姉妹 (2)

文字数 7,022文字

 真っ暗な部屋で、幸雄はブログをじっと見つめていた。パソコンの液晶画面が自分の顔を照らしていることを不愉快に感じながら。
 ――タイヤ、石橋、はし……。
 マサキの言葉が、美穂の言葉と共振を起こし、幸雄の中で乱反射しているようだった。
 殺そうと思ったけど殺せなかった……、凶器、刺し傷、包帯……。安易と言えば安易に過ぎる。
 しかし、幸雄は頭の中にいる「二人」のことを消すことができない。
 二人の同僚が少しずつ黒く染まっていくのを止めることが、白く塗りなおすことが、透明であると信じることは、現時点では不可能だった。
 ――「信じる」ことが「友だち」なのか……?
 それとも、突き詰めることが「彼氏」なのか? 
 ソファーに横になる。目を瞑ると、さっき聞いた気味の悪い音が鼓膜に蘇った。
 鳥だろうか。美穂なら、知っているんだろうな……。
 ふっと気持ちが軽くなる。幸雄は、優しく抱えられるように、眠りへと落ちていった。

 翌日、会社にいって佐々木にも倉橋にも会った。会話を交わす気にはならなかった。
 相変わらず、幸雄が沈んでいる原因を「美穂」だと思っているのだろう。向けてくれる心配そうな表情に、どう答えていいのかわからなかった。
 昼はデスクで食べた。屋上に出ることはできなかった。倉橋の頭の包帯は、額のガーゼへと縮小していた。
 気を遣い心配してくれる友と、触れることも聞くこともできない彼女と。
 幸雄の「芯」が揺れている。大きく小さく揺れ続ける。
 折れそうで折れない「自分」を、幸雄は「強い」などとは思わなかった。
 ――もう、逃げたくない……。逃げない。
 美穂はずっとずっと苦しんでいた。何ヶ月も。
 それに比べたら、こんなこと!
 
 火曜日、夜九時四十分。この時間でもクソ蒸し暑い茶色いアパートの二〇一号室、二人の男が汗をかきかきパソコンと向き合っている。
「ほら、これ。これって、拡大とかできんの?」
 マサキの質問にトシが「できるよ」とあっさり(素直に)やってみせた。
 二人は今日も美穂の画像を見ていた。昨日、彼女の実家から帰ってきて、マサキが画像を念入りに見ていて、見つけた。
「先輩、これってなにかわかるの?」
 ああ、と言いながら、マサキは体を伸ばして網ラックの中段からCDを取る。
 画像の端にアップで映っていた男の左肩、僧帽筋の辺り、いわゆる「肩こり」の部分に見覚えのあるタトゥ。トシがCDを手に取る。
「『リトルパプテマス?』」
「そう、『リトルパプテマス』」
 アメリカのオルタナティブ・ロックバンド。ボーカルが特徴的で、これまた一時期はまっていた。
 男の肩にあるのは、このバンドのイニシャル『LP』のサークルロゴだ。PISとの関連を考えると。
「たぶん、こいつがタイヤだろう」
 初めは重要な証拠を見つけたような気になったが、ちょっと考えただけでもマサキに確認する術がないことは気づく。
「消されたデータを復活させることって、やっぱり無理か?」
「うーん」
 パソコン上の問題に向き合っているときの後輩は、それなりに頼もしそうな顔をする。
 フォルダのメールの中に、「動画」を送りつけてきているように読めるものが幾つかあった。
 フォトフォルダの中には動画ファイルはない。さすがに削除したのか。
 昼間、トシに〈復活できるか?〉とメールすると〈ちょっと見てみないとわからない〉と返事がきた。今見た結果、「無理!」だったようだ(初めから無理だったのかもしれないが)。
 ――見れる状態で残してあるような気はしたんだが……。
 動画ともなれば犯人に直接結びつくようなものが映っている可能性は大きいが、なくてよかった、とほっとする部分もある。
 ――会社に乗り込んで、殴り殺してしまうかもしれない。
 そのときトシが「おっ」と言った。「やっぱりね」。今までなかったものが現れた。隠しフォルダとして保存されていたようだ。
「開ける?」というトシに、マサキはすぐに返事ができない。
 パスワードはかかっていなかった。中に入っていた動画ファイルは四つ。
 リアクションのない先輩に合わせるように、後輩がフォルダを閉じた。
「後で、見ておくよ」
 地球の裏側と中継をつないでいるわけでもあるまいに。
 後で。質問をはぐらかす政治家を思った。
 ほんとに恐れているのは「殴り殺す」ことなどではないことを、マサキははっきり気づいていた。
 窓を開けて外の音を入れていたのは、虫たちの声が囚われがちなマサキの思考をかき回してくれると思ったから。嫌な空気が澱んでしまわないため。
「くさっ! 先輩、おならしたでしょ!」
「何を言い出す!」
 突然、こいつは。臭うと言えば、蚊取り線香くらい。マサキの好きな。
「自分のだから気づかないんだよ。勘弁してよ、ただでさえむさ苦しいのに」
「冗談言うな、(扇風機の)風向きから言ったらそっちからこっちだ」
 先輩やめたほうがいいよ幸雄さんの車でもしてたでしょ、するわけないだろ、知ってるって、知りようがない、他にもあのとき……。
 ほんとにトシの勘違いなのか、それとも別の何か意図があったのかはわからない。
 中身のない言い争いが、中身がないだけに軽々と部屋の(薄い)壁を越えて外へと漏れていた。
 二人分の足音が、茶色いアパートの階段を上がってくるのは、もう少し後のこと。

「で、なにか見つけたって?」
 いつかのように、パソコンに向かって三人が並んだ。真ん中に幸雄を挟んで、右にマサキ、左にトシ。
「先輩がさっきおならしたから気をつけたほうがいっすよ」
「ったく、そういうことはわざわざ言わなくていいんだよ」
「やっぱりしたんだ」
 扇風機の風は、三人に対して前から後ろに吹きかける。マサキとトシが後ろを振り返る。
 三人の背後には、奈緒がいた。奈緒が、鼻をつまんだ。「大丈夫だから」とマサキが言おうとして止まった。トシと目が合う。
「まさか、コマツくん、今」
 マサキとトシも鼻をつまんで、顔の前で掌を左右に扇いだ。
 幸雄が「ん、ん、ん」左右後ろと見て。
「してないから! 神さん、なに見つけたの!」
 さっきトシが拡大した画像を開いて見せた。
「なにこれ?」と言う幸雄にマサキがCDを見せ、それが世界的に人気のあるアメリカのバンドであることを説明した。
「わからん」という幸雄の答えは、ある意味当然だった。もし会社で誰かの肩にあるのを見ていれば同じ質問をしているだろう。
「バンドマニアでタトゥを入れてるような人間が、うちの会社に……」
『ペイジ』の影響でライブハウスに何度かいったこともあるが、他に、少なくとも幸雄の近くでそういう人間は知らない。
 幸雄の中で黒く染まりつつあった「二人」が遠ざかる。
 なんだかまるで別な、幸雄の知らない「二人」、それこそ顔も知らない、顔のない二人の男が近づいてくるようだった。
 美穂の体に覆いかぶさる顔の「見えない」男たち。
 ――〝あいつら〟じゃないのか。
 ほっとしたように、むしろ敵意の純度が上がった。
「まあ、調べるって言っても、難しいか」
 マサキの言葉は、質問というより独り言だ。社員の肩を「調べろ」とは頼めまい。
「肩ね」と幸雄も呟いてみるが、そりゃ簡単ではあるまい。一瞬、幸雄の鼻を抜けた臭いがあった。気づくともなく消えていた。
「幸雄さん、フェイスブックやってる?」
「やってるよ」
「それで調べてみましょうか。幸雄さんとこの社員でバンドのファン、えっとなんだっけ」
 トシがCDを持って「『リトルパプテマス』の大ファンていう人。どうせ先輩はやってないだろうから」と横目で睨むような後輩の視線に、先輩は自信を持って頷いた。
 マサキが「ちょっと」と言うのと「あの」という奈緒の声がほとんど同時だった。
 マサキが「ん」と照れ隠しともつかない促しを彼女に与えた。奈緒が小さく頷いた。
「わたしに、やらせてもらえませんか」
 幸雄がじっと奈緒を見つめた。静かになった男たちの中で、マサキだけが違うことを考えていた。
 ――俺の部屋で平然としている。やはり、〝妹〟だな。
「えっと、その前に、実は、隠しファイルを見つけた。中には動画が入っている」
 マサキの視線に、幸雄は明確な反応を見せなかった。
 背後の奈緒と、むしろ彼女から求められたかのように視線を合わせると、彼女ははっきりと頷いた。
 マサキはファイルの場所を明確にし、幸雄の右肩に手を置いて立ち上がった。
「さっき見つけたところで、わたしもまだ見てない」
 幸雄は「んん」と背中を伸ばした。マサキを見上げようとはしない。
 幸雄の真ん中分けの頭頂部、薄くなっていることをなんとなく期待したが、そんな様子はなかった。
「声が入ってるかな、と思うが、もしかしたら、顔も映ってるかもしれない」
 ――言うまでもないことを言ってしまったか。
 またしても。マサキは、どうも幸雄に優しくないようだ。
 肩から手を離すと、その掌で今度はトシの頭をこづいた。「出るぞ」の言葉に、後輩も立ち上がる。
 合わせるように奈緒も立った。その顔に迷いや影は見えない。
 自ら頷いておきながら幸雄一人に任せるという。胆のすわり方は姉以上かもしれない。トシに付いて妹も玄関を出た。パソコンと一人で向き合う男を、励ましていいのか、少しでも楽にしてあげた方がいいのか。
「やってみるさ。今度こそ、逃げずに」
 幸雄の台詞に頷き、マサキは「よし」と短く言って部屋を出た。視界の端、扇風機の首振りを固定してこようかと一瞬思った。
 もちろん、そんなことをせずに部屋を出てきた。

 隣の部屋は今日も暗い。その部屋の前で、奈緒とトシが柔らかい表情で雑談を交わす。マサキもそれとなく相槌など打ちながら、
 ――書生っぽが、彼女とよろしくやってんのかな……。
 女性が出入りしていることはわかっている。顔も見たことはある。
 目を引くような美人ではないが、こちとらの怪しいオッサンに笑顔で挨拶してくれた、いい子だった。
 成美は今日が最後の大会だった。惜しくも県大会への出場はかなわなかった。今頃は、もう眠っているのだろうか。
 女子の寝顔を思って「ヘンタイ」と聞こえたようだ。
 その声の後で、女の子は美穂のようでもあった。己のヘンタイっぷりが可笑しかった。
 何気なくスマホを見る。二〇一号室のドアが内側から開いた。三人が出てきて五分と経っていなかったろう。時刻は二十二時半を過ぎていた。

「恐らく、間違いない」
 幸雄が言った。何がどう間違いないのか、それだけで他の人間にはわからないのだが。
「佐々木、か」
 バランスボールの上に座るマサキが「こないだ」のことを思い出しながら言った。
 幸雄と二人きりで美穂のブログを見ていた、幸雄の「確認か」という呟き。それが何日前の何曜日の夜だったか、既に怪しい。
 動画に出ていた男は二人、声と、髪型、体型、そして顔の雰囲気から……。
「ああ。同期の二人で間違いない、と思う」
 トシは、卓の左側いつもの位置、パソコンの前に幸雄と奈緒が並んでいる。
 二人の背後、万年床の上、バランスボールにマサキが座る。
 幸雄のショックはわからなくもない。皆、言葉を失っているように、一見は見える。しかし、
 ――つらいのは、コマツくんだけだ。
 マサキにとってもトシにとっても、そして奈緒にとっても、事態は前向きでしかない。
「よし」とマサキが一つ発した。
「コマツくん、どうする? こっから先はわたしたちがやってもいい。どっちにしても、友人、いや、知り合いを失うことになるかもしれないが」
「どうするって、どうするんです?」
 幸雄の頭が横に動いた。耳だけ、マサキに正対する。
「メールを送って、おびきだす」
 幸雄自身はどっちの「どうする」のつもりで聞いたのか。
 ――日本語は、ややこしい。
 フェイスブックのくだりを思い出しながらマサキは続けた。
「奈緒さんにやってもらおうかと思ってます。どうしますか?」
 我ながら芸がないと悲しくなる。日本語を使いこなして飯を食おうという人間が、二人の人間に全く同じ聞き方をするとは。
「やります」
 即答且つ力強い。
 幸雄だって方向は決まっている。そう簡単に踏ん切れることではないだろう。
 友だちの少ないマサキには、余計にわかる気がした。
 踏ん切る一助になるかどうかはわからないが、「じゃあ」とマサキが作戦を話し始めた。
 マサキの頭の中には、終幕までの流れが映像となってはっきりと見えていた。

 湧き上がる虫たちの歌声は、天まで届くことなく地表を流れる。
 空に星はない。雲が町を覆っていた。遠くに見る街の灯りが滲んでいる。
 水曜日、夜十時。ふれあい公園の小高い築山からは、井伊市の夜景がよく見えた。
 公園内の街灯は既に消えている。どこからか揺蕩(たゆた)う明かりに二人の影も滲んでいた。
 マサキと風史の間を温い夜風が吹き抜けた。
「ちょっと連絡しない間に、そんなことになってるとはな。そんなこと、ということはないか。すまん」
 暫し、無言が続いた。
 マサキは、正直風史の言ったことをちゃんと聞いていなかった。自分を取り囲むオーケストラに耳を取られていたと言っていい。
 風史の「すまん」は聞こえたが、何に対しての「すまん」かはわからない。興味もなかった。
 
「まず、奈緒さんが二人と連絡を取る」
 マサキは自分の考えを話し始めた。「それって怪しくない?」トシが不信そうに言う。
「いきなり奈緒さんがメールするって不自然じゃないの?」
 内心、マサキはほくそ笑む。後輩と段取りしてあったかと、自分でも一瞬不思議に思ったほど。
「姉のパソコンの中のデータをたまたま見つけてしまった、と」
 万年床の上にいるため、妹と姉のモトカレの表情は見えない。二人とも、何か考えているようではある。
「姉のデータを返して欲しい、削除して欲しい。取引を持ちかける。会いましょう、会って話をしましょう、と」
「うまくいくとは思えないな。それでどうやってデータを消す?」
 〝冒険をしない〟ことにかけて、幸雄の言葉は強い。
「メールにウイルスでもつけて送るか? そもそも妹を名乗る人間からのメールなんて怪しすぎる。警戒してこっちの狙いに乗ってくるとは思えない」
 思えない。幸雄はもう一度繰り返して頭を左右に振った。後輩も同じような意見らしい。奈緒は、
 ――やはり、姉妹だな。
 ある意味では男二人はどうでもいい。奈緒さえその気があればいい。
「だから、会うんだって」
 
「会うって、いったいどうやって? いや、そもそも実際に会うのは危険じゃないか?」
 風史は今日も黒で決めている。黒い長袖ティーシャツに黒のパンツ。
「仕事」で久しぶりに近くまできたから連絡してみた、ということ。成美と、こっちも何日かぶりの家庭教師を終えて一人で本を読んでいたところだった。マサキはここまで歩いてきた。
「危険は、わたしも危険だと思う。でも」

 最初は、マサキが奈緒になり代わってメールのやり取りしようと考えていた。奈緒が否を言えばそのつもりだった。
 やはり危険を言う幸雄に反抗するように、「やります」と奈緒は言い切った。
 幸雄の「思い」を振り切るように、体ごとマサキに振り返った。
「どうすれば会えますか。なんでもします」
 強い瞳だった。まるで「初めからそのつもりだった」とでも言うほどに。
 その強さに、マサキは一瞬ひるんだ。
 奈緒が見つめるのは、彼女の意志をぶつけているのは、マサキではなく「美穂」だ。
 ひるんだのは勢いに押されたからだけではない。
 マサキの考えていたことを、そのまま言っていいのかどうか迷ったからでもある。無責任な話だが。
 それこそ、マサキの背中を「美穂」が押した。
「体を……、奈緒さんの体と、交換する」

「本気か? それを妹さんが?」
 アンサンブルが少し小さくなった。近くの川辺で鳥が鳴いた。ホトトギスではなかった。
「本当に体を売るなんてことはさせないよ。ただ、妹は首を横には振らなかった」
 女が強い、などマサキは言うつもりはない。あの子が特別なのだ。

「おい!」「先輩!」
 殴りかからんばかりの剣幕で、幸雄はマサキを睨んできた。
「信じらんねぇ! あんたなに言ってんだ! ありえねぇだろ!」
「ヒステリー」の語源は「子宮」であり、即ち女性に特有だと誤解されていた。このとき、男性と女性の反応は対照的だった。
 この状況を見れば、それが「間違い」だということはフロイトを待たずして明らかになったに違いない(実際、こんな場面は歴史上幾度となくあっただろうが)。
 ボールに座りながら、腕の汗を拭いた。
 もちろん、ほんとに取引するわけではない。マサキの説明に、幸雄は耳を貸さない。
「そういう問題じゃない! 美穂と同じことを、いや、同じ気持ちを奈緒ちゃんにも味あわせる気か! 冗談じゃない! 奈緒ちゃんの気持ちを考えろって!」
 幸雄の言が論理的でないことを、マサキは指さなかった。感情的になっているところに何を言っても無駄であるどころか、余計に煽るだけ。面倒臭い。
「わたし、全然平気です。やる。絶対に呼び出してみせる」
 まだ止めようとする幸雄の「すぐに決めなくてもいい、ちょっと家で考えてみろって」など、奈緒は取り合わない。
 二人の掛け合いが、マサキにはほんの少し嫉妬だった。
「オッホン、オッホン、ウン」
 咄嗟にタオルで口を塞いだ。マサキを咳き込ませた、蚊取り線香の煙。
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