姉妹 (3)

文字数 6,168文字

 幸雄と奈緒のプライベートを見たようだった。
 あの姉妹を説き伏せることは容易ではない。そんな二人が、なんとなくお似合いに見えて、マサキは嫉妬した。
「その妹さん、かなり根性入ってるな。姉さんもそんな感じだったのか?」
 風史は姉妹に興味を感じているよう。風史は無遠慮にそれができる立場にある。
「ああ。外見はあんまり似てないけどね」
 奈緒も、決してヒステリックではなかったが、皮膚の下は感情で満たされていたに違いない。
 会ってどうするつもりか、マサキは逆に心配になった。
 ――まさか、「姉の仇」なんて言わないだろうな……。
「具体的に、いったいどうするつもりだ?」
「まずは呼び出す。『画像を見つけてしまった』と言えば、やつらはそれで食いつく」
「簡単に信じるか?」
「疑う理由はない。なんせ本当の妹なんだから。取り引きを持ちかければ渡りに船。警察などに届けられる恐れを考えて、やつら乗らざるを得ない」
 妹がいることくらいは知っているだろう。名前も知っているかもしれない。
――なんなら、彼氏に、名前をそれとなく漏らすよう言っておくか。
 姉を自殺させた引け目もある。「体」と言えばなおさらだ。
 メールを見ながら、やつはにやける。胸糞の悪さが競り上がった。
 
「二人は、佐々木と、もう一人は倉橋ってやつだ。タイヤ」
「なるほど。はし、倉橋か」
 タイヤ←ブリジストン←ブリッジ・ストーン←橋・石←石橋←倉橋
 名前以上、幸雄は同僚のことを語りたがらなかったが、無理に話をさせる必要はない。
 この際、人となりは問題にはならない。というか、もう十分に判っている。美穂のパソコンから、十分すぎるほどに。
 奈緒はメールを読んでいた。相手は会社員の「佐々木」と「倉橋」ではない。
 予備知識は、かえって邪魔になる。
 奈緒が相手をするのは「PIS(パイ・イン・ザ・スカイ)一号二号」なのだ。奈緒は、そんな「計算」で見ているわけではないかもしれないが。
「いきなり『体で』とは言わずに、なるべく向こうからそれを言わせるように仕向けて欲しい。最終手段、ていう感じを匂わせて」
 奈緒が、パソコンから視線を逸らさず、前を向いたままマサキの言葉に頷いた。

 頭の上、雲の上からゴーゴーと落ちてきた。
「なるほど」という風史の投げ出すような言葉に、雲の上に「飛行機雲」を描きつつ、マサキは暗闇で相手に見えない笑顔を作る。
「で、どうするんだ、やつらを呼び出した、その後は?」
「したら、囲む。囲んでボコる」
 フッ、と風史が鼻で笑った。
「なんで最後はそうなるんだろうな。途中まではちゃんと控えめなのに」
「仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼(おそ)れず」
「『孔子』か。意外だな。神さんはどちらかと言えば『老子』の匂いだが」
「わたしのイメージだけど、勢いをつけるときは『孔子』のほうがいい」
「わかる気はする。で、神さんは?」
「知者は動き、仁者は静なり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。どっちかっていうと、知者寄りかな」
「なるほど、惑わず、だな」
 孔子曰く、知者は楽しむ、即ち今を懸命に楽しむ、生きるということ。「考える」ことは「動く」ことだ。
「場合によっては場所を分けるかもしれないんだ」
 日にちをずらしたりはできない。時間差では片方から相方にばれる。どうしても同時に呼び出す必要があった。
 二人同じ場所に呼び出すほうが自然かもしれないが、妹がいきなり「二人相手に」というのは逆に不自然ではないか、という意見がある。
 片方をダミーにしても、「同時」に会わなければない。
 両方ともダミーでもいいのだが、いずれにしろ二人を取り囲むために。
「人数がいる」
 そこでまたしても隣の男が鼻で笑った。
 マサキも最初から考えていなかった。
 風史から電話がきて、「暇か?」と聞かれた瞬間、「囲み」の人数に入れていた。
「一人増えただけで囲めるとは思えん」
「他にもあてはある」
 風史は一瞬考えたようだ(マサキはそう確信していた。夜、闇で、相手の姿は見えないのに。後に、ふっと思い出し、マサキは考える、「考える」とはどういうことか、と)。
「大丈夫か? 彼、もうチーム抜けたんだろ?」
「まあ、うん、どうかな。いちおう仲間とはいまだに連絡は取り合ってるみたいだが」
「そうじゃなくて、リーダーに貸しを作って大丈夫か?」
「ああ」
 そっちか。タケルの話では、リーダーがマサキとバイクで流したいと言っていたという。また会いたいらしい。
 ――大丈夫、なんとかなる……か。
 風史の溜息を漏れ聞く(後に思う。「伝わる」というのは、何かをした結果〝伝わる〟のではなく、最初から〝伝わっている〟のではないか、と)。
「報酬は?」
「鍋」
 決行が決まったら「当然鍋でしょう」とトシ。その発想が不思議だった。
 どんな頭の回転軸をしているのか。脳内診断は「女」と「鍋」だらけだろう。
「わかっている。だからなに鍋か、と聞いている」
「それはきてのお楽しみ」
 
 公園の駐車場に、見慣れた車のテール。運転席の外で、この日、初めてお互いの顔を確認した。
 道路の灯り、自動販売機の灯り。駐車場は眩しいくらいに明るい。
「まさかこんなことに巻き込まれるとは思いもよらなかった」
「強制ではないよ」
「こっちだっていくと決めたわじゃない」
「子のたまわく、君子は義にさとり、小人は利にさとる」
 これも『論語』より。君子は義を大事に考え、小人は利益を大事に考える。
 呆れた、とでもいうように口を歪めると、「じゃあな」とだけ言って風史は動き出す。インプレッサは例によって井伊市方面へと流れていった。
 虫たちの鳴き声をかき消すエギゾーストのこだまが長く尾を引く。消えると、静かな賑わいがマサキの周りに戻った。
 ズボンからスマホを取り出し、発信。話をしたくなったわけではない。着信を無視していたマサキだった。相手は小松崎幸雄である。

 マサキの部屋で動画を見た。衝撃は小さくなかったようだ。
 ――やっぱり……。
 なのだろうか。フロントガラスを流れる見慣れた景色。
 見慣れているだけに、そこに別の映像が滑り込む。
 顔ははっきり映っていなかった。声、話し方、僅かに映りこんだ横顔から、やつらが「やつら」であることは間違いないように思われた。
 ショックは大きかったが、なぜだか心が「後ろ向き」にならない。
 それは、みんながいるから。独りじゃないから。
 彼女の衣類は全部実家に引き上げた。化粧品などもドレッサーごと引き取られていった。
 思い出の品と呼べるのは、漫画と妖怪のぬいぐるみが幾つか。
 シャワーも浴びて、幸雄はソファーにどっぷり体を預けている。目を閉じる。
 ソファーの後ろを美穂が歩く気配。何か言っているようだが聞き取れない。
 このまま眠ろうもんなら、「えい」という掛け声とともに鬼太郎やぬらりひょんが飛んでくる。
「すまん」と目を瞑ったまま言ってみた。目は開かず、すぐに寝息が漏れた。
 寝顔は、笑っているようだった。

 目が覚める。既に外は明るい。
 幸雄はソファーに横たわっていた。少し窮屈な体が汗ばんでいる。
 テーブルの上のスマホを取る。六時四十分。珍しく、すっきりとした朝だ。
 落ちたのは一時前か。このくらいが丁度いいのかな、思いながら体を起こした。
 ぽとり。床に落ちた。
「おまえ……」
 誰のことを言ったのか。
 床に落ちている鬼太郎のことか?
 美穂のことか?
 それとも自分に言ったのか? 
 鬼太郎に言った。そこには「美穂」も「幸雄」も入っている。
 ぬいぐるみを持って立ち上がった。もとあった場所に戻し、カーテンを開けて部屋に光を入れた。
 眩しい。
 目を細めながら窓も開ける。ムッと体を包んだのは熱気。街と夏の熱。
 地表に近づくほど気温が高いとき、音は、放射状からより空に向かって屈折していく。
 幸雄の部屋はマンションの五階。七時ともなれば、街は十分熱い。
 五階にいる幸雄を下から突き上げる。窓を開けた瞬間から、幸雄は空を見上げていた。
 生まれて初めて見るような、淡く輝く空が広がっていた。
 支度をして玄関に立つ。入り口を開けて、体が外に出る、一瞬前。
「いってきます」
 はっきりと、〝向かって〟言った。鬼太郎に、部屋で、帰りを待っている。

 残業を済ませ、コンビニでちょっとしたつまみとビールを買ってマンションに帰った。
「ただいま」言いながら入り、部屋の電気をつける。時計の針は十時から五分ほどのところを通過している。
 テレビをつける。シャツとスラックスを脱ぎ、無地のティーシャツとトランクスでソファーに落ちた。
 どっかと胡坐をかく。ソファーの広さを寂しく感じなくなっていたことに気づいた。
 いつから?
 今が初めてのような気もするし、ちょっと前からこうだった気もする。
 その曖昧さがまた悲しくもあったが、ソファーのど真ん中は居心地がよかった。トランクスで大股開き、ハミチンを気にすることもない。
 ――だんだんと、慣れていくのかな。
「慣れる」という言葉を使ったのは初めてだったろう。テーブルの上に鳥軟骨ともずく。
 ビールを一口飲んだところで「箸忘れた」、立ち上がり、台所から箸を持って戻る。
「ふー」と言いながら息を吐いた。
 一拍、天井をじっと見上げて、電話をかけていた。
 つながらない。「なにやってんだ、女と会ってるわけでもねぇだろ」少しイラッとしつつ卓上に電話を置いた。
 箸が箸として動き始める。「うまい、うまいね、軟骨」アルコールが、すぐさま幸雄の血液を赤く染めたようだった。
「うまい」
 仕事は忙しい。プロトタイプを使いながらのデータ採り。
 印字サンプルのチェックも重要だが、装置の不具合によって印刷が止まることもしばしばで、ほとんど付きっ切りで作業をしていた。
 佐々木と倉橋に会う時間などない。
「レイプ」の挙句に「妊娠」(していないということだったが)、最低のうんこ男たち。せっかくの酒を不味くする男たち。
 それでも、激しい怒りや憎しみが体内で渦巻いている、ということはなかった。
 反面の「裏切られた」という絶望感があるわけでもない。
 環境室の中、うるさいほど空調が鳴る中、「環境室嫌いじゃない」という美穂の言葉が蘇ることもある。
 その言葉は「切なさ」を確かに伴うが、次に浮かんでくる映像は、今は亡き愛しい女性(ひと)ではなく、黒縁眼鏡とその仲間たち、妹の奈緒も一緒、だった。
 純然たる憎悪や絶望はどこにいった?
 とてつもなく蒸し暑苦しいあの部屋で、汗と一緒に体から出ていってしまったのか?
 ――ほんとにこれでいいのか? 俺、おかしい、間違ってるんじゃないか?
 LL環境でコートを着込み、五十枚/分で連続排出される紙をボーっと見ていると、こうして普通に仕事をしている自分が不思議に思えてくる。
 今すぐヤツラをぶん殴りにいけばいい。マサキの「作戦」通りに進める必要などない。
 ふっと、朝のことを思い出した。
 ――夜中に、起きて取ったのか……。
 ぬいぐるみ、落ちた、ぽとり。不思議というより可笑しかった。
 なんの記憶も残っていない。誰かが投げつけたわけでも、ひとりでに乗ってきたわけでもない。
 寝ぼけながら自分が手にとって抱いて寝たのに違いないのだ……、と決め付けることをしたくなかった。
「わけでもない」ことが起きたと思ったほうが、面白い。思い出して笑っている、自分がまた可笑(おか)しかった。

「なんで、美穂は電話してきたんだろう。なんでだと思いますか?」
 酔っている自覚はある。向こうが、恐らく酔っていない、とも思っている。
 相手はマサキだ。イラっとさせられてから四十分ほど経っている。
「彼女、最後なんて言ってた?」
「ごめんなさい、て」
 ごめんね、もう――。
「じゃあ、謝りたかったんだろう」
 幸雄はまた少しイラッとする。そんなことはわかっている。そんなこと「他人」に改めて言われたくはない。
「なんで俺が謝られなくちゃならないの? なんで」
 もう、疲れた――。
 ――謝るのは俺のほうだろうが。
 電話の向こうが沈黙した。波の音……。幸雄は少し悲しくなった。

 ――酔ってんな、こいつ。
 すぐにわかった。マサキは基本的に酒は嗜まない。
 電話もあまり嗜まないマサキが、電話で酔っ払いの相手をする割合はけっこう高い。
「なんですぐ電話に出なかったんすか? 女とでも会ってたの?」と、かけ直した電話にこう言われる。
 マサキは歩いている、茶色いアパートの二〇一号室に帰るために。
 ムカついたりはないが、面倒臭さはあった。無視するように「なんかあったかい?」と言ってみた。「なんでだと思いますか」とトーンが少し落ちた。
「なんで俺が謝られなくちゃいけないの?」
 風史との会話と対照的。自分で考えろ、と言いたくなる。
 意地悪だけではない。答えとは、得てして既に〝ある〟ものだ。
「お前がそんなこともわからないから、彼女に謝らせるようなことをする!」
 とは言えない。暫し沈思黙考。
 自分の足音がスマホから聞こえてくる。時折、歩道を歩くマサキの横を車のヘッドライトが流れる。
 車を運転するマサキが電話を耳に当てながら歩く男を見て思うことは、
 ――なに女と楽しそうに電話してんだ、コノヤロウ!
 である。
「プロポーズ、したそうだが」
「……はい」
 がっくりと生気が失せた。まるでそれが「自分の責任」であるかのように。
「彼女が、コマツくんのことを好きだったからだろ」
 案の定、今度は幸雄が黙った。
 意地悪半分で言ってみた。こう言えば、幸雄を黙らせることができると思ったから。
 もう半分は本心であり、「本心」の裏は「嫉妬」だ。
 ――わたしのとこにも電話はきたんだ。
 自分をすぐに慰めた。話はできなかった。それは悲しい運命だ。
「悲しい」という形容詞がついたほうが「自分らしい」と、マサキは自分を嘲笑う。街灯が照らす。
「コマツくんの気持ちにこたえられなかったこと、そしてもうこたえられないことを素直に謝りたかったんじゃないかな」
「なんで、自殺なんてしたんだろ……、なんで」
 マサキにはわかるような気がした。
 ただし、それは美穂との「近さ」の証明ではない。あくまで「小説家(の卵)」として「人の気持ち」が「理解できる」というに過ぎない。
 ゾゾッ。背中に何かが入ったよう。思わず、マサキは足を止めた。
「彼女は、苦しかったんだ、ずっとずっと……」
 俺のせいだ、と電話が小さく言った。マサキはそんなものなど取り合わない。
「死にたかったんじゃない、もう、それしかなかったんだ、選択肢が」
 いろいろなことが積み重なった。「わたしたちが彼女を殺した」言いたかったが言わなかった。
 選んだのは彼女だ。
 二万人からの年間自殺者のほとんどは恐らく「未来を絶望」して死んでいくのだろう。
 愚かなことだ。
 彼女は違う。「島方美穂」はそうじゃない。
 彼女をそうせしめたのは、彼女を支えてくれた人たちへの「不義」、そして「殺人(未遂)」。
 責任をとって、彼女は自らの道を決した。
 愚かなことだ。
 マサキは一つ息を吸う。
「コユキ!」
 街灯の光の下に立ち尽くす男の姿を、マサキは見た。虫たちの声を押し潰すように、感情を、光の下の男に、マサキは思い切りぶつけた。

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