夏休み (1)
文字数 6,831文字
金曜日、昼休み、幸雄は屋上に向かった。八階から階段を登る。
屋上のドアを「二人」が開けた、幸雄の脳はそんな映像を描いていた。
誰にすれ違うこともなく外に出た。
ぱっと五感が開放された。太陽が眩しい。まるで熱がここに集まっているかのような熱さ。
コンクリート打ちっ放しの屋上は、肉体が蒸発するほどに暑かった。
さっき、佐々木と倉橋を見た。二人を見たのはアレ以来だった。ずっと休んでいたのだろうか。
正直、特に何も感じなかった。
無論、許すとか許さないとかそんなレベルの話ではない。二度と、どれだけ時間が経っても「友だち」と思える日はこない。
それでも、憎しみや怒りはなかった。ゲームのモブキャラのような感じか。ただ「いる」だけ。
これまで「強い力」を伝えるグルーオンのやりとりがあったのが、今は「弱い力」を伝えるウィークボソンの移動もない。
友だちとして強い結びつきを感じていたのが、会って感情がいささかも変化することがない……。
今週、月曜日の夜。
幸雄がビールを飲みながらソファーでぼーっとしているところにマサキから電話がかかってきた。
この一週間、いや二週間が頭の中を駆け抜ける。
話をするかどうか、一瞬迷った。
「はい」
こんばんは、という向こうの声はまるで普段と同じだった。こっちが魂抜けたようになっているというのに。
――B型め。
昨日のことでちょっと話があるという。
「佐々木のことなんだが」と言ってから間が空いた。少し、イラッとした。
「はっきり言ってください」言おうとしら、先に言われた。
「はっきり言おう。あいつのパソコン、美穂さんだらけだった」
「は?」
やはり意図がわからない。「だらけ」とはどういうことか?
それを奪い取りにいったんだろうが。
「壁紙からデスクトップのアイコンまで全部美穂さん」
「え?」
「ちょっと中見たら、そりゃもう美穂さん美穂さん美穂さん。古くは六、七年前の画像から、盗み撮り。一言で言えば」
「ちょ……、ま」
このB型が何を言っているのか、理解できない。いや……。
「ストーカーだ、美穂さんの。佐々木はやっぱり美穂さんのストーカーだった」
カチ、と音がしたようだった。幸雄の中でずれていたものがはまった。
「好きになれない」と言った美穂の、「彼女」の言葉がひどい重量を持って「彼氏」の体にのしかかる。
「ストーカーって……」
そういうことだ、言ったマサキの言葉はをさらっと流れる。
もしかしたら、美穂は何か実害にあっていたのか、幸雄と佐々木の仲を思って言わなかったのか……。
「バカな……」
マサキも黙ってしまった。
「バカ」と言ったその中には、自分も美穂も佐々木も、そしてマサキも入っていた。
なんでそんなことを教えるのか、教えたのか。性懲りもなく、電話が話し始めた。
「なにかが現実になったとき、それが〝思いもよらなかった〟ものであるよりも、〝そんなはずはないと打ち消した〟ものであったときのほうがショックは大きい、と本で読んだ」
「それが?」
「さあ」
――畜生、あんたはいつもそうやって……。
マサキは話を続けていたようだが、幸雄の脳内聴覚野を刺戟することはなかった。
「神さんあんたB型でしょ?」
「いや、典型的なA型」
おやすみ、と電話が切れた。
「なにが『さあ』だ」
ムカつくマサキの顔が、今はまったく思い出せない。出てくるこの男は、いったい誰だ……。
「よりショックが大きい」とあの人は言った。
今自分が感じているショック、この痛み苦しみが「より大きい」のかそうでないかは、わからない。
わかるはずがない。
「美穂……」
ごめん、とは言えなかった。もう彼女を悲しませたくない。酔いがさめていた。
この炎天下にこの屋上で何やってんだ、自分に言ってみる。
さっきまでベンチで昼寝している(?)強者がいたが、もう下がった。
腕時計を見る、十二時三十分。こんなところにいつまでもいたら余計に疲れそうだが。
「こんなところにいたんですか」
聞き覚えのあるようなないような声。横を見る。輝く黒縁眼鏡。一瞬「典型的A型」を思った。
「山ちゃん」
ワイシャツ姿の山木は体の線がいっそう細く見える。顔も魚の白身のように白い。
「それは?」
山木が手に持っているA4大の茶封筒を催促したのは、とっとと用件を済ませてくれ、という無意識だったかもしれない。
「あ、はい」と言いつつ幸雄に渡そうとしない。少し、イラッとした。
――俺にじゃないのか?
「あの、島方さんに、頼まれたんです」
「え?」
山木の口からその名前が出たことに驚き、そしてまた少し、イラッ。
「頼まれたって、なにを?」
「今から一ヶ月半くらい前に、島方さんに課長と部長のこと調べてくれって頼まれたんです」
「オッハー」
「は?」
「いや、違う、なんでもない」
美穂のブログに出ていた「オッハー」、頼りになると書いてあった「オッハー」とは、まさか山木のことだった……。
血液にゴーヤーエキスが混じりこんだような、そんな苦々しさが全身を駆け巡る。
美穂が彼氏よりも先に頼りにした二人の男が……。
「で、その封筒が」
「はい」
幸雄が封筒を受け取り、中身を取り出した。数字の並んだ、何か表のようなもの。
オッハー山木が言う。
美穂に頼まれて星尾と岡野のことを調べ始めてすぐ、五年前のセクハラ事件のことが出てきた。
山木がQCに配属される少し前のことだったが、ほとんど記憶にはなかった。
そのセクハラ事件を調べていく中で、ネット上の本人が書いたと思しきブログに当たった。
本名ではないユーザーネームであり、無論確証はない。
日付を見ると、退職した少し後に書かれたものらしい。
そのブログの中に「見舞金」という言葉が出てきた。しかも具体的な金額まで。
「三百万?」
幸雄は金額に驚いてはみたが、今自分が見ている資料にいったいどんな意味があるのかはまだわかっていない。
二人は屋上に出るドアの内側に入っている。
「あの星尾と岡野がそんな大金を渡すとは。さすがに心が痛んだか。いや」
そんなやつらじゃない。自分の首が危ないと踏んだんだろう。裁判沙汰になどされたら終わりだ。
にしても三百万……、ピーン!
「まさか、その金、会社の」
横目で見た黒縁眼鏡が小さく上下した。階段を窺う。誰もいなさそうだ。少し声を落として「その証拠がこれか」。
「はい」山木の返事も周りを意識したものだった。
「裏金、プール金です」
「裏金?」
「はい。架空明細、架空発注、空出張、水増し」
「そういうことかい」
まさか自分の会社でそんなことしてるやつがいるとは……、と驚くほど幸雄もお人好しではない。むしろ、星尾や岡野にお似合いだ。
「にしても、よく五年前の資料なんて手に入ったな。やるね、山ちゃん」
「はい、いや、すいません。それ五年前の資料じゃないんです」
「え? というと?」
「実は」
山木の顔があからさまに暗くなった。珍しいことだ。幸雄は腕時計を見る。
「その話、長くなるか?」
「いえ、あ、はい、なります」
山木も腕時計を見た。昼休みが終わるまで十分を切っている。
この話は一旦打ち切り。二人は階段を降りた。
今日は定退日だ。幸雄から山木に「定時前にまた電話する」ということで、山木は五階、幸雄は一階までエレベーターで降りていった。
山木が「見た」というブログが、ほんとに星尾か岡野のものかはわからない。
ユーザーネームを使ってるとはいえ、ブログに「そんなこと書くか」という考えは当然、あるだろう。
そのブログの信憑性などはしかし、どうでもいいことだ。それにかかわる資料が、数字が、現れているのだから。
そのブログが、山ちゃんがでっちあげたものだとしても。
もしくは、彼女が仕込んでいたものだとしても。
ものだとしても……。
だとしたら……。
仕事終わり、黒い雲からゴロゴロと鳴る中、山木に歩いて連れていかれたのは、駅の西側、繁華街の一角にある建物の地下だった。
薄暗い店内、およそ夕方六時にくるような場所とは思えない、ここはBar。山木が「たまにふらっとくるんです」という。
――ふらっとって……。
この時間にバー、しかも山ちゃんが、という驚きは小さくない。
店内の一番奥のテーブル。確かにここなら会社の人間誰もこないだろうが。
あっけに取られる幸雄をよそに、山木は「小松崎さん車ですよね、ウーロン茶でいいすか、なんか食べますか? 自分はナポリタンで、けっこう美味いんすよ。小松崎さんも同じでいいすか、じゃあ、それも二つで」と、マスターに注文する。
幸雄はただただ頷くばかり。
――バーでウーロン茶でナポリタン……。
どこかで別の人間と入れ替わったか?
煙草まで吸い始めないかとヒヤヒヤしたが、それはなさそうだ。
ウーロン茶が二つ、すぐに運ばれてくる。
それからナポリタン×2がくるまでの五分間は、幸雄にとって状況を飲み込むのに長すぎる時間ではなかった。
ナポリタンを腹に入れると、とりあえず落ち着いた。
「ここがバーである」ということはなるべく考えず、目の前にいるのが山木であり、二人は今話すのにとても都合のいい場所にいるということだけを考えるようにした。
空いた皿を下げてもらい、そこに昼間の封筒を出す。「昼休みの続きを聞こう」と、幸雄はできるだけ会社の先輩らしさを失わないように切り出した。
淡い光に鈍く光る眼鏡にだけ意識を集中した。
山木は話し始めた。
「この資料は、実はここ一、二年ほどのものなんです」
山木は、入社して半年ほど経ったときに突如QCに異動になった。
「戸塚さんの事件のせいだったのか、て思ったのは最近です」
戸塚香織。セクハラが原因で会社を辞めた女性の名前。タイミング的にそう考えるのが妥当であろう。
領収書の改ざんや水増しなどが行われていることはすぐにわかった、なんとなくではあるが。
じっくり調べ始めたのは美穂に頼まれた後であり、なかなか昔の証拠などを得るのは難しかった。
しかも、星尾や岡野、さらに美穂を除く他のQCの人間にもばれないようにしなければならない。
美穂と社内で話すこともままならず、やり取りは主にパソコンのメールだった。
――山ちゃん、オッハーからのメールはなかったと思うが……。
受信フォルダが違うのか。またどこかに「隠して」あったのか。美穂自身も時間を見つけ目を盗んで「証拠」集めをしてくれたという。
「領収書やレシート、発注書のコピーも何枚か家にあります」
現在把握できているのはここ一、二年ほどだが、
「恐らくその前から行われていて、戸塚さんに支払われた見舞金もそこから出たものでしょう」
間違いあるまい。
幸雄は一度完全に山木から意識を外した。顔を落としテーブルの上に置かれた資料をじっと見つめた。
幸雄の頭を二つのことが重くした。
一つは、これだけのものを用意させておきながら、なぜ彼女は自ら命を絶ったのか。
もう一つは、と考えたとき、実はそれが「二つ」ではなく「一つ」なのではないかということに思い至った。つまり、
――この資料では弱いんじゃないか。
即ち、彼女も「これではヤツラを抹殺できない」と感じていた、だから自ら未来を断ち切った……。
「島方さんがこんなことになって、どうしようかずっと迷ってました。いっそ公表しちゃおうか、とも思いました」
幸雄の思考を打ち消すかのように山木が話し始めた。打ち消すかのような強気は、すぐに萎えたようだ。
「いや、すいません。自分でもわかってるんです。これじゃまだ弱い、だから島方さんもゴーサインを出さなかった、出せなかったんだ、て……。役に立たなかった」
灯りの弱い店内で、眼鏡の奥の表情はよくわからない。
ただ、この普段わかりづらい男も、今回かなり迷い悩んだであろうことは十分伝わってきた。
「ありがとう」
「はい?」
「彼女のブログに山ちゃんのことが書いてあった。頼りにしてるって。いや、皮肉で言ったわけじゃない。山ちゃんが同じ部署にいてくれて、マジで心強かったと思う。彼女に代わって礼を言うよ。ほんとにありがとう」
「はい、いや、そんな、自分なんか、ほんとなんにも」
「ありがとう」
自分でも驚くほど気持ちのこもった、素直な「ありがとう」だった。
なぜ彼女があんなクソどものために自ら命を絶たなければならなかったのか。
改めて胸が苦しくなる。戸塚香織だって、もちろん苦しみが「より軽かった」などと言うことはできないが(思いがちではあるが)、会社を辞めて、今も頑張って生きているというのに……。
「五年前か。五年前……、えっと、五年前って言うと、誰がいたんだ」
セピア色の「五年前」から何かが浮かび上がってくる。
決して風化させてはいけないとはわかっている、しかし自分とは直接関係ない、そんな風に感じていた「五年前」。
口にした直後に後悔した、しかし「すべきではない」と即座に打ち消したらしい、幸雄の無意識。
山木があっさりと言ってのけた。星尾部長、あ、今はですけど、岡野さん、あと。
「倉橋さん」
幸雄のエネルギーを吸い取り、「五年前」が血肉を持って鮮やかに蘇る。
地上に戻った二人を、路面の煌きと金曜の賑わいが包んだ。
幸雄が腕時計を見た。時刻はもうすぐ八時。地面は濡れているが、雨はすっかりやんで空には星が見えている。
「帰るか」
言った幸雄を先にして二人は歩き始めた。
夕立後の空気は、季節を忘れるほど(あるいはこの季節だからこそ余計に)爽やかだった。
「もうやめたのか?」
後ろを歩く山木に声をかける。「はい?」言いながら少し距離を詰めた。
「この資料、これでもう終わりにするのか?」
「はい、いや、まだ続けようかと思ってます」
「告発するのか?」
「いや、はぁ」
煮え切らないように聞こえるが、その実しっかり考えを持っていることは幸雄にもわかっている。
歩みを止めることなく話を続ける、まるで、追いつかれたくないかのように。
「辞めるのか、会社」
「はい、いえ……。まだはっきりわかりません。告発するしないはわかりませんが、もう少し調査してある程度はっきりしたら、辞めるかもしれません」
「辞めてどうする? 考えがあるのか?」
「はい。なれるかどうかはわかりませんが、法律の勉強をしようかと」
「弁護士か? 行政書士とか司法書士?」
「はい、いや、あの、目指せ弁護士」
弁護士と聞いて「セクハラ」という言葉が浮かんだ。
「もしかして、美穂……、島方さんのことが?」
「いえ、はい、あの、前から漠然と考えてはいました。島方さんのことがあって、はっきり決めました」
「そうか」と言うより他に言葉がなかった。「がんばれよ」という言葉は浮かんだが、言うことはなかった。
「この資料、もらっていいか?」
「はい、どうぞ。マスターは自分のPCにありますから」
山木の実家は新潟だという。今は会社の寮に住んでいた。
県外出身者はたいがいあの寮を経験する。幸雄も、自分が寮にいたころを思い出し、後ろの男と比べた。
寮にいたころの自分は、ただ生きていただけだった。仕事して同僚とつるんで飲み屋で愚痴並べて。
つい最近までそうだった。
彼女と付き合い始めてから……、いや、彼女がいなくなってからだ、真剣に自分と向き合ったのは。
初めて山木を見たとき、はっきり言ってバカにしていた。つまらない人間と見下した。
今は違う。しっかり「向き合っている」人間であることを認めていた。それを認めている幸雄自身を、自分で少し見直してもいるようだった。
「じゃあ、先輩、おやすみなさい」
後ろから声がかかった。何気なく通り過ぎたが、そこがわかれ道だった。
幸雄の駐車場はもう少し先。「おやすみ」を交換する、山木は街灯もまばらな暗い道をさっさと歩いていく。どんどん離れて小さくなる、幸雄はずっと見ている。
「山木! ありがと!」
足を止めて振り返り、丁寧に体を折る後輩に、大きく手を振った。
恥ずかしいようでもあり、再び歩き始めた幸雄の顔は暫くにやけたままだった。
あるいは、嬉しかったようでもあり。
美穂が山木にゴーサインを出さなかった理由がもう一つある。
――巻き込みたくなかった。
無論、幸雄の想像ではある。
美穂のことがあってから、弁護士というのがはっきり見えた、と後輩は言った。「辞めるかも」という話は、きっと美穂にはしていないだろう。
そんな話を聞かせれば、美穂は止めるだろうし、あるいは、山木を遠ざけたに違いない。山木に害が及ばないようにしたかった。
だから、それが「不十分」と見るや、自分で〝責任〟をとったのだ……。
車に乗る。この後どうするか?
すんなり帰る、という気分にはならない。
「先輩、か」
山木に初めてそう呼ばれた。会社に勤めて誰かにそう呼ばれたのは初めてだったかもしれない。
先輩。身近でそう呼ばれる人間に、電話をかけていた。
屋上のドアを「二人」が開けた、幸雄の脳はそんな映像を描いていた。
誰にすれ違うこともなく外に出た。
ぱっと五感が開放された。太陽が眩しい。まるで熱がここに集まっているかのような熱さ。
コンクリート打ちっ放しの屋上は、肉体が蒸発するほどに暑かった。
さっき、佐々木と倉橋を見た。二人を見たのはアレ以来だった。ずっと休んでいたのだろうか。
正直、特に何も感じなかった。
無論、許すとか許さないとかそんなレベルの話ではない。二度と、どれだけ時間が経っても「友だち」と思える日はこない。
それでも、憎しみや怒りはなかった。ゲームのモブキャラのような感じか。ただ「いる」だけ。
これまで「強い力」を伝えるグルーオンのやりとりがあったのが、今は「弱い力」を伝えるウィークボソンの移動もない。
友だちとして強い結びつきを感じていたのが、会って感情がいささかも変化することがない……。
今週、月曜日の夜。
幸雄がビールを飲みながらソファーでぼーっとしているところにマサキから電話がかかってきた。
この一週間、いや二週間が頭の中を駆け抜ける。
話をするかどうか、一瞬迷った。
「はい」
こんばんは、という向こうの声はまるで普段と同じだった。こっちが魂抜けたようになっているというのに。
――B型め。
昨日のことでちょっと話があるという。
「佐々木のことなんだが」と言ってから間が空いた。少し、イラッとした。
「はっきり言ってください」言おうとしら、先に言われた。
「はっきり言おう。あいつのパソコン、美穂さんだらけだった」
「は?」
やはり意図がわからない。「だらけ」とはどういうことか?
それを奪い取りにいったんだろうが。
「壁紙からデスクトップのアイコンまで全部美穂さん」
「え?」
「ちょっと中見たら、そりゃもう美穂さん美穂さん美穂さん。古くは六、七年前の画像から、盗み撮り。一言で言えば」
「ちょ……、ま」
このB型が何を言っているのか、理解できない。いや……。
「ストーカーだ、美穂さんの。佐々木はやっぱり美穂さんのストーカーだった」
カチ、と音がしたようだった。幸雄の中でずれていたものがはまった。
「好きになれない」と言った美穂の、「彼女」の言葉がひどい重量を持って「彼氏」の体にのしかかる。
「ストーカーって……」
そういうことだ、言ったマサキの言葉はをさらっと流れる。
もしかしたら、美穂は何か実害にあっていたのか、幸雄と佐々木の仲を思って言わなかったのか……。
「バカな……」
マサキも黙ってしまった。
「バカ」と言ったその中には、自分も美穂も佐々木も、そしてマサキも入っていた。
なんでそんなことを教えるのか、教えたのか。性懲りもなく、電話が話し始めた。
「なにかが現実になったとき、それが〝思いもよらなかった〟ものであるよりも、〝そんなはずはないと打ち消した〟ものであったときのほうがショックは大きい、と本で読んだ」
「それが?」
「さあ」
――畜生、あんたはいつもそうやって……。
マサキは話を続けていたようだが、幸雄の脳内聴覚野を刺戟することはなかった。
「神さんあんたB型でしょ?」
「いや、典型的なA型」
おやすみ、と電話が切れた。
「なにが『さあ』だ」
ムカつくマサキの顔が、今はまったく思い出せない。出てくるこの男は、いったい誰だ……。
「よりショックが大きい」とあの人は言った。
今自分が感じているショック、この痛み苦しみが「より大きい」のかそうでないかは、わからない。
わかるはずがない。
「美穂……」
ごめん、とは言えなかった。もう彼女を悲しませたくない。酔いがさめていた。
この炎天下にこの屋上で何やってんだ、自分に言ってみる。
さっきまでベンチで昼寝している(?)強者がいたが、もう下がった。
腕時計を見る、十二時三十分。こんなところにいつまでもいたら余計に疲れそうだが。
「こんなところにいたんですか」
聞き覚えのあるようなないような声。横を見る。輝く黒縁眼鏡。一瞬「典型的A型」を思った。
「山ちゃん」
ワイシャツ姿の山木は体の線がいっそう細く見える。顔も魚の白身のように白い。
「それは?」
山木が手に持っているA4大の茶封筒を催促したのは、とっとと用件を済ませてくれ、という無意識だったかもしれない。
「あ、はい」と言いつつ幸雄に渡そうとしない。少し、イラッとした。
――俺にじゃないのか?
「あの、島方さんに、頼まれたんです」
「え?」
山木の口からその名前が出たことに驚き、そしてまた少し、イラッ。
「頼まれたって、なにを?」
「今から一ヶ月半くらい前に、島方さんに課長と部長のこと調べてくれって頼まれたんです」
「オッハー」
「は?」
「いや、違う、なんでもない」
美穂のブログに出ていた「オッハー」、頼りになると書いてあった「オッハー」とは、まさか山木のことだった……。
血液にゴーヤーエキスが混じりこんだような、そんな苦々しさが全身を駆け巡る。
美穂が彼氏よりも先に頼りにした二人の男が……。
「で、その封筒が」
「はい」
幸雄が封筒を受け取り、中身を取り出した。数字の並んだ、何か表のようなもの。
オッハー山木が言う。
美穂に頼まれて星尾と岡野のことを調べ始めてすぐ、五年前のセクハラ事件のことが出てきた。
山木がQCに配属される少し前のことだったが、ほとんど記憶にはなかった。
そのセクハラ事件を調べていく中で、ネット上の本人が書いたと思しきブログに当たった。
本名ではないユーザーネームであり、無論確証はない。
日付を見ると、退職した少し後に書かれたものらしい。
そのブログの中に「見舞金」という言葉が出てきた。しかも具体的な金額まで。
「三百万?」
幸雄は金額に驚いてはみたが、今自分が見ている資料にいったいどんな意味があるのかはまだわかっていない。
二人は屋上に出るドアの内側に入っている。
「あの星尾と岡野がそんな大金を渡すとは。さすがに心が痛んだか。いや」
そんなやつらじゃない。自分の首が危ないと踏んだんだろう。裁判沙汰になどされたら終わりだ。
にしても三百万……、ピーン!
「まさか、その金、会社の」
横目で見た黒縁眼鏡が小さく上下した。階段を窺う。誰もいなさそうだ。少し声を落として「その証拠がこれか」。
「はい」山木の返事も周りを意識したものだった。
「裏金、プール金です」
「裏金?」
「はい。架空明細、架空発注、空出張、水増し」
「そういうことかい」
まさか自分の会社でそんなことしてるやつがいるとは……、と驚くほど幸雄もお人好しではない。むしろ、星尾や岡野にお似合いだ。
「にしても、よく五年前の資料なんて手に入ったな。やるね、山ちゃん」
「はい、いや、すいません。それ五年前の資料じゃないんです」
「え? というと?」
「実は」
山木の顔があからさまに暗くなった。珍しいことだ。幸雄は腕時計を見る。
「その話、長くなるか?」
「いえ、あ、はい、なります」
山木も腕時計を見た。昼休みが終わるまで十分を切っている。
この話は一旦打ち切り。二人は階段を降りた。
今日は定退日だ。幸雄から山木に「定時前にまた電話する」ということで、山木は五階、幸雄は一階までエレベーターで降りていった。
山木が「見た」というブログが、ほんとに星尾か岡野のものかはわからない。
ユーザーネームを使ってるとはいえ、ブログに「そんなこと書くか」という考えは当然、あるだろう。
そのブログの信憑性などはしかし、どうでもいいことだ。それにかかわる資料が、数字が、現れているのだから。
そのブログが、山ちゃんがでっちあげたものだとしても。
もしくは、彼女が仕込んでいたものだとしても。
ものだとしても……。
だとしたら……。
仕事終わり、黒い雲からゴロゴロと鳴る中、山木に歩いて連れていかれたのは、駅の西側、繁華街の一角にある建物の地下だった。
薄暗い店内、およそ夕方六時にくるような場所とは思えない、ここはBar。山木が「たまにふらっとくるんです」という。
――ふらっとって……。
この時間にバー、しかも山ちゃんが、という驚きは小さくない。
店内の一番奥のテーブル。確かにここなら会社の人間誰もこないだろうが。
あっけに取られる幸雄をよそに、山木は「小松崎さん車ですよね、ウーロン茶でいいすか、なんか食べますか? 自分はナポリタンで、けっこう美味いんすよ。小松崎さんも同じでいいすか、じゃあ、それも二つで」と、マスターに注文する。
幸雄はただただ頷くばかり。
――バーでウーロン茶でナポリタン……。
どこかで別の人間と入れ替わったか?
煙草まで吸い始めないかとヒヤヒヤしたが、それはなさそうだ。
ウーロン茶が二つ、すぐに運ばれてくる。
それからナポリタン×2がくるまでの五分間は、幸雄にとって状況を飲み込むのに長すぎる時間ではなかった。
ナポリタンを腹に入れると、とりあえず落ち着いた。
「ここがバーである」ということはなるべく考えず、目の前にいるのが山木であり、二人は今話すのにとても都合のいい場所にいるということだけを考えるようにした。
空いた皿を下げてもらい、そこに昼間の封筒を出す。「昼休みの続きを聞こう」と、幸雄はできるだけ会社の先輩らしさを失わないように切り出した。
淡い光に鈍く光る眼鏡にだけ意識を集中した。
山木は話し始めた。
「この資料は、実はここ一、二年ほどのものなんです」
山木は、入社して半年ほど経ったときに突如QCに異動になった。
「戸塚さんの事件のせいだったのか、て思ったのは最近です」
戸塚香織。セクハラが原因で会社を辞めた女性の名前。タイミング的にそう考えるのが妥当であろう。
領収書の改ざんや水増しなどが行われていることはすぐにわかった、なんとなくではあるが。
じっくり調べ始めたのは美穂に頼まれた後であり、なかなか昔の証拠などを得るのは難しかった。
しかも、星尾や岡野、さらに美穂を除く他のQCの人間にもばれないようにしなければならない。
美穂と社内で話すこともままならず、やり取りは主にパソコンのメールだった。
――山ちゃん、オッハーからのメールはなかったと思うが……。
受信フォルダが違うのか。またどこかに「隠して」あったのか。美穂自身も時間を見つけ目を盗んで「証拠」集めをしてくれたという。
「領収書やレシート、発注書のコピーも何枚か家にあります」
現在把握できているのはここ一、二年ほどだが、
「恐らくその前から行われていて、戸塚さんに支払われた見舞金もそこから出たものでしょう」
間違いあるまい。
幸雄は一度完全に山木から意識を外した。顔を落としテーブルの上に置かれた資料をじっと見つめた。
幸雄の頭を二つのことが重くした。
一つは、これだけのものを用意させておきながら、なぜ彼女は自ら命を絶ったのか。
もう一つは、と考えたとき、実はそれが「二つ」ではなく「一つ」なのではないかということに思い至った。つまり、
――この資料では弱いんじゃないか。
即ち、彼女も「これではヤツラを抹殺できない」と感じていた、だから自ら未来を断ち切った……。
「島方さんがこんなことになって、どうしようかずっと迷ってました。いっそ公表しちゃおうか、とも思いました」
幸雄の思考を打ち消すかのように山木が話し始めた。打ち消すかのような強気は、すぐに萎えたようだ。
「いや、すいません。自分でもわかってるんです。これじゃまだ弱い、だから島方さんもゴーサインを出さなかった、出せなかったんだ、て……。役に立たなかった」
灯りの弱い店内で、眼鏡の奥の表情はよくわからない。
ただ、この普段わかりづらい男も、今回かなり迷い悩んだであろうことは十分伝わってきた。
「ありがとう」
「はい?」
「彼女のブログに山ちゃんのことが書いてあった。頼りにしてるって。いや、皮肉で言ったわけじゃない。山ちゃんが同じ部署にいてくれて、マジで心強かったと思う。彼女に代わって礼を言うよ。ほんとにありがとう」
「はい、いや、そんな、自分なんか、ほんとなんにも」
「ありがとう」
自分でも驚くほど気持ちのこもった、素直な「ありがとう」だった。
なぜ彼女があんなクソどものために自ら命を絶たなければならなかったのか。
改めて胸が苦しくなる。戸塚香織だって、もちろん苦しみが「より軽かった」などと言うことはできないが(思いがちではあるが)、会社を辞めて、今も頑張って生きているというのに……。
「五年前か。五年前……、えっと、五年前って言うと、誰がいたんだ」
セピア色の「五年前」から何かが浮かび上がってくる。
決して風化させてはいけないとはわかっている、しかし自分とは直接関係ない、そんな風に感じていた「五年前」。
口にした直後に後悔した、しかし「すべきではない」と即座に打ち消したらしい、幸雄の無意識。
山木があっさりと言ってのけた。星尾部長、あ、今はですけど、岡野さん、あと。
「倉橋さん」
幸雄のエネルギーを吸い取り、「五年前」が血肉を持って鮮やかに蘇る。
地上に戻った二人を、路面の煌きと金曜の賑わいが包んだ。
幸雄が腕時計を見た。時刻はもうすぐ八時。地面は濡れているが、雨はすっかりやんで空には星が見えている。
「帰るか」
言った幸雄を先にして二人は歩き始めた。
夕立後の空気は、季節を忘れるほど(あるいはこの季節だからこそ余計に)爽やかだった。
「もうやめたのか?」
後ろを歩く山木に声をかける。「はい?」言いながら少し距離を詰めた。
「この資料、これでもう終わりにするのか?」
「はい、いや、まだ続けようかと思ってます」
「告発するのか?」
「いや、はぁ」
煮え切らないように聞こえるが、その実しっかり考えを持っていることは幸雄にもわかっている。
歩みを止めることなく話を続ける、まるで、追いつかれたくないかのように。
「辞めるのか、会社」
「はい、いえ……。まだはっきりわかりません。告発するしないはわかりませんが、もう少し調査してある程度はっきりしたら、辞めるかもしれません」
「辞めてどうする? 考えがあるのか?」
「はい。なれるかどうかはわかりませんが、法律の勉強をしようかと」
「弁護士か? 行政書士とか司法書士?」
「はい、いや、あの、目指せ弁護士」
弁護士と聞いて「セクハラ」という言葉が浮かんだ。
「もしかして、美穂……、島方さんのことが?」
「いえ、はい、あの、前から漠然と考えてはいました。島方さんのことがあって、はっきり決めました」
「そうか」と言うより他に言葉がなかった。「がんばれよ」という言葉は浮かんだが、言うことはなかった。
「この資料、もらっていいか?」
「はい、どうぞ。マスターは自分のPCにありますから」
山木の実家は新潟だという。今は会社の寮に住んでいた。
県外出身者はたいがいあの寮を経験する。幸雄も、自分が寮にいたころを思い出し、後ろの男と比べた。
寮にいたころの自分は、ただ生きていただけだった。仕事して同僚とつるんで飲み屋で愚痴並べて。
つい最近までそうだった。
彼女と付き合い始めてから……、いや、彼女がいなくなってからだ、真剣に自分と向き合ったのは。
初めて山木を見たとき、はっきり言ってバカにしていた。つまらない人間と見下した。
今は違う。しっかり「向き合っている」人間であることを認めていた。それを認めている幸雄自身を、自分で少し見直してもいるようだった。
「じゃあ、先輩、おやすみなさい」
後ろから声がかかった。何気なく通り過ぎたが、そこがわかれ道だった。
幸雄の駐車場はもう少し先。「おやすみ」を交換する、山木は街灯もまばらな暗い道をさっさと歩いていく。どんどん離れて小さくなる、幸雄はずっと見ている。
「山木! ありがと!」
足を止めて振り返り、丁寧に体を折る後輩に、大きく手を振った。
恥ずかしいようでもあり、再び歩き始めた幸雄の顔は暫くにやけたままだった。
あるいは、嬉しかったようでもあり。
美穂が山木にゴーサインを出さなかった理由がもう一つある。
――巻き込みたくなかった。
無論、幸雄の想像ではある。
美穂のことがあってから、弁護士というのがはっきり見えた、と後輩は言った。「辞めるかも」という話は、きっと美穂にはしていないだろう。
そんな話を聞かせれば、美穂は止めるだろうし、あるいは、山木を遠ざけたに違いない。山木に害が及ばないようにしたかった。
だから、それが「不十分」と見るや、自分で〝責任〟をとったのだ……。
車に乗る。この後どうするか?
すんなり帰る、という気分にはならない。
「先輩、か」
山木に初めてそう呼ばれた。会社に勤めて誰かにそう呼ばれたのは初めてだったかもしれない。
先輩。身近でそう呼ばれる人間に、電話をかけていた。