夏休み (4)

文字数 6,332文字

 夢を見た。最近、友だちとわいわい楽しく遊んでいるような夢をよく見るようだ。
 登場人物はほとんどが現在身近にいる人間、トシやら風史やら、幸雄やら、職場の同僚やら、成美やら。
 あと、マサキやら。
 自分の視点で見ていることもあるが、ときに、明らかに「マサキ」を外から見ていることもあった。
 はっきり言ってストレスだらけ。
 小説を書けばすぐにつまる、目を瞑って想像を逞しくしようと努めれば、美穂のことが浮かんでくる。情けない自分の姿が浮かんでくる……。
 申し込み期限まで二ヶ月を切った。そのストレスもある。
 思ったような表現ができないストレス、己の才能を疑う、就職ということが脳裡を過ぎるこも……。
 中途半端な自分、小説に打ち込めないと嘆く自分。暑いこともストレスになるだろう。
 なのに、夢の中で、「マサキ」はとても楽しそうだ。何か活き活きとしているようだった。
 ――なぜ、だろう。
 未来に向かって、確かなものは何一つない。明るい材料など、ほとんどないと言っていい。
 マサキには「現在(いま)」しかない。「現在」だけがある。
 夜中、ふとトイレに目が覚める。大きな水洗の音を聞き流し、部屋の灯りをつけることなく、半ば寝惚けたまま、蚊取り線香に火をつけた。
 ガスコンロの炎に線香の先端を当てる。火がついて、煙が上がる。
 コンロを消さず、自分の髪の毛を一本燃やしてみた。
 臭い。臭い臭いを夢に追いやるように、マサキは横になるとすぐ眠りに落ちていった。
「私は考える」と言うことはできない。それは「私の中で考える」と言わなければならない。
 イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの言葉(として本に紹介されていた)。
 人間の中で他者が夢を見る。活き活きと明るい「マサキ」を見ているのは、果たして誰だう……。
 マサキの中で、その「他者」は一人だけ。
 マサキをそこまで笑顔にする人間は、彼女だけ。彼女は、マサキの「現在(いま)」に生きている、いつまでも、マサキと共に……。

 土曜日、二十三時十五分、マサキと幸雄は茶色いアパートから非契約駐車場へと向かっていた。二人きりだった。
 言葉は少なかったが、重苦しい雰囲気は微塵もない。
 
 この日、幸雄からマサキにラインを送る。
 マサキからの折り返しは〈二十二時過ぎに〉という、お馴染みのもの。
 夏休みに入ってすぐ、幸雄は実家に帰っていた。
 お盆に合わせてこっちに戻り、美穂の家族とともにお墓参りにいったりした。
 まだ一月足らずだが、両親は「少しすっきりしているように見えた」。
 二人の口から出る「美穂」あるいは「お姉ちゃん」の言葉にも、以前ほどのやるせなさはないようだった。
「ちょっとほっとした」
 マサキにそう言ってみたが、実際、他人がほっとしていいことかどうか、幸雄にはわからない。
 幸雄がマサキの家にきたのは、その報告ともう一つ。報告、というより告白。
「あいつらを未だに問い詰められない」
 なんなら夏休み中に一人ずつ家を回ろうかと思っていた。
 星尾、岡野、倉橋、佐々木。逃げるように実家に帰り、失われたものを求めるように島方家へと戻ってきた。
 戻ってきておきながら、彼女の両親に詳しいことを話せないでいる。話さないでいる。
 奈緒も、話していないようだった。話せていないようだった。
 悩み考え、とうとう土曜日になってしまった。
 情けない、と自分を責めた。
 美穂の苦しみはこんなもんじゃなかった、美穂を愛していなかったのか、美穂は、美穂の、美穂を、みほ……。
 今日も部屋主と客は向かい合っている。
 相変わらずパソコンに目を置いたまま、幸雄と視線を合わせずにマサキが言った。
「いい加減、彼女を解放してあげよう」
「え?」
「なにかをするために、彼女の名前を出すのは、もうやめにしよう。自分の責任で、な」
 マサキの言っていることは、今はよくわかった。
「自分のことで誰かが苦しむのを、彼女はきっと喜ばない」
 マサキはあえて「彼氏が」ではなく「誰かが」と言った。幸雄には、少し引っかかった。
 そんなこともあってか、幸雄はマサキの言葉を素直に受け入れられない、というより受け入れたくない。
 包帯、ガーゼ、倉橋の頭の傷。星尾にも岡野にも、そして佐々木にも、
 ――いつかきっちり聞いてやる。
 そう心に、秘かに決めた。
 他に美穂が会社にこなかった「あの金曜日」、彼女がいったい何をしていたか、一緒に考えようという気持ちも実はあったのだが、そんな気は萎えてしまった。
 目の前の男が「典型的なA型」ということを、幸雄は未だに信用できない(血液型性格診断など科学的信憑性はなく、世界的にほとんど支持されていないということを頭ではわかっているが)。
 
 駐車場に向かって歩きながら、ぼそっとマサキが幸雄に聞いた。
「会社、辞めるのか?」
 すぐに返事はできなかった。そんな話をマサキにしたことはない。
 ただ、そういう意識があることはあった。全然具体的なものではなかった。
 幸雄の言葉を詰まらせたのは「驚き」ではない。この場で、具体的な段取りを考えかけた自分がいた。
 現実に引き戻したのは「なんであんたがそんなこと聞くんだ」という軽い苛立ちだったかもしれない。
「いや」と言った後、さらに少し間が空いた。
「すぐに辞めるつもりはない」
 ――このアマちゃんが。
 自分を罵った。「すぐに」などと付けてしまえば、マサキの言葉を否定していることにはならんだろ! 
「まだ、やり残してることがあるような気がする」
「そうかい」
 ふっと幸雄は立ち止まり、すぐにまた歩き出した。
 マサキを少し後ろから見るような形になったが、なんでそんなことをしたのか、自分でもわからなかった。
 立ち止まった瞬間、ワァッと頭の中に溢れた。
 溢れかけた、溢れさせないために、すぐに歩き出したようだ。
「走馬灯」という言葉がある。頭の中を、走馬灯のように走り抜けた。
「あそこ」で過ごした六年三ヶ月。
 ――まだ辞めると決めたわけじゃない。
 自分に苦笑した。辞めると決めたわけじゃない。
 それ即ち、辞めることは決まっている、ということだということを、幸雄は(あえて)気づかずにいた。
 車に乗り、駐車場を後にする。ふとのぞいたバックミラー、横を向いたマサキが小さく頭を下げたようだった。
 それを少し笑っただけで、疑問にも思わず、そんなことは信号を二つ過ぎたころにはきれいさっぱり忘れていた。
「あ、明日のことも聞くんだったな」
 車の中だと思えば、必要以上に大きな独り言だった。明日日曜日、最後の夏休み、みんなでBBQをすることになっていた。

「だから早くやれと何度も言っていたろうが」
「だから、やったじゃん! あとこんだけだし!」
 ――こんだけって、おまえ……。
 八月もあと一週間ほどで終わるという日曜日、夜二十二時を過ぎても部屋から成美が下がる気配はない。
「あと何日だって? 夏休みが終わるまで」
「三日! 早く手も動かしてよ!」
 汗を拭き拭き、マサキは絵を描いていた。
 少女たちの夏休みも残すところ三日となったこの日、マサキの部屋に大量の「宿題」が持ち込まれる。
「まだマシでしょ! あと三日もあるんだから!」
 去年の冬休みを引き合いに出そうとしたマサキの思考を先取り。
 だったら自分で頑張れよ!
 という台詞も飲み込んだ。優しさでも甘やかしているわけでもない。
 ――確かに、明日が始業式だったとしたら……。
 ゾッとする。よく三日前に持ってきた、などと(皮肉でも)口にできないが、確かに少しは進歩(?)したか。
 冬休みは、それこそ始業式の前日だった。
 朝から引きこもり。ドリルは半分ほどが残っており、書初め、ポスターや社会のレポートは手つかず。
 とことん字の下手なマサキは、書初めこそ固辞したが、その代わり(?)ポスターはデザインから下書きから彩色まで、ようは一人で全部仕上げた。
 ドリルも、数式やアルファベットなら「ばれない」ということでマサキ自ら書き込んだ部分もある。
 レポートの下書きもマサキ。
 結局、数学の最後の応用問題を解き終わったのは明け方の四時だった(無論、成美はいない)。
 朝七時四十分、成美が激しく呼び鈴を鳴らす。
 宿題をカバンに入れ「ごくろう」と肩を叩いて階段を下りていく中学生を、マサキはぼんやりと見送った。
 今も、マサキの前には画用紙が置かれている。
「人権擁護ポスター」を書け、ということだった。
 ざっくりとした下書きとコンセプトを説明し、「よし」とゴーサインをもらう。
 ――まさか中学生相手にプレゼンするとは考えてもいなかった。
 絵はそもそも嫌いじゃないのだが、逆に真剣になりすぎてもまずかろう。手の抜き方も考えなければならない。
「下書きできたら、次はこれだからね」
「いや、それは自分でやって欲しいな」
「なんで! 原稿用紙って言えばマサキでしょ! 得意中の得意じゃん」
「読書感想文は自分でやるべきだ」
 自分の「書き物」さえ思い通り書けずにいるのに、何が悲しくて他人の作品読んで感想書かなきゃならんのだ。
「けち。こういうの読むのだってマサキの勉強になるじゃん」
 ……、何気に鋭いとこ突いてくる……。
 一体、どこまでが「少女」でどこからが「女性」なのか。流れる汗をタオルで拭きながら、マサキは黙ってしまう。

 そろそろ寝ようか、という午前二時、背後で眠っている成美を揺り起こし、部屋を出た。
 階段を下りようとしない「ボス」の前に、マサキは背中を向けてしゃがんだ。
 マサキのシャツはきっと汗ばんでいる。
 果たしてこれが「正解」なのか、考えていると、背中が重くなった。少し、口元が緩んだ。
「ヘンタイ」
「すいません」
 ――どういう意味の「すいません」だ?
「ヘンタイ」であることを認めていた。今さら、否定するものでもない。
 ゆっくり階段を下りる。隣の部屋の灯りはついていた。話し声は聞こえない。一人なのだろうか。
 長野さんの部屋の前で成美を降ろす。すぐに部屋に入らず、マサキの顔を見て。
「明日、じゃなくて今日は?」
 答える前に「休みだよね」と被さる。月曜日はほぼ休み。
「朝からだから、早く寝てよ、じゃ、おやすみ」
バタン。
 最後の「おやすみ」は閉まるドアの隙間から。鍵が閉まるのを聞いて、小さく息を吐いた。
 シャツの背中は汗でぴったり張り付いていた。階段を上がらず、道路に出る。夜空を見上げて、少し歩こう。

 恐らく二十五度を越える熱帯夜だろうが、昼間に比べて湿度はだいぶ落ちている。
 少し夜気に皮膚をさらすと、汗が乾く。背中と肩には、まだありありと少女をおぶった感覚が残っていた。
「ヘンタイ」とは言ったが「気持ち悪い」とは言わなかった。
 よくよく考えると、あの部屋について、「汚い」あるいは「臭い」などと言ったことはないようだ。
「片付けろ」とも言わない。
 さすがに「友だち連れてきていい?」と言い出すこともなかったが。
 それがなんなのか、と聞かれたら、マサキは「それは」と説明する言葉を持たない。
「それ」は、マサキが少女に対して思っていることの証明にはならないかもしれない。あの子の、成美の過去を考えたとき、
 ――そこまで「言う」か「言わない」かのどっちかになるような気がする。
 あの子は「言わない」方を選んだ。
 それは、マサキにとってはいいことなのだ。成美本人にとっては大変な苦しみだっただろうことを、即座に思った。
 マサキは立ち止まる。虫たちのアンサンブルに囲まれて。
 そこは、六月に蛍祭りの会場となる葦原を脇にする道路の真ん中。
 この時期、蛍の影はない。ふっと北の方を振り仰いだ。黒々塗りつぶされた城山が迫りくる。
 輝く星々を呑み込みながら。山に向かって北に、少し歩いた。
 庭園に、一歩を踏み込んだ。
「!」
 そのまま中に入ることはできなかった。
 いた。中には、「あの日の二人」が。
 邪魔をすることなどできない。蛍久しぶりに見た、また見にきたいな……。
 彼女の声だけが聞こえた。男は終始黙っていた。誰にも届かない笑顔をなど作って。……踏み出した一歩を引いた。
 まるで沸き返るようだった。草葉の陰の虫たちが鳴き、草が、木々が鳴いている。山が、鳴いている。
 煌く星まで届くだろうか。城山の黒が、全てを呑み込む、彼岸への入り口。
 マサキは山と向かい合う。目を瞑る、その横を、「あの日の二人」が通りぬけた。
 深々と、山に向かって頭を下げた。右から左に風が抜けた。音が遠くなる。山は(も)眠りにつくようだった。
 体を起こして、今度は小さく頭を下げた。
 くるりと踵(きびす)を返し、葦原(あしはら)を過ぎ、小道を過ぎて駐車場、ほとんど立ち止まることなくお地蔵さんに頭を「お休みなさい」下げた。
 早く寝なければならない。絵の色付けもあるし、ドリルだって理科の自由研究も残っている。
『夏休み学習実行表』なるものもあるという。ほとんど白紙だが、実際白紙に近いのならそのまま出せばいい、と言ってみようか。
 急に眠くなってきた。いっそこのまま車で海にでもいきたいようだが、それを真っ先に止めたのはトシだったようだ。
 風史にラインしたくなった。
 なんなら呼んで手伝ってもらおうか。成美もそれほど抵抗はないようだし。
 星空に熱い息を吹きかけて、マサキはゆっくりアパートへと帰っていった。
  
 春名湖にも、いかないとな。

 ふれあい公園にマサキがいる。木陰を選び、カバンを枕に横になっている。川端康成『温泉宿』を胸の辺りで広げ、さっきから溜息ばかり。
 その顔はしかし、溜息ほどアンニュイでもなさそうである。
 むしろ朗らかに、名残の蝉時雨を喜ぶ風情。と、大きな欠伸。川端をアイマスクにして、カバンを枕に。
 木漏れ日がマサキの体を斑に照らす。鳥たちが、マサキをからかうように鳴き交わした。
 マサキはすっかり落ちているようだった。
 トサッ。川端が顔から落下した。
 マサキは気づかずに眠ったまま。鳥たちが教えてくれているのに。すぐに鳥たちは話題を変えた。
 顔の横、草の上に落ちた川端、その上に、黒白の猫が、のっそりと体を乗せた。欠伸を一つ。そのまま眠ってしまった。
 マサキと猫と、枕を並べるように。
 マサキは猫に好かれるらしい。
 
 ふっと足を止めた。春風にさわさわと鳴る庭木の梢、向こうの竹やぶ。
 音を見上げて、そのまま歩き過ぎようとした男の体を止めた、甘いかほり。
 すぐ右手、ピンクの花が咲いていた。名前はわからない。
 大ぶりの花びらは五、六枚。ゆらゆらと揺れて見せる。何か邪魔をしているような気がして、再び歩きだした。
 鳥たちの鳴き声に微笑んでみる。春、午後いちの日差しに、眼鏡が光った。道端に二体並んだお地蔵さんに頭を下げた。
「いい天気です。春ですね。桜も咲いてます。もちろん嫌いじゃない、けど、花粉症だけはなんとかならんもんですかね」
 鼻水をずるり。ペコリともう一度頭を下げて、その場を離れた。
 小学校のグラウンドで子どもたちが体育の授業中。その校庭の手前の道を左に折れて、住宅の間の道を進む。
 目の前を白黒の猫が歩いている。こちらに気づく、足を速めて家の庭にすすっと消えた。
 静かな住宅地に鳥たちの声が響いている。
 路地を左に曲がり、すぐ右に折れる。少し歩いて、茶色いアパートの階段を二階に上がっていった。
 パタンとドアが閉まる。温かな太陽が何もかもを白く霞ませる。
 光の粒が時間の隙間に挟まって、一秒の刻みも遅くなる。
 茶色いアパートも、白い住宅も、居眠りをしているかのように静まりかえっていた。町の上を、大きな雲の船がゆっくりゆっくり流れていった。
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