサキの部屋に初めてきた人間ははっきりと分かれる。「落ち着く」という人間と、身も心もガードを「固める」人間と。
でなくても、幸雄にはこの部屋主に対する不信感がもともとある。
マサキの幸雄に対する不信も。
二人の感情は波のように干渉し合う。今度はマサキから発した。
「島方さんと付き合ってたんですよね?」
「はい、……いちおう」
「土曜日、わたしのところにも電話はあったが、わたしは出れなかった。あなたは助けにいった。残念ながら間に合わなかったが」
「はい……」
「思い切って言ってしまおう。もっと早く助けにいくことはできなかったんですか。土曜日ってことじゃない、もっと、何週間も前に」
「助けに、いこうとは思ってましたし、助けるとも言った」
「気づいていたんだ」
「もちろん。しかし、電話がかかってきたのは土曜日でした」
「それまで、助けにはいかなかったんですか? いや、電話がかかってきた、そう言った。それまで放置していたんだ」
「だから、俺にできることがあればなんでも言えと彼女に言ってはありましたよ」
「……」
「そう、助けにはいかなかった……」
マサキが小さく息を吐いた。肌が汗ばんでいる。再び、潜水服を被って潜る。
マサキだって、最初から幸雄を責めるつもりがあったわけではない。幸雄のマサキに対する「トゲ」だって理解できる。
生暖かい粘液を伝わる「思い」が干渉し合い、溜息が溜息を生み出した。
「神さん、あんたはカウンセラーかなんかですか? 医者のようには見えない」
「肩書きなんかなんにもない。プータロー、フリーターです」
「なんで相談なんか受けていたんですか?」
「少しは楽にしてあげられると思ったから」
「いつから」
「四月ころから」
「何回くらい?」
「だいたい月イチで三、四回」
「……俺も正直に聞きます、正直に答えてください。……寝たんですか?」
「ない」
躊躇はない。一瞬たりとも躊躇うわけにはいかない。躊躇う原因(理由)もない。
「はっきり言ってください」
「ない。ない」
「会社の同僚が、美穂が男と街中で歩いているのを見たと言ってる。あんたじゃないのか? もう正直に言ってくれ」
マサキが大きく息を吐いた。
「くだらない」
と吐き捨てる。大袈裟な素振りは、やましさとやましさがぶつかり合い増幅した結果。
「あんたそんなことを考えていたのか? 彼女に対して助けが遅れたのは、そんなことが原因なのか?」
「湖にもこなかったあんたに言われたくない。最後に言葉を交わしたんですか?」
「話はできなかった」
「でしょうね。最終的に彼女が選んだのは俺なんだ。あんただってなんにもできやしなかったでしょ」
幸雄だってわかってる。自分の憤りがどれほど不毛なことか。
それでも、吐き出さずにはいられなかった。頬を汗が流れた。
「あんたが、最初からあんたなんかが相談に乗りさえしなければ、もしかしたら彼女はもっと楽だったかもしれない。どうしようもなくて仕事辞めてたかもしれない。それで助かってたかもしれない。中途半端に相談する相手なんかいたから」
「確かにわたしは中途半端だった」
「俺だって苦しかったんだ! でも仕事も忙しかった、彼女もそれをわかっていた。だからあんたに相談した、だったら、ちゃんと」
「わたしだって美穂ちゃんを」
「名前を呼ぶなよ!」
バン!
彼氏が卓に両手を勢いよく落とした。一瞬、静まりかえる。ポコンとベランダのペットボトルが鳴った。
感情の表れた幸雄は、なかなかいい面構えをしている。マサキは、ふっとおかしくなった。
「なるほど、美穂ちゃんが彼氏に相談しなかった訳がわかったよ。ポストモダンの非権威主義者か」
「なに?」
「優しいふりして、責任は全部彼女任せ。つらいことがあったら言え、てか。俺は仕事が忙しい、だから、わかってると思うけど、言うのはどうしてもつらいときに、ときだけにしてくれ、できるだけ相談なんか持ってくるな、よ」
唇を引き結んだ幸雄の顔が俯き沈んだ。
次の瞬間、体ごと飛び上がった。
ダン!
天板に一歩を踏んでマサキに踊りかかる。身じろぎ一つできず、胸倉をつかまれて押し倒された。
マサキは幸雄の青ざめた顔を見上げていた。
――ここはわたしの部屋だぞ、どいつもこいつも。
部屋主からテイクダウンを奪いやがって。
扇風機が回る。卓上にあるマサキのスマホが震えた。バイブが卓を小刻みに叩く音が部屋に響いた。
それがゴングでもあったのか、「すいません」と小さく言って幸雄がもといた場所に、卓を回って戻った。
マサキも起き上がると、無言でスマホを手にした。成美からライン。「うるさい」怒り(錨)マーク。時刻は十一時半になろうとしている。
空気が軽くなったようだ。幸雄がかき回してくれた。卓をまたいだこともそうだが、爆発した感情が粘性を断ち切ったようだった。
部屋が明るくなった。二人が蛍光灯を見上げた。
三本蛍光灯の真ん中一本が、今ついた。
二人の顔にも少し色がさした。悲しみの薄まった幸雄の表情が動いた。
「美穂は、どんな様子でしたか」
「たの、いや、疲れているようだった」
緊張がほぐれたことが、逆にマサキの「言い間違え」を誘ったようだった。
彼女が上司のことを激しく愚痴っていたことを話した。
噛んで含むように、少し目線を落として聞いていた幸雄が「あいつらは最悪です」と呟くように言った。
「OJDって、部署の先輩が後輩をトレーニングするんですけど」と前置きして。
「OJDだつってしょっちゅう美穂を連れ出してやがった。美穂の前にも、セクハラで女の子辞めさせたって話もある。そういうクソ上司ですよ」
辞めてからまだ一年は経たないが「OJD」という言葉は懐かしかった。
あえて「懐かしい」くらい言おうと思ったが、口にはしなかった。
幸雄の話は、彼女が抱えたストレスの一端を裏付ける。美穂の愚痴を聞いていたときに思ったことを彼氏にぶつけようか迷った。決心は、容易につきかねる。
「美穂がなにか残してると思いますか?」
「彼女は」
強い、と言おうとして躊躇った。
自殺したから強くない、ということではない。
マサキの前でも、彼女は「島方美穂」であることを崩そうとしなかった。そのことをここで悲しむほど、マサキは厚かましくはない。
「黙って死ぬようなタマじゃない」
表現を練り直そうとして、そのまま発していた。まるで、彼女の面影がそうさせたかのように。
幸雄が考え込む。落とした視線で腕時計を見たようだ。「こんな時間か」と呟いた。
「とりあえず、明日いってみましょう」
仕事が終わったら連絡します、「じゃあ」と言って幸雄が立ち上がり、それに合わせてマサキも立った。
玄関を出て、幸雄は「お邪魔しました」と頭を下げた。他の言葉を飲み込んだことはマサキにわかった。
「また明日」
「お休みなさい」を交換して、階段を降りる幸雄の背中を、マサキは上から見送った。
よっぽど車までいこうかと思ったが、そこから下にはいかなかった。幸雄が道路に下りて、道を左に、駐車場の方に歩いていった。マサキはずっと見ていた。
振り返らないだろう、そう思っていたが、幸雄は振り返り、頭を軽く下げてまた歩き出した。
マサキは軽く右手を上げて答えた。階段の灯りで、汗の腕がテカった。
中に戻り、バランスボールによりかかって目を瞑った。幸雄のことを思うとき、なぜだろう、東風の吹き上がる梅林の斜面が浮かんだ。
悪い男ではない。
そんなことはハナからわかっている。ある意味、予想通りの男だった。
かつてマサキが、ああゆうサラリーマンにはなるまい(なれない)と、自分に言っていた種類の人間、いわゆる「社会人」だった。
話をして胸倉つかまれて組み敷かれた前と後では印象はだいぶ異なっている。
マサキが幸雄を責めた言葉は、そのまま自分にも当てはまる。ただ待っていたのはマサキも同じ。
最後の電話に出なかった。その悔しさは、ちょっと不純だ。
明日、あるいは次にこの部屋で二人きりになるようなときはこんなことを話そうか、「あんたのことが全く話題にならなかった」ことを話そうか、どういう流れで話を持っていくか、もっと自分の考えを話したほうがいいのか、他に……。
考えているうち、そのまま落ちていた。暑さと寝苦しさと妙な体の痛さで、マサキは夜中目が覚めることになる。
金曜日、マサキのアパートに夜九時ころ迎えにくるということだった。
もっと早く合流して飯でも食うかという話になりかけたが、アパートの近くにもここから美穂の家にいく間にも、食べ物屋は牛丼もファストフードすらないため、各自済ませてからいこうということになった。
向こうの食事時間も避けねばならないだろうし。
幸雄の方で彼女の家族と調整した結果の「九時」ということだった。
ということで、おとなしめの足音が階段を上がりきったときは八時五十五分ほどだった。
さすがにきっちりしている。
誤算はマサキのほうにあった。
成美とタケルには昼間のうちにラインしておいた。
夕飯を馳走になって部屋にいた八時ころ、階段を勢いよく駆け上がってくる。
「あ」と思ったが、時既に遅し。
こいつにも「今日はくるな」とラインしようかと思ったのだが、それが逆に「餌」になってしまうかと思いラインしなかった。裏の裏は表か。
幸雄が部屋に入る、当てられた視線は二人分だった。
美穂のことは、おおよそトシにも話してあった。
幸雄とトシは、さすがに社会人同士そつのない挨拶を交わす。
幸雄も交え、簡単に今夜のことを話すと、「俺にも手伝わせてよ」と、いつになく真面目な顔で言った。
ついてくると言うだろうことは想像していた。なんとか振り切ろうと思っていた。
この表情、語気は意外だった。
「高校の後輩で、市役所に勤めている。コンピューターにも詳しいし、なにか役に立つことがないとも言い切れない、ような気もするが」
なぜかフォローに回っている自分を、マサキは怪訝に見つめた。
そのセリフが言葉通りの前向きな気持ちに裏付けられていないことが不思議だった。
幸雄は少し考えてから、マサキに判断を求める視線を当てた。マサキは小さく頷いた。
その時点でも半信半疑であったことは、恐らく相手に伝わってはいまい。
三人は、幸雄のBRZで春名町へと向かった。
マサキが、その車に乗ることに少々興奮を覚えたことは、内緒である。
こんな形で初めて美穂の家に向かうことになろうとは思わなかった。
彼女の家にいくことを、夢想したことはあった。
マサキの実家からもアパートからも二十分三十分の距離だ。付き合っているとかそういう状況でなくても、その時は笑顔に溢れているはずだった……。
三輪から春名に抜ける道を助手席に乗っていると、ヘッドライトを避けるように後ろに流れる闇の上に湧き上がったのは、
――猫、か。
風史に呼び出されて走った五月の夜を思い出した。
見下ろした、道端に横たわる、闇の底で底知れぬ引力を放つ死骸、
――喉と腹を切られていた。
アスファルトに打ち付けられた、夜に沈むシルエット、体を猫のように丸めた、女性……。
BRZごと地殻の中に引きずり込むようなその重力を断ち切るために、マサキは目を瞑った。瞼の黒に浮かんだのは、彼女の笑顔だった。
ハチロクのエンジン音がマサキをくすぐった。窓の外、滲んだ光を見るともなく眺めていた。
庭に入ったとき、マサキは大きく鼻をすすった。
境界を踏み越えて侵入した。「やっぱり引き返そう」という言葉をなんとか引っ込めた。
入り口に近いところに車は止まり、三人、車から降りた。庭には他に車が二台駐車してあり、さらにガレージらしきものもあった。
その中に美穂の車がしまってあること、マサキは後に知る。
空を見上げた。雲がぼんやりと光っている部分がある。
――今日は、満月だな……。
ピンポーンと家の中でベルが鳴ったようだ。幸雄は早くも玄関前に立っていた。
その後ろ姿には躊躇う様子も後ろめたい感じも見えない。一瞬、幸雄がもの凄い悪人に思えた。
幸雄の背中に追いつき、マサキとトシが息を潜めた。
玄関のドアが開く、光が迫る、体に緊張が漲る。
肩に手こそかけないグレイシートレインのように、幸雄を先頭にして玄関をくぐる。
「こんばんは」と迎えてくれたのは妹の奈緒。リビングに通され、そこで両親に引き合わされる。
「お悔やみ」を先頭の幸雄に任せ、マサキとトシはそれに合わせて頭を下げた。その様子から、幸雄が家族とも親しくしていたことは窺える。
家族の「その他二人」に対する不安げな眼差しは当然。「私は」とマサキが前に出た。
「神正樹という者です。彼女から、仕事のことで相談を受けていました」
しゃべり始めたときの自分の顔の固さが気になったが、どうにもならないし、さほど場違いな顔をしてはいないだろう。
「大学時代の知り合いで、今は三輪町に住んでいます。」
マサキから見る両親にそれほど悲しみの色はない。
母親は、美穂や妹に比べると背が低いようだ。少しぽちゃっとした、あまり適切な表現ではないが、それこそ「普通」のお母さんだった。
父親は眼鏡をかけている。厳格そうだが、きっと根っこのところでは娘たちに大いに甘いに違いない。真面目な眼差しを、マサキに向けている。
「すいませんでした」
思わず、頭を下げていた。
マサキが上体を戻すのを待って、「線香を」と幸雄が言った。妹に先導され、三人はリビングから離れた。
「それは違う」と、ずっと考えていたことだった。
マサキが頭を下げるようなことではない。正解でないだけでなく、間違いだ。やってはいけない類のことだと考えていた。
決してマサキの責任などではないのだ。頭を下げるべき人間はいる。
形ばかり頭を下げたかもしれない。ただ、謝ってはいまい。
もしかしたら、幸雄も謝罪などしていないかもしれない。マサキは、決して彼らの代表者などではない。
最も美穂に謝りたいのは、
――家族だろうに……。
彼女はリビングの隣の客間にいた。
黒く輝きを放つ真新しい仏壇は、まるで彼女に相応しいもののようだった。
三人それぞれ、彼女の笑顔に線香を捧げ、頭を下げた。
リビングでお茶を飲みながら家族と少し話をする。
マサキと幸雄が目顔で頷き合う。
「彼女の部屋を見せてもらっていいですか」
幸雄が両親を見て言った。「どうぞ」と母親が答えた。妹に連れられて、三人は二階の一室へと案内された。
ノートパソコンを開く。パスワードがかかっているのを、幸雄が入力し始めた。
部屋主のいない部屋というのはよそよそしく寒々しい。
幸雄がこの家を訪れ、この部屋に入るのはおよそ二ヶ月ぶり。そのときと余り変化はないようだった。
幸雄自身、あえて心を狭めた。懐かしさや悲しさで覆われないように。
枕元や窓際に置かれた幾つかのぬいぐるみも、ぱっと見初めてのものはない。ベッドの上に、赤ん坊大のゴリラのぬいぐるみが横たわっていたのに一瞬目を奪われた。
集中をすぐにゴリラから奪い返し、幸雄は勉強机の前の椅子に座りノートパソコンを開いた。パスワードはすぐには解除できなかった。
――ゴリラをいつも抱いていたのだろうか……。
ベッドに横たわるぬいぐるみに、マサキは彼女の健気さを見るようだった。
きっと、幸雄に弱気なところなどほとんど見せなかったに違いない。
近くで見れば汚れやほつれがあるかもしれないぬいぐるみを、どんな思いで抱いていたのだろう、あるいは、抱かれていたのだろう。
その部屋は、なんだか懐かしかった。
マサキが、入ることを夢想していた(入りたいと思っていた)彼女の部屋に近いようだった。
マサキにとって、彼女の「死」という事実を、それが押し付けてくる「悲しみ」を意識の外に置くことは割と容易い。
自分の中にいる島方美穂に、これまで何度も話しかけていた。
そしてこれからも。
「ふー」と幸雄が息を吐いた。
「ダメだ、あかないな」
パスワードを解除できない。
「妹さん、お姉さんは、最近どんな様子だった?」
不安そうな面持ちでパソコンの方を見ていた奈緒に、幸雄のすぐ背後に立つマサキが振り返って質問した。
マサキは、奈緒が姉より何歳下かは知らない。二十五くらいだろうか。その歳の差以上に、妹は姉よりも幼く見えた。
「姉は、とても疲れているように見えました」
憂いが面に出やすいのかもしれない。少し沈んだ口調で、悲しげな眼差しをマサキと幸雄に向けて話し始めた。
あるときまでは仕事のことで妹にもかなり愚痴っていたという。ラインや電話で。
その頃は姉が実家にくることは珍しく、くるときは大概幸雄と一緒だった。
「だから、姉が一人で家に帰ってきて泊まるようになったら、幸雄さんとうまくいってないんだと思ってました」
六月の終わりになると、美穂はほとんど毎日実家に帰ってくるようになった。
「別れたんだと思いました。でも、話を振ってもちゃんと言ってくれなくて。それがすごい心配だった」
結婚を保留したことも聞いていたという。
だから、幸雄とどうなったのか、聞いてもはっきり答えてくれない姉をひどく心配していた。
――美穂ちゃんは、相当やつれていたのか……。
マサキは、記憶の美穂と現実の奈緒の顔を比べてみる。失礼な話ではある。
マサキが幸雄に耳打ちする。幸雄が立ち上がり、妹を誘って部屋を出た。階段を二人分の足音が下っていった。
パス入力部分に並んだアスタリスクを見つめた。
幸雄は、薄く苦笑いを浮かべていたが、心中穏やかではなかっただろう。
愛する女性が、自らにかけた悪い魔法を解く鍵が、自分にはないことを突きつけられた彼氏の心情というのは。
フラクタルだ。
彼女の部屋は、きっと他の女性に比べたら、妹の部屋と比べても多分女っ気が少ないんじゃないか。
この部屋は、彼女とある種の相似であるはずだ。
マサキは椅子に座った。マサキの位置にトシが立つ。
トシを多少意識しつつ、アスタリスクをクリアし、両手をホームポジションに置いた。
入力する文字は決まっている。マサキの中の彼女は、いつでも〝あのとき〟の彼女なのだ。
Enterをパチンと叩く!
画面が、切り替わる。
ビンゴ!
表れた画面を見て、二人は言葉を失った。
その写真の意味がわかったとき、背中がゾワゾワと粟立った。
トシがすぐに後ろを向いて顔を逸らした。マウスの右クリックでウィンドを開く。
「彼氏を呼んでこい」
言い終わる前に動き出したトシに「彼氏だけだぞ」と念を押す。
壁紙の参照を確認して、プリセットされているものに交換した。
彼女が生きていれば、こうして卓を挟んで座ることもなかった。
アパートの一室で、部屋を埋める生ぬるい粘液の中に潜水服を着て飛び込むようなこともなかった。
扇風機が回る。先に口を開いたのは彼氏だった。
「調べるって、いったいどういうことですか」
「彼女がなんで自殺なんかしたのか」
「それが、彼女の家にいけばわかると思ってるんですか?」
「この部屋にいてもわからない」
「そういうことじゃなくて……。彼女のプライベートをのぞくってことですか」
「調べる」
フゥと、幸雄が短く息を吐いた。
マサキの部屋に初めてきた人間ははっきりと分かれる。「落ち着く」という人間と、身も心もガードを「固める」人間と。
でなくても、幸雄にはこの部屋主に対する不信感がもともとある。
マサキの幸雄に対する不信も。
二人の感情は波のように干渉し合う。今度はマサキから発した。
「島方さんと付き合ってたんですよね?」
「はい、……いちおう」
「土曜日、わたしのところにも電話はあったが、わたしは出れなかった。あなたは助けにいった。残念ながら間に合わなかったが」
「はい……」
「思い切って言ってしまおう。もっと早く助けにいくことはできなかったんですか。土曜日ってことじゃない、もっと、何週間も前に」
「助けに、いこうとは思ってましたし、助けるとも言った」
「気づいていたんだ」
「もちろん。しかし、電話がかかってきたのは土曜日でした」
「それまで、助けにはいかなかったんですか? いや、電話がかかってきた、そう言った。それまで放置していたんだ」
「だから、俺にできることがあればなんでも言えと彼女に言ってはありましたよ」
「……」
「そう、助けにはいかなかった……」
マサキが小さく息を吐いた。肌が汗ばんでいる。再び、潜水服を被って潜る。
マサキだって、最初から幸雄を責めるつもりがあったわけではない。幸雄のマサキに対する「トゲ」だって理解できる。
生暖かい粘液を伝わる「思い」が干渉し合い、溜息が溜息を生み出した。
「神さん、あんたはカウンセラーかなんかですか? 医者のようには見えない」
「肩書きなんかなんにもない。プータロー、フリーターです」
「なんで相談なんか受けていたんですか?」
「少しは楽にしてあげられると思ったから」
「いつから」
「四月ころから」
「何回くらい?」
「だいたい月イチで三、四回」
「……俺も正直に聞きます、正直に答えてください。……寝たんですか?」
「ない」
躊躇はない。一瞬たりとも躊躇うわけにはいかない。躊躇う原因(理由)もない。
「はっきり言ってください」
「ない。ない」
「会社の同僚が、美穂が男と街中で歩いているのを見たと言ってる。あんたじゃないのか? もう正直に言ってくれ」
マサキが大きく息を吐いた。
「くだらない」
と吐き捨てる。大袈裟な素振りは、やましさとやましさがぶつかり合い増幅した結果。
「あんたそんなことを考えていたのか? 彼女に対して助けが遅れたのは、そんなことが原因なのか?」
「湖にもこなかったあんたに言われたくない。最後に言葉を交わしたんですか?」
「話はできなかった」
「でしょうね。最終的に彼女が選んだのは俺なんだ。あんただってなんにもできやしなかったでしょ」
幸雄だってわかってる。自分の憤りがどれほど不毛なことか。
それでも、吐き出さずにはいられなかった。頬を汗が流れた。
「あんたが、最初からあんたなんかが相談に乗りさえしなければ、もしかしたら彼女はもっと楽だったかもしれない。どうしようもなくて仕事辞めてたかもしれない。それで助かってたかもしれない。中途半端に相談する相手なんかいたから」
「確かにわたしは中途半端だった」
「俺だって苦しかったんだ! でも仕事も忙しかった、彼女もそれをわかっていた。だからあんたに相談した、だったら、ちゃんと」
「わたしだって美穂ちゃんを」
「名前を呼ぶなよ!」
バン!
彼氏が卓に両手を勢いよく落とした。一瞬、静まりかえる。ポコンとベランダのペットボトルが鳴った。
感情の表れた幸雄は、なかなかいい面構えをしている。マサキは、ふっとおかしくなった。
「なるほど、美穂ちゃんが彼氏に相談しなかった訳がわかったよ。ポストモダンの非権威主義者か」
「なに?」
「優しいふりして、責任は全部彼女任せ。つらいことがあったら言え、てか。俺は仕事が忙しい、だから、わかってると思うけど、言うのはどうしてもつらいときに、ときだけにしてくれ、できるだけ相談なんか持ってくるな、よ」
唇を引き結んだ幸雄の顔が俯き沈んだ。
次の瞬間、体ごと飛び上がった。
ダン!
天板に一歩を踏んでマサキに踊りかかる。身じろぎ一つできず、胸倉をつかまれて押し倒された。
マサキは幸雄の青ざめた顔を見上げていた。
――ここはわたしの部屋だぞ、どいつもこいつも。
部屋主からテイクダウンを奪いやがって。
扇風機が回る。卓上にあるマサキのスマホが震えた。バイブが卓を小刻みに叩く音が部屋に響いた。
それがゴングでもあったのか、「すいません」と小さく言って幸雄がもといた場所に、卓を回って戻った。
マサキも起き上がると、無言でスマホを手にした。成美からライン。「うるさい」怒り(錨)マーク。時刻は十一時半になろうとしている。
空気が軽くなったようだ。幸雄がかき回してくれた。卓をまたいだこともそうだが、爆発した感情が粘性を断ち切ったようだった。
部屋が明るくなった。二人が蛍光灯を見上げた。
三本蛍光灯の真ん中一本が、今ついた。
二人の顔にも少し色がさした。悲しみの薄まった幸雄の表情が動いた。
「美穂は、どんな様子でしたか」
「たの、いや、疲れているようだった」
緊張がほぐれたことが、逆にマサキの「言い間違え」を誘ったようだった。
彼女が上司のことを激しく愚痴っていたことを話した。
噛んで含むように、少し目線を落として聞いていた幸雄が「あいつらは最悪です」と呟くように言った。
「OJDって、部署の先輩が後輩をトレーニングするんですけど」と前置きして。
「OJDだつってしょっちゅう美穂を連れ出してやがった。美穂の前にも、セクハラで女の子辞めさせたって話もある。そういうクソ上司ですよ」
辞めてからまだ一年は経たないが「OJD」という言葉は懐かしかった。
あえて「懐かしい」くらい言おうと思ったが、口にはしなかった。
幸雄の話は、彼女が抱えたストレスの一端を裏付ける。美穂の愚痴を聞いていたときに思ったことを彼氏にぶつけようか迷った。決心は、容易につきかねる。
「美穂がなにか残してると思いますか?」
「彼女は」
強い、と言おうとして躊躇った。
自殺したから強くない、ということではない。
マサキの前でも、彼女は「島方美穂」であることを崩そうとしなかった。そのことをここで悲しむほど、マサキは厚かましくはない。
「黙って死ぬようなタマじゃない」
表現を練り直そうとして、そのまま発していた。まるで、彼女の面影がそうさせたかのように。
幸雄が考え込む。落とした視線で腕時計を見たようだ。「こんな時間か」と呟いた。
「とりあえず、明日いってみましょう」
仕事が終わったら連絡します、「じゃあ」と言って幸雄が立ち上がり、それに合わせてマサキも立った。
玄関を出て、幸雄は「お邪魔しました」と頭を下げた。他の言葉を飲み込んだことはマサキにわかった。
「また明日」
「お休みなさい」を交換して、階段を降りる幸雄の背中を、マサキは上から見送った。
よっぽど車までいこうかと思ったが、そこから下にはいかなかった。幸雄が道路に下りて、道を左に、駐車場の方に歩いていった。マサキはずっと見ていた。
振り返らないだろう、そう思っていたが、幸雄は振り返り、頭を軽く下げてまた歩き出した。
マサキは軽く右手を上げて答えた。階段の灯りで、汗の腕がテカった。
中に戻り、バランスボールによりかかって目を瞑った。幸雄のことを思うとき、なぜだろう、東風の吹き上がる梅林の斜面が浮かんだ。
悪い男ではない。
そんなことはハナからわかっている。ある意味、予想通りの男だった。
かつてマサキが、ああゆうサラリーマンにはなるまい(なれない)と、自分に言っていた種類の人間、いわゆる「社会人」だった。
話をして胸倉つかまれて組み敷かれた前と後では印象はだいぶ異なっている。
マサキが幸雄を責めた言葉は、そのまま自分にも当てはまる。ただ待っていたのはマサキも同じ。
最後の電話に出なかった。その悔しさは、ちょっと不純だ。
明日、あるいは次にこの部屋で二人きりになるようなときはこんなことを話そうか、「あんたのことが全く話題にならなかった」ことを話そうか、どういう流れで話を持っていくか、もっと自分の考えを話したほうがいいのか、他に……。
考えているうち、そのまま落ちていた。暑さと寝苦しさと妙な体の痛さで、マサキは夜中目が覚めることになる。
金曜日、マサキのアパートに夜九時ころ迎えにくるということだった。
もっと早く合流して飯でも食うかという話になりかけたが、アパートの近くにもここから美穂の家にいく間にも、食べ物屋は牛丼もファストフードすらないため、各自済ませてからいこうということになった。
向こうの食事時間も避けねばならないだろうし。
幸雄の方で彼女の家族と調整した結果の「九時」ということだった。
ということで、おとなしめの足音が階段を上がりきったときは八時五十五分ほどだった。
さすがにきっちりしている。
誤算はマサキのほうにあった。
成美とタケルには昼間のうちにラインしておいた。
夕飯を馳走になって部屋にいた八時ころ、階段を勢いよく駆け上がってくる。
「あ」と思ったが、時既に遅し。
こいつにも「今日はくるな」とラインしようかと思ったのだが、それが逆に「餌」になってしまうかと思いラインしなかった。裏の裏は表か。
幸雄が部屋に入る、当てられた視線は二人分だった。
美穂のことは、おおよそトシにも話してあった。
幸雄とトシは、さすがに社会人同士そつのない挨拶を交わす。
幸雄も交え、簡単に今夜のことを話すと、「俺にも手伝わせてよ」と、いつになく真面目な顔で言った。
ついてくると言うだろうことは想像していた。なんとか振り切ろうと思っていた。
この表情、語気は意外だった。
「高校の後輩で、市役所に勤めている。コンピューターにも詳しいし、なにか役に立つことがないとも言い切れない、ような気もするが」
なぜかフォローに回っている自分を、マサキは怪訝に見つめた。
そのセリフが言葉通りの前向きな気持ちに裏付けられていないことが不思議だった。
幸雄は少し考えてから、マサキに判断を求める視線を当てた。マサキは小さく頷いた。
その時点でも半信半疑であったことは、恐らく相手に伝わってはいまい。
三人は、幸雄のBRZで春名町へと向かった。
マサキが、その車に乗ることに少々興奮を覚えたことは、内緒である。
こんな形で初めて美穂の家に向かうことになろうとは思わなかった。
彼女の家にいくことを、夢想したことはあった。
マサキの実家からもアパートからも二十分三十分の距離だ。付き合っているとかそういう状況でなくても、その時は笑顔に溢れているはずだった……。
三輪から春名に抜ける道を助手席に乗っていると、ヘッドライトを避けるように後ろに流れる闇の上に湧き上がったのは、
――猫、か。
風史に呼び出されて走った五月の夜を思い出した。
見下ろした、道端に横たわる、闇の底で底知れぬ引力を放つ死骸、
――喉と腹を切られていた。
アスファルトに打ち付けられた、夜に沈むシルエット、体を猫のように丸めた、女性……。
BRZごと地殻の中に引きずり込むようなその重力を断ち切るために、マサキは目を瞑った。瞼の黒に浮かんだのは、彼女の笑顔だった。
ハチロクのエンジン音がマサキをくすぐった。窓の外、滲んだ光を見るともなく眺めていた。
庭に入ったとき、マサキは大きく鼻をすすった。
境界を踏み越えて侵入した。「やっぱり引き返そう」という言葉をなんとか引っ込めた。
入り口に近いところに車は止まり、三人、車から降りた。庭には他に車が二台駐車してあり、さらにガレージらしきものもあった。
その中に美穂の車がしまってあること、マサキは後に知る。
空を見上げた。雲がぼんやりと光っている部分がある。
――今日は、満月だな……。
ピンポーンと家の中でベルが鳴ったようだ。幸雄は早くも玄関前に立っていた。
その後ろ姿には躊躇う様子も後ろめたい感じも見えない。一瞬、幸雄がもの凄い悪人に思えた。
幸雄の背中に追いつき、マサキとトシが息を潜めた。
玄関のドアが開く、光が迫る、体に緊張が漲る。
肩に手こそかけないグレイシートレインのように、幸雄を先頭にして玄関をくぐる。
「こんばんは」と迎えてくれたのは妹の奈緒。リビングに通され、そこで両親に引き合わされる。
「お悔やみ」を先頭の幸雄に任せ、マサキとトシはそれに合わせて頭を下げた。その様子から、幸雄が家族とも親しくしていたことは窺える。
家族の「その他二人」に対する不安げな眼差しは当然。「私は」とマサキが前に出た。
「神正樹という者です。彼女から、仕事のことで相談を受けていました」
しゃべり始めたときの自分の顔の固さが気になったが、どうにもならないし、さほど場違いな顔をしてはいないだろう。
「大学時代の知り合いで、今は三輪町に住んでいます。」
マサキから見る両親にそれほど悲しみの色はない。
母親は、美穂や妹に比べると背が低いようだ。少しぽちゃっとした、あまり適切な表現ではないが、それこそ「普通」のお母さんだった。
父親は眼鏡をかけている。厳格そうだが、きっと根っこのところでは娘たちに大いに甘いに違いない。真面目な眼差しを、マサキに向けている。
「すいませんでした」
思わず、頭を下げていた。
マサキが上体を戻すのを待って、「線香を」と幸雄が言った。妹に先導され、三人はリビングから離れた。
「それは違う」と、ずっと考えていたことだった。
マサキが頭を下げるようなことではない。正解でないだけでなく、間違いだ。やってはいけない類のことだと考えていた。
決してマサキの責任などではないのだ。頭を下げるべき人間はいる。
形ばかり頭を下げたかもしれない。ただ、謝ってはいまい。
もしかしたら、幸雄も謝罪などしていないかもしれない。マサキは、決して彼らの代表者などではない。
最も美穂に謝りたいのは、
――家族だろうに……。
彼女はリビングの隣の客間にいた。
黒く輝きを放つ真新しい仏壇は、まるで彼女に相応しいもののようだった。
三人それぞれ、彼女の笑顔に線香を捧げ、頭を下げた。
リビングでお茶を飲みながら家族と少し話をする。
マサキと幸雄が目顔で頷き合う。
「彼女の部屋を見せてもらっていいですか」
幸雄が両親を見て言った。「どうぞ」と母親が答えた。妹に連れられて、三人は二階の一室へと案内された。
ノートパソコンを開く。パスワードがかかっているのを、幸雄が入力し始めた。
部屋主のいない部屋というのはよそよそしく寒々しい。
幸雄がこの家を訪れ、この部屋に入るのはおよそ二ヶ月ぶり。そのときと余り変化はないようだった。
幸雄自身、あえて心を狭めた。懐かしさや悲しさで覆われないように。
枕元や窓際に置かれた幾つかのぬいぐるみも、ぱっと見初めてのものはない。ベッドの上に、赤ん坊大のゴリラのぬいぐるみが横たわっていたのに一瞬目を奪われた。
集中をすぐにゴリラから奪い返し、幸雄は勉強机の前の椅子に座りノートパソコンを開いた。パスワードはすぐには解除できなかった。
――ゴリラをいつも抱いていたのだろうか……。
ベッドに横たわるぬいぐるみに、マサキは彼女の健気さを見るようだった。
きっと、幸雄に弱気なところなどほとんど見せなかったに違いない。
近くで見れば汚れやほつれがあるかもしれないぬいぐるみを、どんな思いで抱いていたのだろう、あるいは、抱かれていたのだろう。
その部屋は、なんだか懐かしかった。
マサキが、入ることを夢想していた(入りたいと思っていた)彼女の部屋に近いようだった。
マサキにとって、彼女の「死」という事実を、それが押し付けてくる「悲しみ」を意識の外に置くことは割と容易い。
自分の中にいる島方美穂に、これまで何度も話しかけていた。
そしてこれからも。
「ふー」と幸雄が息を吐いた。
「ダメだ、あかないな」
パスワードを解除できない。
「妹さん、お姉さんは、最近どんな様子だった?」
不安そうな面持ちでパソコンの方を見ていた奈緒に、幸雄のすぐ背後に立つマサキが振り返って質問した。
マサキは、奈緒が姉より何歳下かは知らない。二十五くらいだろうか。その歳の差以上に、妹は姉よりも幼く見えた。
「姉は、とても疲れているように見えました」
憂いが面に出やすいのかもしれない。少し沈んだ口調で、悲しげな眼差しをマサキと幸雄に向けて話し始めた。
あるときまでは仕事のことで妹にもかなり愚痴っていたという。ラインや電話で。
その頃は姉が実家にくることは珍しく、くるときは大概幸雄と一緒だった。
「だから、姉が一人で家に帰ってきて泊まるようになったら、幸雄さんとうまくいってないんだと思ってました」
六月の終わりになると、美穂はほとんど毎日実家に帰ってくるようになった。
「別れたんだと思いました。でも、話を振ってもちゃんと言ってくれなくて。それがすごい心配だった」
結婚を保留したことも聞いていたという。
だから、幸雄とどうなったのか、聞いてもはっきり答えてくれない姉をひどく心配していた。
――美穂ちゃんは、相当やつれていたのか……。
マサキは、記憶の美穂と現実の奈緒の顔を比べてみる。失礼な話ではある。
マサキが幸雄に耳打ちする。幸雄が立ち上がり、妹を誘って部屋を出た。階段を二人分の足音が下っていった。
パス入力部分に並んだアスタリスクを見つめた。
幸雄は、薄く苦笑いを浮かべていたが、心中穏やかではなかっただろう。
愛する女性が、自らにかけた悪い魔法を解く鍵が、自分にはないことを突きつけられた彼氏の心情というのは。
フラクタルだ。
彼女の部屋は、きっと他の女性に比べたら、妹の部屋と比べても多分女っ気が少ないんじゃないか。
この部屋は、彼女とある種の相似であるはずだ。
マサキは椅子に座った。マサキの位置にトシが立つ。
トシを多少意識しつつ、アスタリスクをクリアし、両手をホームポジションに置いた。
入力する文字は決まっている。マサキの中の彼女は、いつでも〝あのとき〟の彼女なのだ。
Enterをパチンと叩く!
画面が、切り替わる。
ビンゴ!
表れた画面を見て、二人は言葉を失った。
その写真の意味がわかったとき、背中がゾワゾワと粟立った。
トシがすぐに後ろを向いて顔を逸らした。マウスの右クリックでウィンドを開く。
「彼氏を呼んでこい」
言い終わる前に動き出したトシに「彼氏だけだぞ」と念を押す。
壁紙の参照を確認して、プリセットされているものに交換した。