男前先生 (1)

文字数 5,287文字

 潮の香り、波の音、そう、すべては風が運んでくる。
「やっと着いたー!」
 先行するトシの後を追って、マサキも砂浜に一歩を踏み入れた。
「海だー!」
 午後二時の太陽が肌を焼く。トシの叫びを吹き消す、波と風の住まう場所、そう、ここは日本海。
 六月、入梅前の海は人影もまばらだ。
 だからこそきたと言っていい。人ごみに溢れた真夏の海などまっぴらだ。
 幸いにも天気はよく、白い雲に青い空、海の青が濃いのは日本海であるが故か。蒸し暑ささえも許せてしまう。
 砂浜の砂は足に絡みつくように重い。砂浜とは、こんなに粘るものだったか。
 マサキは海が久しぶりだった。
 勢い込んで入ってきたトシだったが、早くも海に向かってぼうっと立ち尽くしている。
 マサキは、声をかけず、そっと隣に立つ。
「先輩」
「ん?」
 後輩が溜息を吐き、一瞬溜めた。「先輩」ともう一度繰り返すと。
「なんで男同士で海にこなきゃならんのですか!」
「は?」
 海を眺めてなにを考えているかと思えば。
「女の子とくるはずだったのに! ちくしょー!」
 ――今さらなにを……。
 こうなることはわかっていたはず。言い出したのはトシのほうだ。しかも、運転を「先輩」に任せて!
「だって、誰もいないじゃないん! 水着ギャル、どこにいんの? いないじゃん!」
「いたところでどうにもならんだろ」
「可能性の問題ですよ! いや、どうにもならなくてもいい! 水着が見れれば!」
 よりにもよって、一番近くにいるのが若いカップルとは……。そんな目で見ないで。
「いいじゃないか、静かで」
 傷を癒すにはもってこい。
「いいか、ここはお前が、お前の無意識が望んだんだ。六月、ギャルなんかいない確率のが高い、それでもお前がここにきたのは、僅かな可能性にかけるためじゃない、女を忘れて、心の傷を癒したかったんだ。母なる海に抱かれて、日ごろの汚れを浄化するためだ」
 ギャルて。わたしとしたことが。
「そう、海に、風に、心を委ねるがいい。明日から、新しい関口歳に生まれ変わるために」
「せんぱい……」
 今日は日曜日だ。明日からまた仕事が始まる。
 簡単に生まれ変わることなどできないが、せめて明日一日だけでも世界が違って見えればいい。
 トシが後ろを振り向いた。過去を振り返ってもいい。現在に止まることなど、どうせできはしないのだ。
 俯いたって、後ろを振り返ったって、前へ、進む!
「だからって、だからって」
 潮風が男の涙を渇かすようだった。

 二日前の金曜日、成美と入れ替わりにトシがアパートを訪れる。時刻は二十一時半を過ぎていた。
「ほう、ふられたか」
 マサキはパソコンに向かって指を動かしている。画面から目を離さずに聞いた。
 金曜日など、休みの前は合コンなどして遊んでいることの多い男だ。華の金曜日にこんなむさっくるしい場所に、好んでくる男ではない。
「たまには先輩も飲みたいだろうと思って」
「いや、別に飲みたくはない。よし、帰っていいぞ」
 手に提げてきたビニール袋も無視。今日は、マサキも機嫌が斜めだ。
 ――キャッチャーに満塁弾など浴びやがって。
 交流戦明け一発目、ホークスは首位を追うライオンズにいきなり大敗。
 ピンチで踏ん張れずチャンスで打てず。いいとこなし。
 飲みたいといえば飲みたいが、どうせなら一人でやけ酒でも煽りたい。
 という、部屋主の言葉も気持ちも蔑ろにして、童顔男は、袋からビールと酎ハイの缶を(裸のこたつ改め)テーブルの上に出した。
「はい、先輩のチューハイ、つまみもあるから」
 ――間違いなく、ふられたな。
「ふられた」ことに一切触れずに一時間ほどが経った。
 マサキがトイレに立つ。小便をして水を流す。この部屋のトイレは水流の音が一際大きい。ユニットのバスルームに轟々と響く。
 その、轟音の隙間に聞こえたトシの声で。
 ――ん?
 マサキの知る人の名前が、トシの声で、聞こえたような。嫌な予感に限って外れない。
「そうそう、神さんがさ、クラミジア、性病にかかっちゃって、いけない、というか、いかないほうがいい、というか、そう、マジなんすよ、ねぇ、ほんと節操がないっつうか」
「おまえ、なにをやっている!」
「ちょっ、まっ、先輩、襲われる! 襲われてる! 神マサキに犯されるぅ!」
 わざわざ大声で叫びやがって!
 やっとのことで電話を取り返す、電話は既に切れていた。
 履歴を見ると、やはり、発信履歴にはバイト先でスケジュールを管理する女性の名前が。
「なにがしたいんだ、おまえは」
「先輩、お願いします!」
 トシが深々と頭を下げた。
「あ、もしもし、すいません、今わたしの携帯が見知らぬアホな酔っ払いの手に渡ってしまって、おい、こら、やめろ、おま」
 トシが飛びかかってきて、背後の万年床に押し倒される形になった。
 ――むしろ襲われているのはわたしのほうだ!
 なにやら必死な後輩に負けて「またすぐかけるんで、すいません」と電話を切った。
「わかった、わかったから、一旦離れろ、一旦離れよう」
 トシがいつもの場所に戻った。
 普段から情緒不安定気味な男ではあるが、ここまでひどいのは珍しい。気持ち悪い、といよりかわいそうになってきた。
「先輩、俺の誕生日知ってますよね」
「いや、知らないけど」
「誕生日が七月七日なんすけど」
 マサキは心の中で相槌を打つ。そう言えば七夕に産まれたとか言ってたな。
 トシの話によると、先週知り合った女性と仲良くなり、ラインで毎日連絡を取り合っていた。
「彼女は海が好きなんだって」
 マサキの脳裡にパァッと海が広がった。
 それは、南国の一面透き通るようなホワイトビーチにマリンブルー、ブルースカイの海景色ではなく、もっと荒々しいイメージ、子どものころ、家族でいった日本海。
「俺の誕生日が近いし」
 まだ二週間以上ある。大して近くはないが、それを口実に日曜日、即ち明後日海にいこうという話が一旦はまとまった。
 その先は聴くまでもない。急な用事ができていけなくなったと、ついさっきラインがきたそうだ。
「だから先輩、お願いします! 日曜日、一緒に海にいってください! このままじゃ悔しくて」
 目の前の男がこれほど後輩らしい姿をさらしたことなど、記憶にない。
「だから」に多少引っかかるが……。マサキは少し考えるような格好を見せて、電話をかけた。
「神ですけど、何回もすいません。明日はいけますが、いや、だいじょぶ、不審者の言うこと信じちゃダメです、クラミジア、性病、いやいや、空気感染なんかしないし、そもそもなってないし、そうじゃなくて、日曜、急で悪いんすけど、ちょっと休みたいんですけど、だいじょうぶでしょうか。はい、すいません、ほんと申し訳ない、いきなり、じゃあ、お休みなさい、失礼します」
「せんぱい!」
 再び、後輩にテイクダウンを許してしまった。
 果たして、ここにくる前から一緒に海にいこうと、そこまで必死に誘ってまでいこうと思っていたのかどうかは定かではないが、よほど堪えたのは確かだろう。
 マサキが仕事を休んで海にいこうと決めたのは、そんな後輩の思いに打たれたからではない。
 まず、休んだことに関しては、この時期、バイトはそもそも暇になる。出勤になってはいたが、二日前で常識には欠けるが、「用事があって」と言えば休めただろう。
 この後輩のすることは、実害はないが往々にして余計だ。
 もう一つは、「海」という語感がもたらしたもの、懐かしさ、記憶からほとんど消え去った潮騒の歌、そんな「リード・ハイマート」を聞きたくて……。
 ――こいつと一緒とはいえ……。
 逆に、こういうことでもなければなかなか海にいく機会もないだろう。
 俄かに日曜日が楽しみになってきた。
 機嫌のいいのをトシに悟られないように、マサキは暫し缶チューハイに酔いしれた。
 翌朝、後輩も叩き起こして、一緒にアパートを出た。

 トシがアパートを訪れた主な理由は、勿論酒を飲んで海に誘うことだったろう。
 酒を飲みながらの話の中で、トシの口からぽろっと零れ落ちた話があった。
 土曜日、マサキは、仕事が終わると、真っ直ぐ家には帰らず、途中の道を左に折れた。
 緑の梅林を抜け、道なりに春名町の文化会館を通り過ぎ、丁字にぶつかったところを右に折れる。
 信号を真っ直ぐ、春名中学を左手に見送り、信号を超え坂道をのぼる。
 およそ一ヶ月ぶりだが、懐かしさを憶える。
「懐かしさ」とは積分であろうか。
 現在と過去の「懐かしい」点の間に、「懐かしさ」に関わるできごとがどれだけ詰まっているか、どれだけのことを一瞬で思い出すか。
 車を左側にとめて、マサキは道を渡った。
 まだ夕方六時前だが、空は灰色の雲で覆われていて、地上は既に薄暗い。
 それでも、男の姿は、今日はジーンズにティーシャツとカジュアルな姿でもあるが、会う度ごとに明るくなっていくようだった。
 きた道を少し戻る感じもあのときと同じ。男がそこで待っていた。足元に悲しみはない。
 二人、並んでもお互い挨拶も交わさない。闇に浸りつつある田んぼから山から建物の風景を見るともなく眺めた。
「仕事終わりに呼び出したりして悪かった」
「別に、問題ない。しかし、ここで会うというのは」
「この場所には運命的なものを感じる」
 マサキも同じだった。お互いにとって、相手が「運命の人だ!」ではない。
 ここは、「始まりの場所」だ。
 この場所こそ、実はあの「春名のシリアル・キラー」が住んでいる場所だった。
 あの猫の魂は、二人を引き合わせただけではなかった。二人は体を回して、田んぼと反対側に立ち並ぶ住宅をぐるっと見渡した。
 トシは掲示板上に踊った男子の名前から住所を調べていた。その住所がこの近くだった。
 はっきりと「犯人」だと断定できる材料は未だない。
「神さんと成美ちゃんがきてくれた夜から三週間、喉を切られた猫はいない。少なくとも、俺のサイトにはない。だからそいつが犯人だ、なんて断定するつもりもない。三人で弔った猫が最後になることを願うだけだ」
 マサキは足元を見る。成美の声が頭を掠めると、足首に絡む猫の姿が見えるようだった。
 ――わたしは、霊的なものを感じる能力を信じる。
 霊を感じた、見た、聞いた、首を絞められた。
 非科学的だと笑う人もいるが、「感じる」人の言葉は現象学的に無視はできないはずだ。
 霊の存在非存在を云々するのではなく、語る人の言葉には、耳を傾ける必要がある。
 そこを無視するということは、結局その人を無視することと同じことだ。
「その子が、動物愛護法違反を犯したということは確かなのか?」
「わたしが直接確認したわけじゃないが、トシがそう言っていた」
 昨日のトシを思い出す。マサキは、だらしなく先輩にくだを巻く後輩の情報に、ときに疑いを挟まない。
「県警のホームページからでは、犯人の個人情報に関わるようなことは、それほど詳しくは調べられない。しかも、中学生では」
「いったい、ヤツがどうやって調べたかはわからないが、あいつの情報収集はときに日本の法をかいくぐる。無事にかいくぐっているのかばれていないだけなのかは、わからないけど。いい加減なことも言うが、このことに関しては信用していいと思う」
「なるほど」
 闇が、足元から這い上がってくる。
 着ている服が黒く染まりつつある中で、風史の顔がぼうと浮かぶ。田んぼの畦の段差によって二人の身長差はほとんどない。
 風史は、話をするとき、ほとんど人の(マサキの)顔を見ない。
 普通なら「失敬な」となるとこだが、マサキにとっては、そのほうが話しやすかった
「また神さんの部屋で鍋でもやりたいもんだ」
「明日、トシと一緒に海にいくことになっている」
 お互い、何気ない言葉だったに違いない。「言った」こと以上に深い意味はなかったに違いない。

 砂浜に一番乗りしたトシが、切なさの滲む瞳で後ろを振り向く。
 真下風史は、唇の端を少し上げて、クールな笑顔を作りながらゆっくりこちらに歩いてきていた。
 マサキとして、「海にいくことになっている」という中に勧誘の意図など入れていなかった。
 草陰から虫たちの声が静かに湧き上がる中、風史が「俺もいっていいか」と言ったことに、実際意外な思いは少なかった。嬉しかった。
 そこで気づいた。
 ――最も自分にダメージの少ない勧誘だったな。
 相手に「いっていいか」と言わせる、少しずるいやり方だったか。
 風史は身長が高く、スタイルもいいし顔もいい。彼女がいないのが不思議だ。多少、変わり者ではあるだろうが。
 風史もいくとトシに話したとき、トシはむしろ喜んだようだ。
 口には出さなかったが、顔にははっきり出ていただろう。電話の向こう、トシのにやけたツラがありありと浮かんだ。
 なんなら、女の子を連れてきてくれるんじゃないか、くらいは考えたかもしれない。
 例え、男だけで海に向かうことになっても、現地でなんとか……。という思いは、もろくも崩れ去った。「だからって」とトシが嘆いた一つ目だ。
 二つ目の「だからって」に込められた、トシの嘆きというのは……。
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