夏休み (3)
文字数 5,173文字
今日は「三輪(みわ)町ふるさと夏祭り」だった。アパートから歩いて七、八分の、マサキお馴染み「ふれあい公園」が会場になる。
賑わいを体感してすんなり帰ってきた。
長野さんの回鍋肉に舌鼓を打って後、十九時三十分、花火が上がる。アパートの二階からよく見えた。
東向きの窓から身を乗り出す。下を見ると、頭が一つ、外に出ていた。
夕立上がり、雲は少し多かったが、空気は澄んでいた。風も程よく吹いており、花火の煙も流れる。
人々の歓声が、歩いて七、八分のところから飛んでくる。
音が、伝わる。光が、伝わる、下を向いた、べぇ、女の子の顔、ふっ、男は笑う、花火が照らす、たった二人……。
夜空が意地悪く、花火の余韻もさっさと片付け。
スマホにみんなから「無事帰宅」ラインが届くとき、階段を静かに上がってきた。
二十三時、幸雄から電話がかかってきた。
マサキに対して気になっていたことが、実はもう一つ、血液型の他にあった。
ずっと聞くことを恐れていた。今なら受け入れることができるかもしれない。
「聞きたいことがあるんすけど、いいすか」
「どうぞ」
「まだら、斑点(はんてん)の斑に雪って書いてなんて読むか、わかる?」
疑問形で終わらせる恐怖はやっぱりあった。ごちゃごちゃ付け加えてなかったことにしようか、という往生際の悪い衝動を、幸雄は飲み込んだ。
「はだれ。はだれ、だろ?」
恐れていた衝撃に襲われる、ことななく、逆にほっとして、顔が緩んだようでさえある。
素直に受け入れることができそうだった、今なら。
「え、違う? そういうことじゃなくて?」と幸雄の無言に対してマサキのほうが慌てていた。
これでチャラにしてあげよう。
「正解です」
少し、美穂に近づいた気がした。
電気を消す前に「お休み」と声をかける。いつしか鬼太郎に挨拶することが日課になっていた。
タイマーでかけた除湿と一日の疲れが、幸雄を深く安らかな眠りへと誘った。
朝、幸雄の目を覚まさせたのは、目覚まし時計でも夏の寝苦しさでもなく、とても素敵な夢だった……。
茶色いアパートの二〇一号室、蒸し蒸し暑い暑いこの部屋で、男の口からはさっきから溜息しか出ない。
「はぁ」
溜息と「暑い」という言葉以外。眼鏡、短髪頭の。
――自慢の童顔が、老けて見えるぞ。
ふざけた色のフレームで、レンズはスカイブルー。もちろん度は入ってなく、眼鏡というよりはサングラスか。
「暑い」と「はぁ」には同意もするが、サングラスは外せ!
「おい。おい」
「ふぅ」
「扇風機を回せ」
――シカトなぞして。
テーブルに、二人はいつもの座り位置。
マサキの左に座る後輩が、扇風機の首を自分に向けて止めている。本棚に背中を預け、テレビをみてるんだかみてないんだか。
八月半ば、火曜日午後二時。マサキの仕事は休み。
お盆を挟む今週、市役所も夏休み(残念なことに)。マサキが腰を浮かせて扇風機を動かした。後輩にリアクションはなし。
――こいつ、いったいなにしにきたんだ。
ここまでくると、逆に恐い。そろそろ何か言い出すんじゃ。
「先輩もサスペンス書いたら?」
「え?」
「サスペンスのが売れるんじゃない。このくらいだったら書けるでしょ」
テレビで今みているのが「このくらい」のサスペンスだった。「書けるでしょ」と言われて嬉しいようでもあったが、バカにされているようでもあり、複雑なところだ。
「下から見てたのなら『落ちていく』じゃなく『落ちてくる』と言うはずだってか」
あんたが屋上からあの人を突き落とした、落ちていくのを見ていた、お前が犯人だ!
「よう書かんぞ。俺には決定的におかしなこととは思えない」
「へ?」
「誰かがドアに指を挟むのを見てイタッと思うことはあるだろう。ビルから人が落下するのを見て、自分があたかも〝落ちていく〟ような感覚を憶えることはあると思うね。ハプニングに遭遇したとき、見ている人の意識、視点が当事者に乗り移り、擬似的体験をしてしまうということは、あってもおかしくない、と思う」
「ふーん」
このドラマでは、警察が物的証拠を押さえていたことで事なきを得たが、もし「くる」と「いく」を言い違えたくらいで殺人犯だと言われるなら、あるお笑い芸人などは警察と話をする度に犯罪者にされるに違いない。
言い出したトシもそれ以上興味はないようで。少しでも喜びかけて損した。
「先輩」
「あ?」
「明日休み?」
「ああ」
――あっ。
「海いこ!」
「またか」
――しまっ……。
「また、って、どういうこと? こないだ先輩いってないじゃん。まさか」
「え? いや、この時期の海なんか」
「まさか、マサキ、マサキまさか。さあ、話してもらおうか」
痛恨のダブルフォルトだ。こうなるとマムシのトシ、このシチュエーションでこいつを煙に巻くことができるミステリー作家は恐らくいない。
「当事者」としての「疑似的体験」と、今話したばかりだとしても。
トシが一瞬揺れた、と思う間に万年布団にうつ伏せに倒され左腕を背中でホールドされていた。
「タップ、タップ、話す、話すから」
背中に乗る男は、果たしてテロリストを追い詰めるジョン・マクレーンかジャック・バウアーか。凄まじい気迫に、マサキは観念するしかなかった。
部屋の作りがそう思わせるのだろう、夏の昼間というのに、「眩しさ」よりも「暗さ」が強く印象される。
「あの日は、朝からとても暑かったのを憶えている」
マサキは、静かに語り始めた、恐怖体験の再現VTR風に……。
「そう、確かに、わたしは、わたしたちは海にいた、忘れもしない」
この日、立秋。「秋が立つ」とは名ばかりの猛暑。マサキは海にいた。
えっと。
「空、空の西北から東南方向、空高くに絹のような薄雲が流れる。反対側、東南の空、山のすぐ上に綿雲が、南東から北西に向かって流れ、途中で順々に消える。高さの違う雲が別々の方向に流れる、あれが即ち秋の気配だ、な」
しーん……。真夏の海で、人々のざわめきから取り残されるようにここだけ静まりかえった。
あるいは、男の周りだけ。
なるほど、一人男に、秋風ぞ吹く……。
七月『海の日』の翌日、成美の中学最後の大会を、マサキは会場で見ていた。
場所は聞いていたが、応援にいくとは言っていなかった。実際、当日までいくかどうかはわからなかった。
朝、起きて、
――もう間に合わないのは嫌だ。
そんな思いがマサキの体を強く押した。「余計なこと」をせずに後悔するのはもう御免だ。
会場に足を運んだのは初だった。
勝って仲間たちと喜び合う、これほど活き活きとした成美を、マサキは初めて見た。
意外な気はしなかったが、その笑顔を見て、ほっとした。
そして、敗れて辺りも憚らず涙を流す。成美の感情をここまで育て開放してくれた仲間たちに感謝。
マサキの胸も熱くなった。
成美に感謝。彼女たちに、礼。
涙ぐむ姿など見られていいはずがない。もとより顔を合わすつもりもない。
会場に一礼して外に出てきた。
ドン! 背中に衝撃!
振り向くと、いや、振り向く前にそれが何かはわかっていた(ヤンキーにいきなりいちゃもんつけられた、という思いも一瞬巡った。ほんの僅かな時間に様々なイメージが流れる不思議。人間の意識は、ときに光速を超える)。
「ヘンタイ。おかずにする気でしょ」
「なにがだ、いや、『おかず』とか言うんじゃない」
道着姿の成美が、いつものようにきつい顔を向けていた。
きついのは口元だけ、両の瞳はまだふやけたまま。少し顔が綻んだ男の股間を、少女の蹴り上げが襲った。
男は咄嗟に体を引いた。いつの間にか、マサキの前に集まっていた。成美を追ってきたのだろう。
「みんなの写真とってイヤラシイことに使おうとしてたんだよ」
成美が口走る。集まったのは成美を入れて五人。団体戦のメンバーだろうか。「ヘンタイ」の五乗がマサキを襲う。
「罰として、海に連れてげ」
「は? え? はぁ?」
ささやかな抵抗も空しく、少女たちを海に連れていくことは締約された。
(美穂のことで)忙しい、車がない、と延ばし延ばしにしてきた。
正直、いかずに済ませたい。いくとなれば責任は重過ぎる。
また、車は解決しようがない、という安心感もあった。
マサキの軽自動車では、まさか彼女たち自身いきたいとは思うまい。
「ヒロの親が貸してくれるって」
「多少ぶつけてもいいって言ってました」
解決した。
当日、ヒロコちゃんの家にいくと、そこは薄汚れた軽自動車が入るのも憚れるような立派な家だった。
早朝六時、応対してくれたのはお母さん。
「ほんと、成美ちゃんの親戚っていうから思ったとおり、好い人そうでよかった。娘をよろしくお願いします」
笑顔の溢れる素敵なお母さんがガレージに案内してくれた。
まあ、親戚だろう、うん。
二台の車は、どちらも……。「どうぞ」と言われてすぐに言葉もない。あてがわれたのは、レクサスだった。
「わたしが買い物で使ってる車で、あちこちこすったりしてるから。遠慮なく使ってください」
先頭打者ホームランを打たれたピッチャーが開き直るようなものか。覚悟が決まった。
無事に帰ってくる+レクサスを傷物にするわけにはいかない→事故など許されない!
運転は快適そのもの。運転が楽しいと思ったのは初めてかもしれない。さすがレクサス。
夏休みではあるが平日ということもあり、車は多かったが渋滞につかまることはなかった。
駐車スペースも、意外とすんなり見つかった。おっさん一人と少女五人。
――いったい、周りからどういうふうに見えるだろう。
「マサキは海入らないの?」
成美の弾けるような笑顔で聞かれた。マサキは海に入らない。
「泳げないんだよ」
木づちだから。言おうとして危うく止まった。「金づち」ではなく。
海ではしゃぐ彼女たちをパラソル(もちろんマサキのものではない)の下から眺めて、
――スクール水着じゃないんだな。
とそんなことを思った。
いっちょまえに、カラフルなビキニやワンピースかい。
帰りに備えて眠ろうと思っていたが、そんなことしてる暇はないことを、俄かに意識した。
――さっそく声かけられてるし……。
きっぱり断ったようで、男たちは離れていった。
男たちは中学生や高校生には見えない。夏の海には危険がいっぱいだ。
少女たちが持ち寄った昼食を食べて一休み。空を見上げて「あれが秋の気配だ」と説明したところで、真夏の浜辺に一陣の秋風が吹きすさんだ。
その後、六人が並んで横になった。マサキが目を覚ましたとき、パラソルの下には秋男一人残され。
左手首に見えない腕時計を見る。幸雄のことを思い出す。タオルで汗を拭きながら、ハーフパンツのポケットからスマホを取り出す。
十四時四十分。十五時を目安に引き上げを提案しよう。
帰りもおよそ四時間。安全第一、もちろん関越を使って帰る、帰り道を思い描いていた。
空は青かったが辺りには既に暮れゆく気配が漂い始めている。
――終わりにしたがっているらしい。
自分に苦笑いして見せた。
一日を終わらせたがっている、一刻も早くこの「責任」から逃れたく思っているひ弱い「自分」を突き放すように、もう一度、マサキは目を瞑った。
僅かでも眠りに落ちることはなかった。
十五時四十分、出発。静まり返った車内、路面を滑る音だけが聞こえている。
徐々に外も暗くなる。終わり間際になって、この安らぎ、この感慨。
いやいや、油断するな、まだほっとしたらアカン、家に着くまでが海水浴だ……。
それぞれ女の子たちを家に送り届け、アパートに戻って長野さんの麻婆豆腐を食し、二階に戻って「ふぅ」と一息吐いたのが二十一時二十分。こんな部屋でもほっとしてしまう。……女の涙は、高くつく。
「あの日のことを思い出すと今でも恐ろしい。もう二度と、あんな軽率なことをしないと、わたしは誓った」
しーん……。
その一瞬、テレビの音も消えた。外から聞こえる蝉の声が、薄まった室内の空気を埋め合わせるかのように。
情報番組が始まりテレビの音が戻った。静寂は一秒に満たなかったろう。「なんか声かけてくれなくてよかったかもだけど」と前置きして。
「だけど、それは明日海にいかない理由にはならない。てことで」
マサキの語り口が奏功したか、あるいは呆れたか、いずれにしてもこないだのことを五月蝿く詰められることは免れた。
が、海にいくことは決定らしい。
――なぜ、自分の周りはこんなのばかりなんだ……。
ふと楽しくなった。自分がおかしい。
昔と変わらない夏休み、部屋でだらだらとテレビを見て、思いつきで海にいったりして。
「あの頃」と変わらない自分の夏休みに、マサキは小さく微笑んだ。
美穂が人生で一番楽しかったと言った、あの頃……。
賑わいを体感してすんなり帰ってきた。
長野さんの回鍋肉に舌鼓を打って後、十九時三十分、花火が上がる。アパートの二階からよく見えた。
東向きの窓から身を乗り出す。下を見ると、頭が一つ、外に出ていた。
夕立上がり、雲は少し多かったが、空気は澄んでいた。風も程よく吹いており、花火の煙も流れる。
人々の歓声が、歩いて七、八分のところから飛んでくる。
音が、伝わる。光が、伝わる、下を向いた、べぇ、女の子の顔、ふっ、男は笑う、花火が照らす、たった二人……。
夜空が意地悪く、花火の余韻もさっさと片付け。
スマホにみんなから「無事帰宅」ラインが届くとき、階段を静かに上がってきた。
二十三時、幸雄から電話がかかってきた。
マサキに対して気になっていたことが、実はもう一つ、血液型の他にあった。
ずっと聞くことを恐れていた。今なら受け入れることができるかもしれない。
「聞きたいことがあるんすけど、いいすか」
「どうぞ」
「まだら、斑点(はんてん)の斑に雪って書いてなんて読むか、わかる?」
疑問形で終わらせる恐怖はやっぱりあった。ごちゃごちゃ付け加えてなかったことにしようか、という往生際の悪い衝動を、幸雄は飲み込んだ。
「はだれ。はだれ、だろ?」
恐れていた衝撃に襲われる、ことななく、逆にほっとして、顔が緩んだようでさえある。
素直に受け入れることができそうだった、今なら。
「え、違う? そういうことじゃなくて?」と幸雄の無言に対してマサキのほうが慌てていた。
これでチャラにしてあげよう。
「正解です」
少し、美穂に近づいた気がした。
電気を消す前に「お休み」と声をかける。いつしか鬼太郎に挨拶することが日課になっていた。
タイマーでかけた除湿と一日の疲れが、幸雄を深く安らかな眠りへと誘った。
朝、幸雄の目を覚まさせたのは、目覚まし時計でも夏の寝苦しさでもなく、とても素敵な夢だった……。
茶色いアパートの二〇一号室、蒸し蒸し暑い暑いこの部屋で、男の口からはさっきから溜息しか出ない。
「はぁ」
溜息と「暑い」という言葉以外。眼鏡、短髪頭の。
――自慢の童顔が、老けて見えるぞ。
ふざけた色のフレームで、レンズはスカイブルー。もちろん度は入ってなく、眼鏡というよりはサングラスか。
「暑い」と「はぁ」には同意もするが、サングラスは外せ!
「おい。おい」
「ふぅ」
「扇風機を回せ」
――シカトなぞして。
テーブルに、二人はいつもの座り位置。
マサキの左に座る後輩が、扇風機の首を自分に向けて止めている。本棚に背中を預け、テレビをみてるんだかみてないんだか。
八月半ば、火曜日午後二時。マサキの仕事は休み。
お盆を挟む今週、市役所も夏休み(残念なことに)。マサキが腰を浮かせて扇風機を動かした。後輩にリアクションはなし。
――こいつ、いったいなにしにきたんだ。
ここまでくると、逆に恐い。そろそろ何か言い出すんじゃ。
「先輩もサスペンス書いたら?」
「え?」
「サスペンスのが売れるんじゃない。このくらいだったら書けるでしょ」
テレビで今みているのが「このくらい」のサスペンスだった。「書けるでしょ」と言われて嬉しいようでもあったが、バカにされているようでもあり、複雑なところだ。
「下から見てたのなら『落ちていく』じゃなく『落ちてくる』と言うはずだってか」
あんたが屋上からあの人を突き落とした、落ちていくのを見ていた、お前が犯人だ!
「よう書かんぞ。俺には決定的におかしなこととは思えない」
「へ?」
「誰かがドアに指を挟むのを見てイタッと思うことはあるだろう。ビルから人が落下するのを見て、自分があたかも〝落ちていく〟ような感覚を憶えることはあると思うね。ハプニングに遭遇したとき、見ている人の意識、視点が当事者に乗り移り、擬似的体験をしてしまうということは、あってもおかしくない、と思う」
「ふーん」
このドラマでは、警察が物的証拠を押さえていたことで事なきを得たが、もし「くる」と「いく」を言い違えたくらいで殺人犯だと言われるなら、あるお笑い芸人などは警察と話をする度に犯罪者にされるに違いない。
言い出したトシもそれ以上興味はないようで。少しでも喜びかけて損した。
「先輩」
「あ?」
「明日休み?」
「ああ」
――あっ。
「海いこ!」
「またか」
――しまっ……。
「また、って、どういうこと? こないだ先輩いってないじゃん。まさか」
「え? いや、この時期の海なんか」
「まさか、マサキ、マサキまさか。さあ、話してもらおうか」
痛恨のダブルフォルトだ。こうなるとマムシのトシ、このシチュエーションでこいつを煙に巻くことができるミステリー作家は恐らくいない。
「当事者」としての「疑似的体験」と、今話したばかりだとしても。
トシが一瞬揺れた、と思う間に万年布団にうつ伏せに倒され左腕を背中でホールドされていた。
「タップ、タップ、話す、話すから」
背中に乗る男は、果たしてテロリストを追い詰めるジョン・マクレーンかジャック・バウアーか。凄まじい気迫に、マサキは観念するしかなかった。
部屋の作りがそう思わせるのだろう、夏の昼間というのに、「眩しさ」よりも「暗さ」が強く印象される。
「あの日は、朝からとても暑かったのを憶えている」
マサキは、静かに語り始めた、恐怖体験の再現VTR風に……。
「そう、確かに、わたしは、わたしたちは海にいた、忘れもしない」
この日、立秋。「秋が立つ」とは名ばかりの猛暑。マサキは海にいた。
えっと。
「空、空の西北から東南方向、空高くに絹のような薄雲が流れる。反対側、東南の空、山のすぐ上に綿雲が、南東から北西に向かって流れ、途中で順々に消える。高さの違う雲が別々の方向に流れる、あれが即ち秋の気配だ、な」
しーん……。真夏の海で、人々のざわめきから取り残されるようにここだけ静まりかえった。
あるいは、男の周りだけ。
なるほど、一人男に、秋風ぞ吹く……。
七月『海の日』の翌日、成美の中学最後の大会を、マサキは会場で見ていた。
場所は聞いていたが、応援にいくとは言っていなかった。実際、当日までいくかどうかはわからなかった。
朝、起きて、
――もう間に合わないのは嫌だ。
そんな思いがマサキの体を強く押した。「余計なこと」をせずに後悔するのはもう御免だ。
会場に足を運んだのは初だった。
勝って仲間たちと喜び合う、これほど活き活きとした成美を、マサキは初めて見た。
意外な気はしなかったが、その笑顔を見て、ほっとした。
そして、敗れて辺りも憚らず涙を流す。成美の感情をここまで育て開放してくれた仲間たちに感謝。
マサキの胸も熱くなった。
成美に感謝。彼女たちに、礼。
涙ぐむ姿など見られていいはずがない。もとより顔を合わすつもりもない。
会場に一礼して外に出てきた。
ドン! 背中に衝撃!
振り向くと、いや、振り向く前にそれが何かはわかっていた(ヤンキーにいきなりいちゃもんつけられた、という思いも一瞬巡った。ほんの僅かな時間に様々なイメージが流れる不思議。人間の意識は、ときに光速を超える)。
「ヘンタイ。おかずにする気でしょ」
「なにがだ、いや、『おかず』とか言うんじゃない」
道着姿の成美が、いつものようにきつい顔を向けていた。
きついのは口元だけ、両の瞳はまだふやけたまま。少し顔が綻んだ男の股間を、少女の蹴り上げが襲った。
男は咄嗟に体を引いた。いつの間にか、マサキの前に集まっていた。成美を追ってきたのだろう。
「みんなの写真とってイヤラシイことに使おうとしてたんだよ」
成美が口走る。集まったのは成美を入れて五人。団体戦のメンバーだろうか。「ヘンタイ」の五乗がマサキを襲う。
「罰として、海に連れてげ」
「は? え? はぁ?」
ささやかな抵抗も空しく、少女たちを海に連れていくことは締約された。
(美穂のことで)忙しい、車がない、と延ばし延ばしにしてきた。
正直、いかずに済ませたい。いくとなれば責任は重過ぎる。
また、車は解決しようがない、という安心感もあった。
マサキの軽自動車では、まさか彼女たち自身いきたいとは思うまい。
「ヒロの親が貸してくれるって」
「多少ぶつけてもいいって言ってました」
解決した。
当日、ヒロコちゃんの家にいくと、そこは薄汚れた軽自動車が入るのも憚れるような立派な家だった。
早朝六時、応対してくれたのはお母さん。
「ほんと、成美ちゃんの親戚っていうから思ったとおり、好い人そうでよかった。娘をよろしくお願いします」
笑顔の溢れる素敵なお母さんがガレージに案内してくれた。
まあ、親戚だろう、うん。
二台の車は、どちらも……。「どうぞ」と言われてすぐに言葉もない。あてがわれたのは、レクサスだった。
「わたしが買い物で使ってる車で、あちこちこすったりしてるから。遠慮なく使ってください」
先頭打者ホームランを打たれたピッチャーが開き直るようなものか。覚悟が決まった。
無事に帰ってくる+レクサスを傷物にするわけにはいかない→事故など許されない!
運転は快適そのもの。運転が楽しいと思ったのは初めてかもしれない。さすがレクサス。
夏休みではあるが平日ということもあり、車は多かったが渋滞につかまることはなかった。
駐車スペースも、意外とすんなり見つかった。おっさん一人と少女五人。
――いったい、周りからどういうふうに見えるだろう。
「マサキは海入らないの?」
成美の弾けるような笑顔で聞かれた。マサキは海に入らない。
「泳げないんだよ」
木づちだから。言おうとして危うく止まった。「金づち」ではなく。
海ではしゃぐ彼女たちをパラソル(もちろんマサキのものではない)の下から眺めて、
――スクール水着じゃないんだな。
とそんなことを思った。
いっちょまえに、カラフルなビキニやワンピースかい。
帰りに備えて眠ろうと思っていたが、そんなことしてる暇はないことを、俄かに意識した。
――さっそく声かけられてるし……。
きっぱり断ったようで、男たちは離れていった。
男たちは中学生や高校生には見えない。夏の海には危険がいっぱいだ。
少女たちが持ち寄った昼食を食べて一休み。空を見上げて「あれが秋の気配だ」と説明したところで、真夏の浜辺に一陣の秋風が吹きすさんだ。
その後、六人が並んで横になった。マサキが目を覚ましたとき、パラソルの下には秋男一人残され。
左手首に見えない腕時計を見る。幸雄のことを思い出す。タオルで汗を拭きながら、ハーフパンツのポケットからスマホを取り出す。
十四時四十分。十五時を目安に引き上げを提案しよう。
帰りもおよそ四時間。安全第一、もちろん関越を使って帰る、帰り道を思い描いていた。
空は青かったが辺りには既に暮れゆく気配が漂い始めている。
――終わりにしたがっているらしい。
自分に苦笑いして見せた。
一日を終わらせたがっている、一刻も早くこの「責任」から逃れたく思っているひ弱い「自分」を突き放すように、もう一度、マサキは目を瞑った。
僅かでも眠りに落ちることはなかった。
十五時四十分、出発。静まり返った車内、路面を滑る音だけが聞こえている。
徐々に外も暗くなる。終わり間際になって、この安らぎ、この感慨。
いやいや、油断するな、まだほっとしたらアカン、家に着くまでが海水浴だ……。
それぞれ女の子たちを家に送り届け、アパートに戻って長野さんの麻婆豆腐を食し、二階に戻って「ふぅ」と一息吐いたのが二十一時二十分。こんな部屋でもほっとしてしまう。……女の涙は、高くつく。
「あの日のことを思い出すと今でも恐ろしい。もう二度と、あんな軽率なことをしないと、わたしは誓った」
しーん……。
その一瞬、テレビの音も消えた。外から聞こえる蝉の声が、薄まった室内の空気を埋め合わせるかのように。
情報番組が始まりテレビの音が戻った。静寂は一秒に満たなかったろう。「なんか声かけてくれなくてよかったかもだけど」と前置きして。
「だけど、それは明日海にいかない理由にはならない。てことで」
マサキの語り口が奏功したか、あるいは呆れたか、いずれにしてもこないだのことを五月蝿く詰められることは免れた。
が、海にいくことは決定らしい。
――なぜ、自分の周りはこんなのばかりなんだ……。
ふと楽しくなった。自分がおかしい。
昔と変わらない夏休み、部屋でだらだらとテレビを見て、思いつきで海にいったりして。
「あの頃」と変わらない自分の夏休みに、マサキは小さく微笑んだ。
美穂が人生で一番楽しかったと言った、あの頃……。