夏休み (2)

文字数 5,942文字

 二十二時。幸雄は不快指数の頗る高い部屋にいる。
 黒縁眼鏡と差し向かいで話す、今日の二回目。
 ワイシャツのボタンをほとんど外して思い切り着崩しているのは、これが二回目だから、というわけではない。
 ラインをすると〈十時頃きてくれ〉という返事。
 ナポリタンを既に食べていたことを思い出したのは、くる途中で寄った牛丼屋で牛あいがけカレーを食べているときだった。
 さらりと完食、バーで食べるナポリタンとは腹に溜まらないものかと不思議に思った。
 山木もいまごろ何か食べているのだろうか。そんなことも気になった。
 屋上とバーで「後輩」から聞いた話をマサキにした。
「てことは、その五年前の事件にもタイヤが絡んでいたってことか。いや、それは既に彼女のブログに出ていたのか」
 マサキはパソコンを見ていた。幸雄からは何を開いているのかわからないが、ブログを見ているのかと思った。
 実際は成美とタケルの勉強でみれなかったナイターの録画をみている。
 千葉でロッテマリーンズとの対戦。一対〇で終盤までリード。後は自慢のリリーフ陣で逃げ切るだけ。音がない(自重)のが寂しいが。
 ちなみに、それはマサキのパソコンであり、美穂のパソコンは奈緒に返却済みである。
 学生時代、マサキのアパートで遊んでいたころが〈人生で一番楽しい時間だった〉と書かれたブログの前のほうに、タイヤが美穂に〈ワイルドの写真もばら撒くぞ〉と言ったらしいことが書かれていた。
 即ち、五年前のことにもタイヤこと倉橋は関わっていて、今回と同じように卑猥な写真を送りつけてなどしていたのだろう。
 五年前、星尾、岡野と倉橋が同じ部署だった。どっちが声をかけたのか。マサキの中でそんなことが引っかかった。
「倉橋のパソコンに入ってました。美穂以外の画像がたくさん。もしかしたら、それが戸塚さんだったのかな」
 マサキは思い浮かべる、見たことのない「戸塚さん」の面影を。見ることもないだろう。
「それが大きな要因だったかもしれんな。その戸塚さんの写真も、美穂さんのパソコンに送られてきて、それが、彼女をがんじがらめにしたのかもしれない」
「自分のことより他人のことが気になる。確かにそういう女性だった」
 自分だけなら構わない。しかし、ワイルドまでがまた傷つくのは我慢できない。
 一番すっきりするようだった。
 ちらっとマサキは玄関を見る。すりガラスの向こう、ちらちらと影が横切る。蛾が、灯りにひかれて飛んでいるようだ。
「この鳴き声なんすか?」
 声の主は割りと近くにいる。
「ホトトギス」
 独特な鳴き声と夜にも鳴くということから、日本でも昔から多く歌に詠まれたりしてきた。
 様々な漢字表記があり、「正岡子規」の「子規」もその一つである。
 便所でホトトギスの声を聞くと不吉であるという言い伝えがあり、「がんばり入道ホトトギス」というまじないを唱える風習が各地に伝えられている。
 また「がんばり入道」というのは便所によく現れる妖怪で、かの鳥山石燕の描いた江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』や、近いところで水木大先生の妖怪図鑑などにも……。
 ――興味ないのかよ!
 ネットで検索してプリントアウトしてやろうと思ったのに。幸雄は封筒から何か資料を出して見入っているようだ。
「なにを見ている?」
「はい、ああ、これ美穂と同じ部署の後輩が不正経理についていろいろ調べてくれたやつで、あ、そうそう、アレですよ、オッハー」
「ああ、オッハーが出てきたのか。女性?」
「男です、冴えない顔した。そう言えば、なんで『オッハー』なんだろ?」
「名前は?」
「山木、山ちゃん」
 なるほど。
「あれは何年前だっけ。有名な声優がテレビの子供向け番組で『オッハー』を流行らせた。その声優さんが確か『山ちゃん』て呼ばれてたと思ったな」
「へえー。じゃあ、『ワイルド』は?」
「戸塚さん、戸塚なにさん?」
「戸塚香織、だったかな」
「とつかかおり、KT……、うーん、ひょっとしたらTKかな」
 マサキの知る中で、「TK」と言えば超有名なミュージシャンがいた。
 そのミュージシャンが所属していたグループの代表曲の一つ『ゲットワイルド』、そこから「ワイルド」。
 という説に、幸雄はちょっと納得しかねる様子。
「じゃあ、『ジョーさん』は?」
「そんな人いたか?」
「……」
「イニシャルシリーズだよ。神正樹、イニシャルはMJ。わかる?」
「MJ? 『スパイダーマン』に出てきたような」
「そっちじゃない。同じアメリカだけど。MJていうのは、NBAの偉大な選手で」
「マイケル・ジョーダン!」
「そう。ジョーダンから『ジョー』を借りて」
 美穂がバスケ好きだなんて聞いたことなかった、たまたまテレビに出てたのみたとか言ってたよ、……。
 幸雄が島方美穂の昔話を聞いて寂しそうな顔をした。〝「幸雄よりマサキのほうが美穂についていろいろ知っている」なんてことはないんだよ〟フォローが、果たしてどこまでフォローになったか。
 その後、再び星尾たちの話になった。
 人物を特定する決め手になった動画では、佐々木と倉橋しか確認できなかった。大物ぶりやがって。
「今回も金で解決しようとしたのかな」
 マサキへの質問のようで、独り言のようで、また、上司に聞いているようで……。
「その資料があれば、二人を会社から追い出すことができるんじゃないか?」
「まだちょっと弱いんすよね。オッハーが調査を続けてくれるってことなんすけど」
 どうするかは、これから考えます。最後は自分に言ったようだった。幸雄にとって心安い日常が戻ってくるのは、もう少し先のようだ。
 いつの間にかホトトギスはどこかにいってしまった。眠ったか、寝床に帰ったか。
 幸雄が腕時計を見る。時刻はすでに二十三時を過ぎていた。翌土曜日、マサキはもちろん仕事である。

 外は思いのほか爽やかだった。「やっぱり外のが涼しいな」と幸雄が呟いた。
「それが自然だ」と声を大にして言いたかったが、言えるわけもなく。
 駐車場に着く。二人のお地蔵さんに小さく頭を下げた。
「ほんとに日曜日いかないんすか?」
 車の脇に立ち、向き直った幸雄の声は明るかった。
「ああ。仕事休めそうにないからな。みんなで楽しんでくるといい」
「了解。神さんの、じゃなくてジョーさんの分まで楽しんできます」
 じゃあ、と言って車に乗りかけた幸雄に「あ」とマサキがぶつけた。
「あれ、どうする、ハードディスクとかメモリー。今もっていくか」
 バタン、ドアが閉まる、マサキの前に立ち、幸雄は「うーん」と言って考える。
 マサキが思った以上に悩んでいる。その姿に意外な思いがしたが、彼氏として整理がつきかねるのは当然かもしれない。
「部屋ですよね」
「ああ。とってこようか?」
「いや、俺もいきます」
 二人はきた道を戻っていった。

 日曜日に海にでもいきながら忌まわしいデータを「抹殺」してこよう、というのは幸雄の案だった。
 昨日の夜、グループラインに幸雄のそのコメントがあがると、風史、トシ、奈緒、タケルたちから「諾(だく)」の返事が次々とあがった。
 夜の九時ころだったろうか。部屋にはマサキ、と成美がいた。
 マサキは暫く考えてから、「否」のコメントをあげる。〈バイトがあるから〉というのが主な理由である。
 マサキがいかないことを残念がっている風なのが嬉しいし、またそれが単なる社交辞令だろうと思ったわけではない。
〈いかないとか意味わかんないし〉
〈空気読めよ〉
〈つまらない男だな〉
 等々、強く誘ってくれている(と読める)ラインが上がれば上がるほど、なぜか気持ちが頑なになる。
 むしろ仕事を言い訳にしている。
 もし仕事が休みであっても〈仕事があるから〉と言っていそうな自分をはっきり自覚していた。
「みんなと楽しむ」ほうではなく、「みんなからなじられる」ほうを選んだ。それもまた気持ちいい。
 とんだ天邪鬼。
 じゃあまた違う日にするか、という話にもならずに、日曜日、マサキ抜きで海にいくことが決定した。
 六月にいった海を思い出す。
 ただただ「灰色」だった日本海。今回、幸雄がもたらす「色」に馴染まないのかもしれない。
 幸雄がもたらす色、プラス奈緒という華やぎ(それはあくまでも表面的なイメージだが)を、受け入れたくない、それに染まりたくない……。
 ということで自分を納得させておこう。
 忌々しいものがつまった袋を持って、幸雄がBRZに乗り込んだ。袋を助手席に置き、エンジンがかかってパワーウインドが下りる。
「しっかりぶっつぶしてくるから」
「うん、頼んだ」
「じゃあね、じん、じゃなくてジョーさん。仕事頑張って」
「ありがと、そっちも気をつけて」
「じゃあ、おやすみ」
 おやすみ。南に下っていくテールランプ。今宵この瞬間、車を見送りながら、涙が溢れそうになった。
 不吉な予感があるわけではない。さっきホトトギスの鳴き声を聞いたからと言って、どちらもトイレにいたわけでなし。
 マサキのどてっぱらに大きな穴を開けた、猛烈な寂しさ。ごっそり持っていかれた。
 一つの、とてつもなく大きな「段落」がついた瞬間、ついた夜だった。
 ――美穂ちゃん……。
 彼女の車を初めて見送ってからおよそ四ヶ月。今夜、文字通り彼女を見送ったようだった。
 胸から喉を競り上がってくるものがある。吐き出したい。
 いっそ泣いてしまえば楽になる。わかっている。
 しかし、抑え込む。泣いたらだめだ、そのときは本当に彼女を見送ることになる。
 ダメだ、そんなの。彼女はまだ、自分の中にいるんだから……。
 お地蔵さんに深く頭を下げた。近くの林の中、ホトトギスが鳴いた。林にも頭を下げる。
「おやすみなさい。また」
 大きく息を吐き出して、むさっくるしい二〇一号室へと戻っていった。
 彼女が「変わらないね」そう言った、自分の部屋へと、マサキはゆっくり歩き出した。
 
「写真見た?」
 幸雄から電話がかかってきたのは日曜の午後五時頃。
 今日は仕事もこの時間に終わり、職場の駐車場を車に向かっている途中、幸雄の言う写真を見ているそのときに電話がかかってきた。
「見事に抹殺したね」
 とマサキが答えたのは、一昨日預けたHDやらフラッシュメモリーが見るも無残な姿へと変わり果てていたから。
 友だちがドアに指を挟んだのを見て自分も一緒に痛がるように、原型を留めない機械の山を見て自分のパソコンがぶっ壊されたような感覚を覚えて少し肩を竦めた。
 電話の向こう、幸雄が得意げに今日を振り返った。

 幸雄と行を共にしたのは幸雄を入れて七人。風史、トシ、奈緒、タケルと奥さん、あと佐藤雅人。
 昨日の夜トシのラインで「雅人もいく」と読んだときは「なぜ」と思ったが、すぐに了解。
 なるほど。それこそ六月と同じ理由だろう。
 案の定、幸雄のBRZと雅人のアクア二台で海へと向かう。
 いきは高速で。朝早くに出て日本海を見たのは十時頃。
 天気は上々。照りつける夏の日差し、金色に焼けた砂浜、日本海ブルーの海、水平線の向こうに湧き上がる真っ白な入道雲。
 そして。
 人人人、とゴミ。人とゴミは話を聞いたマサキのイメージだが、真夏の海にいくべきではない、というのは本心だ。
 奈緒と彩が作ってきた弁当を食べ終わり、「さて」と幸雄が切り出す。今日の目的はむしろこの後。
「抹殺」を遂行するため、一度車に戻って荷物を取り替え、再び海のほうへ。
 浜辺を横切り人気のない岩場へと入る。そこで任務遂行。
 比較的広くて平らな部分を見つけ、そこにガラガラとブツを出し、用意してきたハンマーや大きな石で一つ一つ叩き壊した。
 ある種異様な光景がマサキの頭の中に広がった。
 七人の男女が、太陽に背を向けて地面を叩くというのは、なんともシュール……。猟奇的。
 片付けがしやすいように、粉々になったブツの下にはしっかりシートが敷いてあったのが送られてきた画像から見て取れた。
「お疲れさん。今どの辺り?」
「くるときは関越できたんだけど、帰りは長野のほうから帰ろうとかいう話になって」
 ――またトシか。あのときと同じパターンだな。
「途中まで下道走って、今は高速のPAだよ。まだ長野県内」
「トシに、今度はちゃんと運転しろって伝えてくれ」
 電話の向こうで「ってジョーさんが言ってるぞ」幸雄がトシに言っている。みんなの笑い声も近い。
「あんたには言われたくないってさ」
 確かにその通り。あのときのことは時折首をもたげてはいまだにマサキの後悔を突っつく。
 そろそろ出発するから、「気をつけて」電話が切れた。
 既に高速に乗っているのであれば、あと二、三時間で帰ってくるだろう。
 写真をもう一度確認して、マサキは車のエンジンをかけ、ゆっくりと駐車場から出ていった。

 写真は複数枚あがっている。幸雄が、七人全員の顔が入るように斜め上から撮った自撮り画像。
 みんなの楽しそうな顔を見て、マサキも嬉しくなった。そこに自分の顔がないことが、
 ――わたしらしい。
 一番奥にいるが、風史の微笑は決して作り物ではない。トシの作ったバカ面に気づいているのはひょっとしたら「わたし」だけか。
 タケルと彩はいつでも煌いている。若さだけではない、二人のピュアさだ。
 二人とも「わたしたち」の知らない世界を知っている、経験してきた。だからこそ、幸せに対してピュアになれるのだ。
 雅人の控え目な表情は、決して場を乱さない。
 そして、一番手前に並ぶ幸雄と奈緒。
 とても大きなものを失った、失ったものを取り戻すことは決してできないが、この笑顔が別の何かを得た「証」であるなら、それは望外の喜び……。
 対して、画像の「こっち側」にいる自分。一人だけ仲間外れ、ではない。
 マサキからも自撮りの画像を送ろうか。
 そこには作り笑いの下手なマサキの他に、恐らくマサキを押しのけて前に出るであろう笑顔の女性と、マサキの背後に、隠れるようにして別の方向を向いている女の子が写っているはずだ。
 ……マサキにしか見えないかもしれないが。
 西の空、妙黄(みょうぎ)山の向こうに黒い雲が湧いていた。
 ちょうど長野の方角。みんなが妙黄の峠にかかるのはまだ先。タイミング的に外れるだろうか。
 ルームミラーに映った灰色の雲、そこに不安を思うまい。雲から逃げるように、雲をおびき寄せるように、アパートへと帰った。
 夕立が町を襲ったのはそれからおよそ四十分後。蛍光灯もテレビもつけない(エアコンもついていない)部屋の中から、マサキは外を眺めていた。
 扇風機の、体にかかる風の生暖かさが無性に夕立を実感させた。
 夕立の抜けた空、流れる雲の僅かな隙間に、夜に染まりつつある藍色の空がのぞいていた。マサキを外に誘った。
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